13.恋愛症候群
「いやー、遊んだねえ! たまには公園で思いっ切り身体を動かすってのもいいよね。
うーん、なんだかいい気分!」
勇気くんたちと別れて、愛ちゃんとふたりきりの帰り道。夕陽に照らされながら歩道を横に並んで歩く。
勇気くんと祥雲くんは今頃交番に向かっているはずだ。大地くんたちはそのまま家に帰っていっただろう。
私たちの自転車は勇気くんの家に停めてあるから途中で立ち寄って、それから愛ちゃんは私を家まで送ってくれるらしい。
昔だったら手をつないで帰っていたけど、それをしなくなったのはいつからだっただろうか。……少し寂しい。
結構な遠回りになってしまうはずだけど、当の愛ちゃんは気の済むまで遊べたおかげかご満悦でかわいい。
特にさっき背伸びをしたとき、ちらりと見えたおへそと程よく割れた腹筋のキュートさは、「日本のエアーズロック」として世界遺産に登録されるべき代物だろう。
ずっと昔、背伸びのときにおへそが見えていることを指摘したら、恥ずかしがって隠してしまったことがあったのを思い出す。
その恥ずかしがる姿もかわいかったけれど、おへそを隠されるのは残念なので、それ以来指摘しないで見つめるようにしている。
そして、愛ちゃんはきっと私がそんなことを考えてるなんて知らないし、それを隠している私はきっと悪い子なんだろう。
ああ、どうか神様見逃してください。これはただ愛ちゃんに見惚れて癒されてるだけなんです。ああ、愛ちゃんは今日もかわいいなあ……。
そんな不純なことを考えていたとき愛ちゃんが遠くを見つめて言った。
「それにきっと私たちっていいことしたんだよね。
祥雲くんはきっとこれからたくさんの大人に叱られるんだろうけど、ちゃんとお友達もできたわけだし。
これから先悪いことになんてならないよね。分かんないけど」
「……どうかな。いいことかは分からないけど、正しいことをしたとは思うよ」
「そだね」
愛ちゃんは私に微笑みかけてくれる。その笑顔はいつも太陽のように眩しい。
幸せのエネルギーを無限に生み出すその笑顔はまさに産業革命だ。
そんな笑顔を独り占めにしている私は、公正取引委員会に『佐藤愛の笑顔独占禁止法』を執行されてしまうかもしれない。
そんなことを思いながら、私はふと足を止めた。愛ちゃんは私より一歩多く進んだが、すぐに心配そうに振り返ってくれた。
「どうしたの、可恋ちゃん。もう疲れちゃった?」
「……ううん、そうじゃないの。ただ昔のことを思い出しちゃって」
「昔のこと?」
愛ちゃんは不思議そうに首をかしげている。
多分そのときのことは愛ちゃんにとっては何気ない日常で、もしかしたら覚えてさえいないかもしれない。
だけど、あの日を境に私の世界が変わったのだ。私の世界に色を塗ってくれたのは愛ちゃんと勇気くんだった。
「あのね、……私、愛ちゃんと友達になれて本当によかった」
「え。何、急に。照れるじゃん」
愛ちゃんの顔がほんのり赤くなる。私はその顔をじっと見つめていた。
でも愛ちゃんは目をそらさなかった。真剣に私とにらめっこしてくれていた。そんなところも愛ちゃんの素敵なところのひとつだ。
「愛ちゃん、覚えてる? 幼稚園の頃。私がクラスの男の子にいじめられてたときのこと」
「いじめられてたとき……? ああ、あのときのこと?
