16.一瞬触発
その日の授業は英語から始まった。英語の服部先生がすらすらと黒板に英文を書いていき、生徒たちがそれをノートに書き写していく。初めからノートを取る気のない希望はさておき、勇気も愛も、そして可恋も一言一句間違いのないように書き写していた。
――正義は違う。先生の話を聞きながら、時折メモを取るだけで黒板の文章を丸々書き写すようなことはしなかった。左端には気になったキーワードを書き込むスペース、下端にはまとめの文章を書き込むスペースを開けてある。これらのスペースは復習の際に書き込むために開けてあるものだ。
これはいわゆるコーネル式ノート術というものだった。アメリカのコーネル大学で開発されたシステムで、授業の内容を要約して自分の言葉で書くことで記憶に残るという利点がある。正義にこうしたノートの取り方を教えたのは父であった。
「では、今書いた英文を誰かに読んでもらおうか。さっきから手を動かしていない希望くん、どうかね」
「お、俺っすか!?」
突然指名された希望は慌てて立ち上がり、そしてなんともたどたどしい発音でその英文を読んでいく。途中、「would」という英単語を「ワールド」と読むと、周りからクスクスといくつかの笑い声が漏れた。その笑い声の中には愛のものも混ざっていた。
言うまでもないことだが、「ワールド」の綴りは「world」だ。「would」は「~だろう」「~するつもりだ」といった意味を持つ英単語で「ウッド」と読む。先生や希望以外の生徒はその誤りに気付いている様子だった。
「こらこら、笑うんじゃない。希望くんもそこまででいい。誰か別の者に読んでもらおう。……おや、そう言えば君は」
先生は正義の顔を見ながら何かを思い出しているようだった。正義はすぐにそれに気付くと先生と目を合わせて言った。
「俺?」
「ああ、確か君はアメリカの学校に留学していた経験があるそうだね。松永先生から聞いてるよ。
転校してきたばかりですまないが、皆にその勉強の成果を披露してやってくれないか?」
「……それ小1から小2のときの話っすよ。まあいいけど」
希望が悔しそうに座る一方で、正義は自信ありげに立ち上がり、黒板に書かれた英文をぺらぺらと読んでいった。
ただ言葉に詰まらず読んでいるというだけではない。その発音も完璧で先生も文句の付け所がないようだった。
「うむ、素晴らしい! 希望くんはあとでしっかり復習しておくように!」
先生がそう言って正義を褒めると、小さな拍手すら沸き起こった。それくらい正義の英語は上手かったのだ。そして、まるで終幕の合図のようにチャイムが鳴り響いた。
「では、今日の授業はここまで。日直、号令を」
先生に言われ日直が号令をすると、この日の英語の授業が終わり先生は教室から出ていった。そのあとはもちろんクラス中が待ちに待った正義への質問タイムだった。
「正義くん、さっきの英語すごいね! アメリカの学校に行ってたって本当!?」
「どこから転校してきたの?」
「部活動はどうするか決めてる? よかったらうちの吹奏楽部に来ない?」
そんな風に矢継ぎ早に、――主に珍しいもの好きの女子生徒たちからの質問が寄せられる。
その中には愛の姿もあった。正義はだるそうにだが、それに順番に答えていく。
「さっきも言ったけど、アメリカの学校に言ってたのは小1と小2のときだけ。親父に無理矢理通わされただけで、別に騒ぐほどのことじゃねえよ。
前は日入中に通ってた。部活動は別に興味ねえな。どうせお遊びだろ?」
突き放すような物言いに、ほとんどの生徒はぎょっとするが、愛は気にする様子もなく続けて訊いた。
「日入中って、すぐ近くの日入中? なんでそんな近くから転校してきたの?」
日入中と言えば同じ市内の中学校だった。実は可恋の家からはこの滝登中よりも日入中のほうが近い。
可恋は愛に誘われて、同じ中学校に通うためにわざわざ遠い滝登中を選んだのだった。とは言え、通学時間が片道数分変わるくらいのものだ。
そんな近さの学校だということを愛は知っていたので、何故そんなところから転校してきたのか疑問に思った。
「別に大した理由じゃねえよ。なんでもいいだろ」
正義はぶっきらぼうに答える。それでも愛はめげなかった。
「さっきの英語、すごく上手かったけど、アメリカの学校でいっぱい勉強したの? 勉強熱心なんだね!」
「そんなんじゃねえよ。別にアメリカにいりゃ自然に身につくものだしな。
……ってか、俺が上手いんじゃなくて、お前らのレベルが低過ぎるだけじゃね? 特にそこの頭空っぽそうなチャラ男とか」
正義は、会話には参加せず遠巻きに見ていただけの希望のほうを向いて言った。
それはもうぶっきらぼうなんて話ではなく、もはや喧嘩を売っていた。希望は正義を睨みつける。
「なんだ、てめぇ……! さっきから黙って聞いてりゃよ。
ちょっと英語ができるからって調子乗ってんじゃねえのか? なめんじゃねえぞ!」
「事実を言われただけでキレるようじゃ器も小さいんだな。たかが知れてるぜ」
「こ、この野郎……!」
希望は掴みかからんとする勢いで正義の席へと歩み寄ろうとしたが、慌てて勇気が「まあまあ」とうしろからその両肩を抑えた。
だが、それで収まるような気配はなく、不穏な様子を感じた女子生徒たちはそそくさと教室から出ていってしまった。
まるで正義たちだけが取り残されたような形だ。可恋はそれを遠くから心配そうに見つめていた。
愛はそんな一瞬触発の状態すら気にせず、明け透けにものを言った。
「でも実際、希望くんの英語って下手くそだよね」
「さ、佐藤、お前まで……!!」
「何? 私を殴る? 別にいいよ、どうせ当たらないし」と愛。空手をやっているだけあって、その身のこなしには自信があるようだった。
「愛ちゃんも喧嘩売らないの! 正義くんも悪いね、騒がしくして。
ほら希望も愛ちゃんも、そろそろ次の授業が始まるよ!」と勇気が言うと、正義は「おう」と短く応えた。愛は「じゃあ、またね」と軽く手を振り自分の席に戻る。
愛が時計を見上げると、勇気の言う通り次の授業のチャイムまで残り1分を切っていた。
しばらくして一旦教室から出ていった女子生徒たちも戻ってきたが、彼女たちの表情は警戒心に溢れていた。
もはや2年B組の教室からは正義を歓迎するムードは消え失せ、不穏分子が入り込んだような居心地の悪さを感じさせるのであった。




