19.白石あかね
6限の授業までのすべての授業が終わり下校の時間になった。他の地域ではこの下校の時間以降のみを「放課後」と言うらしい。愛知県では「放課」とは授業と授業の合間の休み時間のことだ。
愛はやや左斜めうしろに目をやる。途中可恋と目が合ったが、愛の目線はその先の、教室の隅の正義の席に向かっていた。――だが、彼の姿はすでにそこにはなかった。
下校時間のチャイムが鳴ってから30秒も経っていないが、帰り支度をすでに済ませていたのだろうか。ほんの一瞬で教室から出ていったようだった。
5限の体育の授業のあと、やけに不機嫌な希望を目の当たりにした愛と可恋は、勇気から5限の体育の授業で何があったのかを聞いている。
だが、愛としてはそれを聞いたところで、特にどうとも思わなかった。せいぜい「何かサッカーが嫌いな理由があるのかな?」と思ったくらいだ。
できればそれを本人に訊いてみたかったのだが、すでに下校のあとならば仕方ない。今日は夕食のあとに大地たちとスプラトゥーンのネット対戦をする約束もしているし、あまり帰りが遅くなっても困る。
だが、今日は家に帰る前に一ヶ所だけ寄りたい場所があった。愛はそのことを可恋に伝えて先に帰ろうとしたが、その前に可恋が口を開いた。
「やっぱり気になる?」
可恋はなんの話かは言わなかったが、愛の目線が正義の席に向かっていることに気付いてそう訊ねたのだろう。
「そりゃ気になるよ。少なくともこれから数ヶ月一緒に過ごすクラスメイトなんだから」
「……そっか。そうだよね、クラスメイトだもんね」
そう言ったあとに可恋は少し「うーん」と唸った。しかし、それは正義の態度や、愛が正義を気にかけていることに対してではなく、何か他に気になることがあるといった様子だった。
「どうしたの、可恋ちゃん?」
「ううん、私の記憶違いかもしれないんだけどね。『花道』って名字、どこかで聞いたことがあるような気がして」
「名字? 確かに珍しい名字だよね。『緋色』もよっぽどだけどさ」
自分の名字を口にされたためか、そこで勇気も会話に加わってきた。
「可恋ちゃんはそれをどこで聞いたのかな?」
「はっきりとは覚えてないけど、確かおじいちゃんがそんな名前の知り合いの話を昔していたような……」
「おじいちゃんってハワイに移住したおじいちゃん? うーん、そう言われると俺もどこかで聞いたような気がするな。
何か有名な人の名字が『花道』だったような……。まあ、何か分かったら教えてよ。俺は剣道部に行ってくるね」
剣道部へ向かう勇気の背中を見送ったあと、愛も自分の用事を伝えて下校しようとして言った。
「私も帰りに本屋寄って帰るからさ。今日のところは別々に帰ろうか、可恋ちゃん」
「あ……、それなら私も行くよ。欲しい小説の新刊も出てるし」
「そう? じゃあ、校門の前で待ってて! 私、お手洗い行ってくる!」
「うん」
可恋の言葉は半分は嘘だった。今はなんとなく愛のそばにいたかったのだ。
正義のことを気にかけて疲弊しかけているように感じられたからだった。自分が話し相手になれば、少しは気が楽になるかもしれない。そういう想いだった。
一方その頃、正義の姿は下駄箱の先の出入口の前にあった。すでに靴も履き替えてあとは帰るだけという状態だったが、帰ったところでやることもない。
かと言って、部活動の見学などするつもりはないし、当然部活に入るつもりもなかった。正義は誰かとつるんで何かをすること自体、性に合わないと思っていた。
どこかゲーセンでも行って暇をつぶそうか。そんなことを考えながら、ふと校庭のほうに目をやると、体育の授業で使っていたサッカーのフィールドにまだボールがひとつ残されていることに気付いた。
「なんだよ、あいつらちゃんと片付けしてないじゃねえか」
5限の授業で使われたボールだという確証はなかったが、正義はそうだと決め付けて毒づいた。……実際その通りなのだが。