なんだっけ、大切にしてた猫のぬいぐるみを取られたりしてたんだっけ?」
やっぱり愛ちゃんにとってはぼんやりとした記憶のことらしい。それでも彼女はすぐに思い出してくれた。それだけで嬉しい。
でも、その出来事は私にとっては一生忘れられないことだった。
幼稚園の頃。あの頃の私は今よりももっと暗くて大人しい子供だった。クラスにも馴染むことができず、いつもひとりぼっちだった。
勇気くんや愛ちゃんはそんな私を見かねてたまに話しかけてくれていたけど、私が一言も返事をしないものだからすぐに別のお友達のところへ行ってしまった。
そしてある日、いつものようにクラスの隅っこで猫のぬいぐるみを抱いて膝を抱えていると、意地悪な男の子が近付いてきた。
私はびくりと身体を震わせてただ怯えるだけだった。ぬいぐるみを無理矢理取られたときも一瞬何をされたのか分からなかった。
――多分それは私が生まれて初めて人の悪意を直接身に受けた瞬間だったのだ。
「ぶっさいくな猫だなー! お前、こんなのが好きなのかよ!」
「…………」
「おい、なんとか言えよ!」
――怖い。声が出ない。臆病な私には先生を呼ぶことさえできなかったのだ。
そのとき先生がどこにいたのかはよく覚えていない。いずれにしても、その男の子はきっと先生の姿が見えなくなった瞬間を見計らって、私に意地悪をしに来たに違いない。
私は誰にも助けを求めることもできないし、誰も私を助けてくれない。
――そう思った。でも違った。ふたりだけはちゃんと私が肩を震わせていることに気付いてくれたのだ。
「にゃはははは! ようやく見つけたニャ、カレン姫! とうっ!」
まず来てくれたのは猫耳カチューシャと尻尾を付けた愛ちゃんだった。
愛ちゃんは「とうっ!」と叫んだが、ただその場でジャンプをしただけだ。
だけど、私にとってそれは救世主の登場であることは分かった。
「な、なんだてめぇ! 人の邪魔をするつもりか!?」
「そのつもりだニャ!」
愛ちゃんはくるりと身を捻ると、その勢いのまま回転し続けて、……そのうち目を回して倒れた。
でも男の子が唖然としている間に、勇気くんも駆けつけてくれた。勇気くんはすぐに男の子からぬいぐるみを取り返してくれて、それを私に返してくれた。
「人の物を取るのはいけないことなんだぞ! ちゃんと謝るんだ!」
勇気くんは男の子に対して強い口調で言う。男の子は「ちっ!」と舌打ちをすると、すぐにその場から立ち去ってしまった。
それから、勇気くんは私に向き直って言った。
「大丈夫だったかい、可恋ちゃん?」
「あ、ありがとう……」
「私にもお礼を言うニャー!」
「え、ええっと、その、」
助けられたにもかかわらず、私はふたりの名前が思い出せず口籠ってしまう。
「私は地獄のミャーコニャー!!」
「いや、愛ちゃんでしょ。佐藤愛ちゃん。俺は緋色勇気だよ」
「愛ちゃん、勇気くん、ありがとう……」
それが私が愛ちゃんと勇気くんと友達になった瞬間だった。それから私たち3人は一緒にヒーローごっこをして遊ぶようになったのだ。
「……あのさ、可恋ちゃん」
私がそんな過去の思い出を語っていると、目の前の愛ちゃんが困惑したような顔で訊ねてきた。そんな顔もかわいい。
「それって私、何もしてなくない!? 全部勇気くんのおかげじゃない!?
っていうか、一体何がしたかったの、私!? 今の私から見ても意味不明だよ!?」
「え、ええっと……」
そう言われてみると確かにそんな気もする。私の記憶の中の愛ちゃんはただ意味の分からないことを言って空回っているだけだった。
それでも私はそれが嬉しかったのだ。私を助けるためにやってくれているということだけは分かったから。
「というか、可恋ちゃんはなんで急に私の黒歴史を語り始めたのさ。なんか恥ずかしいんだけど」
「それは……、祥雲くんのことを見て、昔の私みたいだなって思ったから。
愛ちゃんや勇気くんと友達になっていなかったら、今頃私もあんな風になっていたかもしれないって、そう思ったから。
だから、愛ちゃん。私と友達になってくれてありがとう……」
