22.追いかけっこ
「こら! 廊下を走るんじゃない!」
「ごめんなさい、先生ー! 今日は見逃してー!」
愛は叱りつける先生にも構わず正義の背中を追いかけていた。
逃げる正義は最初は小走りだったが、愛が本気で追いかけてきていると知ると、全力で駆け出していた。
「なんだよ、あいつ! なんでこんな必死に追いかけてくるんだよ!」
そんな風に叫んだところで体力の無駄遣いをしているだけだ。正義が階段を飛び降りるような勢いで下ったり生徒たちの隙間を縫ったりして振り切ろうとしても、その差が広がることはなかった。
いや、むしろなりふり構わず追いかけてきている分、この追いかけっこは愛のほうが有利だった。徐々にその差を詰めていく。
「待ってよ、正義くーん! お話したいだけだからさー!」
「いや、こえーよ! 全力で捕まえようとしてるじゃねえか!」
「そんなことないよー! 安心してー!」
「できるかっ!」
このままでは愛は止まれと言っても止まらないだろう。お互い本気の追いかけっこなら、追いつかれない自信はあるが、このままでは埒が明かない。
そうこうしているうちにお昼休みの時間もなくなってしまうだろう。愛がなりふり構わず追いかけてくるのならば、正義のほうにも考えがあった。
今、正義の目の前には1階の男子トイレの入口がある。いくらなんでもここまでは追いかけてこないだろうと、正義は男子トイレに駆け込んだ。
だが、その考えは甘かった。愛の追いかける足音は正義がトイレの奥まで走っても止まることはなかった。
振り返るとすでに愛はトイレの入口に入ろうとしているところだった。
「おい! ここ男子トイレだぞ!」
「正義くんが逃げるからじゃん! ちょっと待ってよ!」
そう言いながらも愛は正義のほうに詰め寄っていく。むしろここでは袋の鼠かと思われた。
だが、身長152cmの小柄な体型の正義ならトイレの小窓から外へ逃げ出すことが可能だった。
転落防止のため、全開には開かないような設計がなされているが、正義は小窓に手をかけるとするりと抜け出し、そのまま校舎裏へと逃げ込む。
スクールシューズのままだが、靴を履き替えているような余裕はない。
そして、そこは昨日の昼休みに弁当を食べた非常階段のすぐそばでもあった。どうやら上手く撒けたようだと正義が溜息をついた瞬間、背後に気配を感じた。
恐る恐る振り返ると、やはりそこにはもはやトラウマになりそうなほど必死な形相の愛がいた。
「はーっ、やっと追いついたー。ここが正義くんのお気に入りの場所?」
だが、その必死さとは裏腹に汗はひとつもかいていなかった。それだけではなくすぐに平然とした様子になり笑いかけてきた。
愛はトイレの小窓をすり抜けたわけではない。正義は振り返りながら確かめたので、それは間違いなかった。
おそらく愛は正義がトイレの小窓に手をかけた瞬間、方向転換をし玄関先から校舎裏へと回ってきたのだ。それは明らかに正義よりも遠回りだった。
「お前……、一体どんな脚力してんだよ……」
そう言いながら正義は後ずさる。愛とは反対の方向からもう一度校舎をぐるりと回れば、今度こそ撒けるかもしれない。
「また逃げる気ー? お昼休み終わっちゃうよー?」
「誰のせいだよ……。あーもう、参った参った。勝手にそこらへんに座れよ。
ただし、お前が話しかけてきても俺は返事しねえからな!」
そう言って正義は観念したように非常階段に腰かけた。愛はその非常階段の隣のコンクリートの地面に膝を抱えるように座った。
「別にいいよ、それで。いやー、それにしても運動したからお腹が空いたねー」
愛がそんな風に無邪気に笑うと、正義もつい心を許してしまいそうになった。愛が一方的に話しかけてきても返事をしないつもりだったが、つい相槌を打ってしまう。
「ああ」とか「おう」とか、短い一言でも愛は自分に少しずつ心を開いてくれているような気がして嬉しくなった。
不思議とそれはお互いにとって心地のいい時間であり、結局次の授業の予鈴まで愛のお喋りが止まることはなかった。
そしてそれから帰りの会の時間となり、教室に入ってきた松永先生が辺りを見回すと、そこに正義の姿はなかった。
松永先生はぽっかりと空いた正義の席を見ると、保健委員で愛のオタク友達でもある小宅知恵という女子生徒に訊ねた。
保健委員は男女別で分かれているが、男子の保健委員は今日は親戚の法事があり休みだった。
「えー、正義くんはまだ教室に戻ってないのですか? 6限の授業の前に気分が悪いと言って保健室に行ったとは聞いていますが」
気分が悪いというのは半分嘘だ。実際は昼休みに愛と追いかけっこをしたせいで疲れ果ててしまったらしい。
いや、正確にはそれは授業をサボる口実だったのかもしれない。愛に心を開きかけていても、そうしたサボり癖を直すにはまだ時間がかかるようだった。
「私、様子見てきましょうか、先生ー?」と知恵が答えると、松永先生は頷きかけたがふと思い直して、それを止めた。
「いや、えー、もう下校の時間ですからね。その必要はありません。えー、あとで私が様子を窺っておきましょう」
松永先生はそう言うと、そのまま帰りの会を進めた。そして帰りの会が終わり終業のベルが鳴ると、可恋が愛に話しかけてきた。
「ねえ、愛ちゃん。今ならいいかな……?」
「あ、昼休みはごめんね、可恋ちゃん。うん、今ならいいよ。
道場はあるけど、ほんの少しなら遅れてもいいしね」
愛は横目に正義の席をちらりと見たが、正義と仲良くなるのに今日だけで一歩も二歩も前進したはずだ。今は焦る必要はないと感じた。
しかし、安堵したような表情の愛とは裏腹に可恋の顔は深刻そうだった。そして、可恋は周囲の、――特に勇気の様子を気にしているかのように戸惑いの表情を浮かべていた。
「……ここじゃ話せないようなこと?」
「できれば校舎裏まで来てくれると嬉しい」
「分かった。勇気くんー、私ちょっと道場遅れるかもだけど、お爺様によろしくねー」
「え? ああ、了解」
愛はそれだけ勇気に伝えると可恋ともに校舎裏へと向かった。可恋がどれほどの想いを抱えているのかは知らないままに。