授業中に誰かが遠くに蹴り飛ばしたボールをそのままにし、新しいボールを倉庫から持ってきたものだからそのボールだけ片付け忘れていたのだ。
その放置されたボールが風に吹かれて、フィールドのほうまで戻ってきたところだった。それは体育委員である希望の責任である。
「まったく仕方ねえな」
正義はそのボールに近付くと、思い切り足を振りかぶって蹴った。そのボールはゴールに吸い込まれネットが大きく揺れた。
見事な放物線を描いた完璧なシュートだった。もしも観客がいたのならば歓声が上がっていたことだろう。それは明らかにサッカー経験者の実力を感じさせるものだった。
そのとき正義は視線を感じて、その方向に向き直った。――その視線の主は可恋だった。
「あ? 何見てんだよ、てめぇ!」
「あ……、ご、ごめんなさい!」
正義に怒鳴りつけられた可恋は反射的に謝ってしまった。
学校を出たところでたまたま正義の姿を見つけ、そのシュートに見惚れていただけなので謝る必要はなかったはずだが……。
「お前、あの妙な女の友達だろ? あいつに言っておいてくれよ。
もう俺にしつこく絡んでくんなよってな」
「…………」
正義が校庭のほうから歩いてきて、可恋とすれ違いざまに吐き捨てた言葉だった。
だが、可恋はそれに対して素直に「分かった」とは言えず、ただ黙って正義が去っていく姿を眺めることしかできなかった。
……分かってる。正義の言い分は間違っていない。可恋としても、愛が妙なことに首を突っ込むのは好ましいことではなかった。
でも、だからと言って、愛のやろうとしていることを軽々に否定したくはなかった。
「お待たせー! あれ? 可恋ちゃん、どうかした?」
そこにタイミングよく、愛のほうもお手洗いから戻って来たようで、校庭を見つめてボーっとしている可恋にそう話しかけた。
「ううん、別に大したことじゃないよ」
「そう? ならいいけど。じゃあ行こっか」
そうしてふたりは本屋に続く道を歩き始めた。道中の会話は他愛のないもので、愛も時折笑顔を見せてくれていた。
可恋はこの笑顔が大好きだ。だから、愛にはずっと笑っていて欲しいと思うし、その笑顔を曇らせるようなことにはならないで欲しいと強く願ったのだった。
「あれー? 置いてないなあ、『イカピーのぜんざい』」
『イカピーのぜんざい』とは今インターネットで話題沸騰の人気コミックであった。
本屋にやってきた愛は新刊コーナーから既刊の漫画棚と隅々まで探したが、目的の単行本が見つからないようだった。
その様子を見て可恋が訊ねる。
「その漫画っていつ発売だったの?」
「今日だよ。だからまだ売ってると思ったんだけど、売り切れちゃってるのかなあ。
突然バズった作品だから、発行部数がそんなになかったのかも……。
凄い人気作になってるからなあ、イカピー」
愛はそう言いながらも諦め切れないのか、確認したはずの新刊コーナーを再び探したが、やはりどこにもその漫画はなかった。
念のため店員さんに聞いてみようかなと、周りをきょろきょろしていると、本を抱えたお客さんのひとりに話しかけられた。
「あの……、もしかしてお目当ての本はこれかしら……?」
美しい白い手から差し出された本はまさしく『イカピーのぜんざい』であった。
「え? でもそれってあなたが買おうとしてたものじゃ……」
そう言いながら漫画本からその人の顔へと視線を移した愛はほんの少し驚いた。
雪を欺くような白さはその手だけではなく、その肌も髪も全てが透き通るように白く美しかった。
一方でその眼だけは赤みがかっており、黒地に白いフリルの付いたゴスロリの服がとてもよく似合っていて神秘的だった。
その女性はいわゆるアルビノという遺伝子疾患を抱える人なのだろうと愛は内心思った。
約2万人にひとりとも言われる病気だが、愛は創作物以外でアルビノの人を見るのは初めてだった。
「いえ、いいのよ。そちらは保存用のつもりだったから。
ほら、こっちにもう一冊あるでしょう……? ……でもよくないわよね?
