11.望月祥雲
毎日毎日、勉強ばかりで退屈だ。望月祥雲のママはいわゆるお受験ママだった。
まだ小学6年生だが、難関校の中学を受験するために水曜日、金曜日、土曜日の週3回の塾に通わされている。
近年では小学校の頃から詰め込み学習をすることにあまり意味はないと言われることも多いのだが、今時珍しい感じのママなのだ。
塾の教室に響くカリカリという鉛筆の音が嫌に耳につく。ああ、早くこの時間が終わらないかな。
祥雲にとってこの時間はただの苦行でしかなかった。早く家に帰ってゲームでもして遊びたい。
そう思ってホワイトボードの上の時計を見るが、授業終了の時間にはあと20分ほどあるようだった。
あの猫は一体どうなったんだろう。昨日塾へ行こうと通りかかったときにはすでにあの猫の姿はなかった。
おそらく昨日のうちに誰かが拾ってくれたのだろう。いい人に拾われているといいな。
そんな風に考えてみても、どこか胸が痛む。あの猫が誰かに拾われて大切に保護されたとしても、自分があの猫を怪我させてしまったことに変わりはないのだ。
「たすけてください」なんて書いたダンボール箱に入れておいたとしても、その罪が償われたわけではないだろう。
それは昨日の学校帰りのことだった。その日の授業は5限までで塾が始まるまでにも時間があった。
だけど、また教室に詰め込まれて勉強をするのかと思うと憂鬱な気持ちが抑えきれなかった。
祥雲は黒いランドセルからエアガンを取り出して構えてみる。もちろんエアガンは本当は学校に持って行ってはいけない。
誰にも気付かれないようにエアガンを持ち歩くというスリルが祥雲の心の隙間を埋めるサプリメントのひとつだった。
しかし、祥雲には一緒にエアガンで遊ぶような友達はいない。以前、塾帰りにいつも見かける3人組のグループがたまにエアガンで遊んでいて羨ましいと思ったことがエアガンに興味を持ったきっかけだった。
有名な海外製のエアガンだったらしく、ネットで調べたらすぐに全く同じ種類のものが見つかった。
だからパパに頼み込んで、次の小テストで100点を取ることを条件に、そのエアガンを買って欲しいとお願いしたのだ。
そして、その結果、見事に100点を取ることができエアガンをプレゼントされた。ご褒美付きの勉強は普段とは違ってほんの少しだけ楽しかった。
エアガンをいつも持ち歩いているのはそんなお気に入りのものだからでもある。でも、やっぱり誰かと一緒に遊びたい。
だから、ある日、その3人組のグループにパパに買ってもらったエアガンを見てもらおうと近付いたことがある。
しかし、精一杯の笑顔を作りながらも「一緒に遊んで欲しい」とは言い出せずにまごまごしていると、「何見てんだよ!」と怒鳴られてしまい、慌ててその場から逃げ出してしまった。
結局あれ以来、3人組には話しかけることもできずに現在に至っている。あと少し、ほんの少しの勇気があれば友達になれるかもしれない。
そう思いつつもそのあと一歩が踏み出せず、臆病な日々を過ごしている。祥雲は何よりもそんな自分自身を不甲斐なく思い苛立っていた。
だからそれはほんの少し魔が差しただけなのだ。祥雲が学校帰りにエアガンを取り出したとき、その目の前を子猫が通りかかった。
親猫はいないのだろうか。あるいは親猫に見放されてしまったのだろうか。そんな風に思うとかわいそうにも思ったが、今はそれよりも苛立ちのほうが勝っていた。
どうせ当たりはしないだろう。海外製のエアガンは精度が低く当たりにくいとも聞いたことがある。
祥雲は楽観的に考えて、なんとなくエアガンの銃口を子猫に向けていた。
引き金を引く指先に力が入る。「パンッ!」という発砲音とともに、弾丸は勢いよく飛び出していった。
その弾はまっすぐに飛んでいき、子猫の足に命中したように見えた。当たった? まさか……、当たるわけがない。
そう思っていたら、子猫はそのまま倒れてしまった。一瞬の出来事に頭が真っ白になる。
幸いにも意識はあるようだったが、足を痛めたせいで真っ直ぐに立てなくなっているようだった。
すぐに駆け寄って抱き抱えるが、もうどうしたらいいか分からなかった。
……どうしよう、とんでもないことをしてしまった。しかし、誰か大人を呼べばきっとママにもこのことが知られてしまうだろう。
そうなればこっぴどく叱られるに違いない。それは祥雲にとって何よりも恐ろしいことだった。
そのときふと近くのごみ捨て場を見るとダンボール箱が畳まれた状態で捨てられていた。
そのうちの1枚を抜き取って箱の状態にして、その猫を中に入れる。そして、ランドセルの中の筆箱からマジックペンを取り出し「たすけてください」と殴り書きをした。
こうしておけばきっとすぐに誰かが気付いてくれる。誰かが気付いて動物病院に連れて行ってくれるだろう。そんなことを考えながら、急いで家に帰った。
そして、部屋に戻ってからも、そのことがずっと頭から離れない。
自分のしたことへの罪悪感が重く圧し掛かってくる。どう考えても自分が悪いことをしたのは明白だった。
