23.呼び捨て
校舎裏にある人気のない場所に辿り着くまで、可恋は何も言わなかった。
愛は初めは暢気に「そろそろ暑くなってきたね」などと話しかけていたが、可恋が真剣な表情を崩さなかったのでやがて口を噤んだ。
愛にしてみればなんだか息苦しい。可恋とふたりきりのときにこんな雰囲気になるのは初めてのことだった。
もしかして可恋ちゃん、何か怒ってる……? 一瞬そう考えたが、怒るような理由はないはずだとすぐに思い直した。
私は別に可恋ちゃんのことを蔑ろにしているわけじゃない。可恋ちゃんだって、それくらい分かってくれるはずだろう。――そんな考えは傲慢だろうか。
「ここまで来ればいいんじゃない? 周り、誰もいないよ」
校舎から賑やかな声は聞こえてくるが、こちらを覗き込めるような窓もない。校内にはこれ以上、人の邪魔が入らない場所はないだろう。
本当の意味でふたりきりになりたいのであれば、お互いの家にでも行かないといけない。
「そう、だね……」
憂いを帯びた表情で可恋は呟く。やはりいつもの様子ではない。それほどまでに思い詰める理由は愛には分からなかった。
「あのさ、私何か悪いことした? そりゃ昼休みに話を聞かなかったのは申し訳ないとは思うけど、今こうやって話を聞こうとしてるんだし」
「そういうわけじゃないけど……。ん……」
可恋は何かを言いかけて黙り込んでしまう。愛は自分から話しかけておいてはっきりしない態度に少し苛つく。
いや、分かってる。可恋は決して口が回るタイプではない。どう言えば自分の言いたいことが上手く伝わるか分からず逡巡しているだけなのだ。
そう理解はしつつも、愛はこのあと道場に行かなければならないのだ。時間がないのに、ただ黙って突っ立っていられると気が急いてしまい、つい語気を荒げてしまう。
「ゆっくりでいいから何か言ってよ。黙ってちゃ分かんない」
「……分からないわけはないよね。正義くんのことだよ」
「ん……」
もちろんそれは想像してなかったわけではない。今このタイミングでふたりだけで話したいことと言ったら、それしかないだろう。
しかし、こちらの語気が強かったとは言え、少々棘を含んだ言い方をされて愛は面食らってしまう。
私はそんなにいけないことをしただろうか。いや仮にそうだとしても可恋には関係のないことのはずだ。
「それで?」
なるべく柔らかい言い方をしたつもりだったが、それでもどこか冷たい口調になってしまう。
でも自分のほうから「ここが悪かったってこと?」なんて訊きたくない。人の行動にケチをつけるなら自分の口でちゃんと説明して欲しかった。
そこまで促してようやく可恋が口にした言葉は、
「正義くんに話しかけるのはもうやめたほうがいいと思う」
――全否定だった。胸がずきりと痛む。そこまで言われなきゃいけない理由ある?
「なんで?」
「……」
「はっきり言ってよ」
「……愛ちゃんが傷付くから」
「は?」
「だから、愛ちゃんが嫌な思いをするかもしれないから、もう話しかけたりしないで欲しいってお願いしてるの」
「意味分かんない。話しかけることすら駄目ってどういうこと?」
「それは……」
「正義くんが悪い子だと思ってるなら、可恋ちゃんは誤解してる。彼はただほんの少し素直じゃないだけ。
可恋ちゃんが思ってるような子じゃないよ。可恋ちゃんは正義くんが不良だとでも思ってるの?」
「…………」
「そこで黙んないでよ。はいかいいえで答えられる質問でしょ」
「不良ではないと思う……」
「そう。じゃあ、この話はここでおしまいだね。バイバイ、可恋ちゃん」
「ま、待って! そうじゃなくって……」
「やだよ。こんなことで可恋ちゃんと喧嘩したくない」
「……ごめんなさい。でも言えないことがあるの。それでも私を信じて欲しい」
「分かった、……とは言えないよ。理由も分からず、そんなこと従えない。
可恋はさ、たまに私のこと子供扱いするよね。私だってやっていいことと悪いことの判断くらい自分でつけられるよ。
だから余計なお世話。あんたは私の母親じゃない」
「愛は都合の悪いときだけ、私のこと呼び捨てにするよね」
「……何それ。ってか、あんたも今呼び捨てじゃん。
あーもう、やめようよ! これじゃ喧嘩になるってば!」
「愛はいつもそう! 私の話を聞いてるようで、全然真剣に聞いてない!
愛のほうこそ、私のこと格下だと思ってるんでしょ!? だから私に何か言われてムカつくんでしょ!?
私はこんなにも愛のことを想ってるのに、あなたは全然私の気持ちを汲もうともしてくれない!!
ひっく、私はあなたにとって、ぐすっ……、その程度の存在なんでしょ……!? うわああぁああん!!」
「ちょ、ちょっと、可恋、……ちゃん。落ち着いてよ!」
可恋の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。彼女はそのまま泣き崩れてしまう。愛は慌てて駆け寄り背中を摩る。
「ひっく、ふぇええん……」
「ごめん……、今のは私が言い過ぎた。だからもう泣かないで……」
愛は彼女をぎゅっと抱きしめる。可恋は愛の腕の中でしばらく嗚咽していたが、「ひっく、あのね……」と口を開く。
「うん、大丈夫。ゆっくりでいいから聞かせて」
愛は彼女の透き通るような長い髪を撫でながら、耳元で優しく囁いた。可恋も同じく囁くように言った。
「……私、愛ちゃんのことが好き。大好きだよ」
「うん?」
「だから、愛ちゃんには少しでも傷付くようなことはして欲しくない。
それが私の我儘だってことは知ってる。でも私は……」
「……そっか。うん、それ以上は言わなくていいよ。
大丈夫。私も可恋ちゃんのこと大好きだし、可恋ちゃんが本当にして欲しくないことなら私はしないよ。ごめんね」
「うん……、うん……。ありがとう……」
やがて可恋が泣き止むと、愛はゆっくりと身体を離した。だが、可恋は相変わらず顔を伏せたままだったので愛は心配になってしまう。
「大丈夫? もう落ち着いた?」
「平気……。でも今酷い顔してると思うから、見られたくない」
「……そう。ひとりで帰れるよね? 私もどこかで頭冷やしてくるよ。
正義くんのことは少し考えさせて。可恋ちゃんには悪いけど、やっぱり今すぐYESとは言えないよ」
「うん……」
このままひとりにしていいのか愛は悩んだが、これ以上そばにいるのはむしろ可恋にとって苦痛なようだった。
愛は可恋に背を向けて校舎裏から立ち去った。あとに残されたのは蹲る可恋と一陣の風だけだった。