SNSを見るとどこの本屋でも売り切れ続出しているみたいだし、転売屋みたいな感じになるから、やっぱりやめておこうと思っていたの」
そう言ってアルビノの女性はもう一方の腕に抱えていた本を愛に見せた。確かに同じ漫画本を2冊持っているようだった。
それを確認すると愛はお礼を言って、差し出された漫画本のほうを受け取った。
「あ、ありがとうございます……!」
「くす、どういたしまして……。そちらの子はお友達かしら?」
女性は呆然とした様子の可恋を見ながら尋ねた。可恋もまたアルビノの人を見るのは初めてだったのだろう。
いや、そもそも愛とは違って、知識としてその存在を知らなかったようだ。その目は珍しい動物を見るかのように丸くなっていた。
「ごめんなさい、私こんな姿だから……、驚かせちゃったかしら?」
「あ、いえ! そんなことは……」
可恋の表情を見て申し訳なさそうな顔をする女性に対して、慌てて可恋は否定するが、その驚きは隠し切れていないようだった。
「いえ、いいのよ。私も急に話しかけちゃったんだし。それじゃさようなら」
女性は優しい人だった。驚く可恋にも気を遣ってフォローをしてくれた。
おそらくその姿が原因で傷付くこともこれまでにあっただろうに、淑女のような振る舞いができるとても素敵な女性だった。
愛はそんな女性とここで別れるのはもったいないような気がして、立ち去ろうとする女性に勇気を出して訊いてみた。
「あのっ、お名前を聞かせてもらってもいいですか?」
「名乗るほどの者じゃないけど……、白石あかねよ。
大学生をやっているの。あなたたちは中学生かしら?」
「はい、白石さん……、あの、私、白石さんの感想が聞きたいです! この漫画の感想!
白石さんみたいな優しい人がこの漫画を読んでどう思ったのか、私気になります!」
「えー……、うふふ、本当に私、そんな大した者じゃないのよ? それでもいいのかしら……?」
あかねは困惑したような顔を浮かべながらも、満更ではなさそうな様子だった。
女子中学生が懸命に引き留めようとする姿が微笑ましくも愛おしかったのだろう。
「はい、もちろんです!」
「……じゃあ、LINEのアカウントを教えるわね。こんなところで長話もなんだから、あとでお話ししましょう」
「はい、ありがとうございます!」
そうして愛とあかねはLINEのアカウントを教え合った。可恋はまだ警戒心が解けないようで、ただその様子を黙って見ているだけだった。
もし愛があかねと交友を深めて信頼していい相手だと確信できたなら、可恋にもそのアカウントを教えようということになった。
「うふふ、こんなにかわいいお友達ができて、私も嬉しいわ」
そして、そのままあかねは優しい微笑みを見せながら、先に本屋のレジへと向かっていった。
愛と可恋は、可恋の目当ての小説を見つけてから買い物を済ませ、本屋を立ち去った。その帰り道で可恋が感心したように言った。
「すごいね、愛ちゃん。誰とでも友達になれそう」
「あは。それ今朝、勇気くんにも言われた」
「そうなの?」
「うん、今朝大地くんとすれ違うところを見られたみたいで。
そうそう、あの子たちとも仲良くなって、今日はこのあと一緒にゲームのネット対戦するんだよ」
そう言いながら、愛は強く思った。……そうだ、私は誰とでも友達になれるのが強みなんだ。
だからきっと正義くんにも根気よく話しかけ続けていれば、いつかきっと友達になれる。明日もめげずに頑張ってみよう。
そのとき一瞬可恋の表情が曇っていたが、愛はそれには気付かずそう決心したのだった。