「んー……」
私の話を最後まで聞いてもなんだか愛ちゃんは納得がいっていないようだった。
でも、それでもよかった。私がただ改めてお礼を言いたかっただけだから。別に分かってもらえなくてもいい。
だけど、愛ちゃんは言いたいことが我慢できないようだった。
「昔のことを蒸し返すみたいで悪いんだけどさ、まずその男の子。
名前も忘れちゃったけどさ、別に可恋ちゃんのことが嫌いでいじめてたわけじゃないと思うよ?」
「……そうなの?」
「そうだよ、男の子っていうのはさ、好きな子ほどいじめたくなるもんだからさ。
その子は多分可恋ちゃんのことが好きだったんだよ。今更な話だけどさ」
私は愛ちゃんに言われて、当時のことを思い出す。そう言えば、その男の子は私に直接危害を加えるようなことは何もしなかった。
ただからかったり物を取ったりしてきただけだった。それだって十分意地悪だとは思うけれど、ただ私の気を引きたかっただけだったとしても不思議ではないかもしれない。
「男の子ってそういうものなの?」
「そうそう、勇気くんだってそうじゃん。たまに私に意地悪なこと言ってからかってきたりとか、……あ、いや、」
そこまで言うと、愛ちゃんはハッとしたように口を噤む。そして自分が口にしたことの意味を反芻して赤面しているようだった。
好きな子ほどいじめたくなるということはつまり、愛ちゃんのことをいじめる勇気くんは愛ちゃんのことが好きだということで……。
「ごめん、今のは自意識過剰でした。忘れてください……」と愛ちゃんは俯いた。
それについてはなんともコメントしづらいが、私はなんとなく嫉妬した。……少なくとも愛ちゃんは勇気くんのことが好きなんだろうな。
「あ、うん……。でもさ、それって男の子から女の子に対してだけの話なのかな。逆のパターンはないの?」
「逆ってことは女の子が男の子にわざと意地悪するってこと? うーん……、考えてみると、そういうのってツンデレって言うのかな?
少女漫画でも好きな男の子と口喧嘩ばかりするヒロインもいたりするし、性別は関係ないのかも……?」
愛ちゃんは考え込んでしまう。悩んでもはっきりとした答えは出ないようだった。
「ま、それは置いといて、もうひとつ言わせてもらうけどさ、可恋ちゃん。
君はそのとき私や勇気くんと友達になれたって思ってるみたいだけど、私はもっと前から友達だと思ってたよ?
ずっと同じクラスの友達として何度も話しかけてたじゃん!」
「あ、ごめん……。別にそういう意味じゃなかったんだけど……」と釈明したが、確かに私のそれは失言だったかもしれない。
そして愛ちゃんはすっかりヒートアップしていた。
「そして、これから先も! 私と可恋ちゃんはずっと友達!
友達になれてよかったって思ってるのは可恋ちゃんだけじゃないよ!?
私も可恋ちゃんと友達になれてよかった。私だって可恋ちゃんと出会えてなかったら、一生の親友だと思える相手とは巡り合えなかったかもしれない。
可恋ちゃんが私に感謝してくれてるように、私も可恋ちゃんに感謝しているんだよ。それは心に留めておいて欲しいな!」
「一生の親友……、たとえこの先何があったとしても……?
たとえば私が愛ちゃんのことを裏切ったり酷いことを言ったりしてしまったとしても……?
絶対私のことを嫌いにならないって、そう思える……?」
「当たり前じゃん! 大丈夫だって!
私は何があっても可恋ちゃんのことを嫌いになったりなんてしないよ。
こんなにも大好きな可恋ちゃんのこと、嫌いになんかなるわけないよ!」
その言葉はとても嬉しかった。だからこそ胸のあたりがちくりと痛む。
だって、私はもう愛ちゃんのことを裏切ってるのかもしれないのだから。
愛ちゃんは気付いていないけれど、私の心はもうとっくの昔に狂っているのだ。
そして、そんな気持ちを持っていること自体が罪なのだ。何度も忘れようと思った。何度も捨てようと思った。
だけど、私は今もその爆弾を抱え続けている。それを知っても愛ちゃんは本当に私のことを嫌いにならないでいてくれるのだろうか……?