もう一度あの場所に戻って様子を見ようかとも思ったが、もし騒ぎになっていたらどうしようかと思うと恐ろしかった。
それでも塾へ行くときにあの道は通らなくてはいけなかった。そして再び通りかかったときにはすでに猫の姿はなかったのだった。
そんなことを思い出し、ついため息を吐いてしまったとき、ちょうど授業の終わりの時間がやってきた。
よかった、今日はもう解放される。明日も日曜日だし、お休みだ。
そう思ってもあの猫のことが気がかりで胸のつかえが取れなかった。
もうエアガンを持ち歩くのはやめよう。そんな反省もなんの意味もない。
祥雲は普段より一層憂鬱な気持ちで塾からの帰路についた。そして、いつも3人組が遊んでいる公園が見える通りを過ぎようとした。
「おい、来たぜ!」
そんな叫び声が公園のほうから聞こえてきても、何かのスポーツで遊んでいる最中だとしか思わなかった。
本当に羨ましいな。あいつらはきっとなんの悩みもないんだろう。そう思って公園のほうを見ると、駆け寄ってきたのは年上の男ひとりと女ふたりだった。
「やあ、こんにちは。塾の帰りかい?」
男にそう声をかけられてもまさか自分に話しかけられているとは思わなかった。
だって、そいつらは自分は全然知らない奴らだったから。だから、ただぼーっとその顔を見上げるだけだった。
しかし、「君にちょっと聞きたいことがあるんだけど、この猫について何か知らないかな?」とスマホの画面を見せられたとき、心臓がびくりと跳ね上がった。
その画面に映る足を怪我した猫は確かに見覚えがあった。自分が昨日エアガンで撃った猫であることに間違いはなかった。
「あ、いえ、知らないです……」
つい声が震えて上擦ってしまう。こんな調子で誤魔化せるわけがない。……逃げ出してしまおうか。
しかし、その男と一方の女は何かスポーツでもやっているのだろう。傍目にも体付きがしっかりしているように見えた。
もう一方のとろ臭そうな女のほうに突進すれば上手く躱していけるかもしれないが、それもギャンブルだった。
――逃げるなら今来た道を引き返すしかない。そう思っているうちに、身体つきのしっかりした女に回り込まれて逃げ場を塞がれてしまった。
「まあまあ、ゆっくりお話を聞かせてよ。よく見れば何か思い出すかもしれないじゃない?」
うしろに回り込んだ女の声は明るい調子だったが、その表情が見えなくて酷く不気味だった。
恐ろしい、逃げ出したい……。だが、それはどうも許されないような雰囲気だった。続けて男が言う。
「実はこの猫、おそらく昨日エアガンで足を怪我させられたみたいでね。
それについても何も心当たりはないかな? この近くにエアガンを持っているお友達がいたりとか」
「あ、あいつらだろ……! そこの公園にいる3人組がエアガンを持ってるはずだぜ……!」
「それが残念なことに彼らにはアリバイがあるらしいんだ。だから彼らは犯人ではないよ」
「そもそもエアガンで怪我をさせられたなんて証拠はないだろ……!
誰かが別の道具で怪我をさせたって可能性も……」
「その可能性も低いんだ。ほら、これを見てごらん? これが何か君には分かるかな……?」
勇気くんがそう言って取り出したのはエアガンのBB弾だった。どうやらそれはさっき公園で大地くんたちがエアガンで遊んでいたときに拾い忘れたものらしかった。
勇気くんはそれを拾い、ズボンのポケットにしまっておいたのだ。……ああ、勇気くん、悪いこと考えてるなあ。
「実はその猫が捨てられていた場所の近くにこのBB弾が落ちていてね。
今は拭き取ってあるけど、血痕もついていたんだ。
つまり、その猫はこれで撃たれたと考えられるんだよ。これにも見覚えがないかな……?」
もちろんそれは勇気くんの嘘だった。それは大地くんのBB弾であって事件とはなんの関係もない。
しかし、そのはったりは男の子には有効だったようで、明らかに肩が震えていた。悪い勇気くんだなあ……。
「いや、俺は何も……、そんなBB弾も見たことないし……」
「ちなみにだけど、君がエアガンを所持していることも分かっているよ。
あの男の子たちが持っているエアガンと全く同じ種類のエアガンだろ?
でも、このBB弾には見覚えがないって言うのかい? もう一度よく見てもらえるかな……?」
震えが止まらなかった。このまま白を切り通すことはどうやら不可能らしかった。
今はそのエアガンは持っていない。もちろんそのBB弾も家に置いてあるし、同じエアガンだからと言って同じBB弾を使用してるとも限らないはずだ。
だから嘘をついてもバレるはずがない、……そのはずだ。だけど、この男がどうしてこのBB弾を持っている……?
本当に現場に落ちていたのか、それともただのはったりなのか……? その判断もつかなくて、もう息が苦しくて祥雲は観念するよりほかなかった。
「ごめんなさい……! 俺がやりました……! 俺がその猫をエアガンで……!」
そんな悲鳴にも似た叫びが辺りの空気を引き裂いていった。それがもうゲームセットの合図だった。