「あのさ、愛ちゃん、」
私は勇気を出して、愛ちゃんにあることを問いかけようと思った。「もしも私が大事なことを隠しているとしたら?」と。
そんな私の決心とともに車のエンジン音が近付いてくる。歩道にはガードレールがあるから、ふたりとも轢かれるような心配はない。
だけど、愛ちゃんのすぐ近く、車が通りかかる車道には大きな水溜まりがあって、それはつまり――。
バシャバシャッ! ――水溜まりの水が跳ねて愛ちゃんの全身を濡らしてしまう。
私は呆然とそれを見つめる。愛ちゃんも一瞬固まっていたが、やがて車から「おっと、ごめんよ!」とドライバーの声がすると、「全然大丈夫でーす!」と明るく返事をした。大丈夫なわけはない。
車はそんな一言を言い残しただけであっという間に通り過ぎていってしまった。
だが、愛ちゃんは「いやー、美少女がびしょびしょだね!」と笑っている。私には真似できない。
「今のは怒ったほうがいいと思うんだけど……」
「いいじゃん、謝ってくれたんだし。それより可恋ちゃんは大丈夫だった?
あと悪いけど、タオルかなんか持ってない?」
「あ、今はハンカチしか……」
「それって刺繍入りのきれいなやつだよね? それ汚しちゃうのも悪いなあ。
仕方ない、勇気くんの家に寄ったとき、ちょっとタオル借りようかな」
そんな急な雨にでも遭ったかのような調子の愛ちゃんに私はつい吹き出してしまう。
「む。何を人の姿見て笑ってんのさ、可恋ちゃん。
そんなに人がびしょ濡れなのが面白いー?」
「いや、だって、美少女がびしょびしょって……」
「そこ!? 時間差でそこにツボったの!?」
愛ちゃんは不機嫌そうにむくれたが、そんな表情もかわいかったので、好きな子ほどいじめたくなるという気持ちは理解できた。
「むー、そうやって人のこと、くすくす笑ってる悪い子には、このずぶ濡れの状態のまま抱きついてやろうかなー!」
「え」
愛ちゃんはじりじりと私に詰め寄ってくる。その言葉はまさか本気ではないだろう。
お洋服まで汚れてしまっている状態で抱きつくのは悪戯にしても限度が過ぎている。しかし、私はあえて愛ちゃんに背中を向けて逃げ出した。
「こらー! 待つニャー、カレン姫ー! 逃がさないのニャー!!」
「あはははは! 待たないよー! あはは!」
愛ちゃんが本気で私と追いかけっこをしているのならば、のろまな私のことなんてすぐに捕まえてしまうだろう。
でも愛ちゃんは明らかに私のペースに合わせて、わざと遅く追いかけてきていた。
だからこれはただのおふざけなのだ。だけど、それでも私は息が切れるまで笑いながら走り続けた。
私が息切れして立ち止まると、愛ちゃんもちゃんとそれに合わせて止まってくれたが、その息は全然切れてなんかなかった。
「もうこれくらいにしておこうか……」と愛ちゃんが気遣ってくれた。
「はあはあ……、そ、そうだね……」
振り返るとそれほど逆走したわけでもない。逆走する前に見えていた標識がまだ見えている。
これくらいで息が切れるようじゃ、私ももっと運動したほうがいいかもしれない。
私が落ち着いて呼吸を整えるのを愛ちゃんはそのまま待ってくれた。そして、私が平静を取り戻すと愛ちゃんが訊ねてきた。
「そう言えば、可恋ちゃん。さっき何か言いかけてなかった?」
……そうだ。私は愛ちゃんに訊きたいことがあるんだった。でも走り疲れて、それはなんだか今はどうでもいいような気がしていた。
だから私はなんでもなかったかのように惚けた。
「なんだっけ、もう忘れちゃった」
「あはは、何それ」
愛ちゃんは笑って流してくれた。「忘れた」という私の言葉を信じてくれたのかどうかは分からない。
「じゃあ、行こっか」
愛ちゃんは笑いながら私に手を伸ばした。
その眩しさは夕陽のせいなのか、愛ちゃんの笑顔のせいなのか分からない。
いずれにしてももう私はこの笑顔なしでは生きられないのだ。
苦味ばかりだった私の世界に砂糖のような愛で甘味を与えてくれたのが愛ちゃんだった。
私の気持ちも知らないでと思うと、笑う顔がほんの少しだけ憎らしい。
愛ちゃんは私のそんな気持ちに一向に気付かない。気付く気配もない。
だけど、その手はいつだって、私を明るい場所へと導いてくれる。
いつの日か、この罪を告白するときが来るとしても、選択に迫られるときが来るとしても、きっと大丈夫。
その手だけは絶対に信じられる。だって大好きって言ってくれたから。




