里親の家にて
これは、とても長い私についての記録。
私には両親がいない。どこかで生きているとは思うけど、どこで何をしているか全く分からないし、父親に至っては顔も確かな名前も分からない。
戸籍上では認知した男の名前が確認出来る。でも、それが血の繋がった男なのか、通りすがりの心優しい男なのか、はたまた女に泣きつかれた気の毒な男なのか知る由もないのだ。
私が1歳、弟はまだ産まれたばかりの時に、姉弟揃って乳児院に預けられた。
乳児院は大体3歳頃までで、3歳からは児童養護施設に移るのが普通。
私も3歳になった時、弟より一足先に児童養護施設へと入寮した。
児童養護施設は市内だけでも何軒かあったけど、私が入寮した施設は最もアットホームなところだったと後になって知った。
今は赤ちゃんポストなるものが設置され、社会に浸透しつつあるけれど、当時はまだ、0~1歳で預けられる乳児は少なく、受け入れる側の養護施設では、私達、姉弟の扱いや対応を幾度となく職員会議で話し合ったそうだ。
そんな大人の努力は梅雨知らず、私はとにかく人見知りの激しい子供で、たった1人を除いては、なかなか職員に懐かなかったそうだ。
そう、ただ1人、出会ったその日から懐いた女性職員がいた。その職員、アイ先生は、多くの子供に懐かれる皆の母親のような保育士だったが、アイ先生もまた、私に、何故か激しく
惹かれたそうだ。後にアイ先生は、 両親がとても不仲であったこと、だから私に自分を重ねて、同じような寂しさを感じたのかもしれないということを私に語ってくれた。
アイ先生が休憩に入る時、アイ先生が帰る時、私はいつも泣いて叫んで追いかけ回し、他の職員が必死で抑えそれはそれは大変だったようだけど、私にその記憶はない。アイ先生とは大人になった今でも連絡を取り合っていて、時折、そんな昔話を聞かされると恥ずかしいような嬉しいような、とてもこそばゆい気持ちになるのだった。
さて、児童養護施設に入った子供達は、高校生までそこで暮らしていくのかというとそうでもない。
耳にしたことがある人もいるだろう。里親制度というシステムを経て、養子に貰われていく子供がいる。
里親というのは、自分の子供がいる人もいない人も、審査を通り、何度か講習を受けることによってなれるものだ。
里親は、女の子がいいとか、何歳がいいとか、そういった希望をすることは出来ない。例えば、ショートルフランというプランでは、里子を週末、自宅に泊め、温かい家庭という体験を提供する、言い方は悪いが、選り好みの出来ないボランティアなのだ。ただし、規定額のお金は支給されるため、真のボランティアとは言い難い。
里親活動を何年も続ける人もいれば、里親を経て、養子を希望する人もいる。
私と弟に里親が出来たのはとても早かった。施設に移ってすぐのことだったと思う。里親さんは色んな体験をさせてくれ、とても優しい、私にとっては良い人のイメージそれだけだった。しかし、弟は1度、里親さんの不注意による事故で、腕を骨折していたためとても怖がっていた。
幼稚園年長、そろそろ小学校について意識し始める頃、里親さんが私にこう言った。
「施設から小学校はね、とっても遠いんだって。毎日、学校へ通うのに1時間、疲れて勉強どころじゃないよね。もしうちへ来れば学校はすぐ近く。だから、これからはずっとうちで生活をしない?考えてみて!」
私はとても嬉しくて即答したけど、弟は違った。弟は拒否したのだ。
里親さんとしては、姉弟揃って引き取るつもりでいたが、姉弟で意見が別れてしまったため、結局私だけがS家に養子に入ることになった。
そこから私の受難の日々が始まる。
施設から通っていたのは保育園。
里親さんの家から通うのは幼稚園。
保育園と幼稚園では勉強スピードが全く違う。私はそれから勉強に追われる日々を過ごした。
お母さんは私によくこう言った。
「あなたは施設出身で、とっても遅れているのよ!ハンデがあることを自覚して!早く追いつけるように人一倍頑張りなさい!」
お母さんの言葉はまるで呪いのように私に重くのしかかった。
あまりに短い期間の入園だったため、私が受け取った卒業アルバムには1枚も写真が無く、強いショックを覚えたことを今でも覚えている。
里親さんは共働きだったので、私は幼稚園が終わるとおばあちゃんと おじいちゃんの家に通っていた。
おじいちゃんは寡黙で、幼い私はちょっぴり苦手だった。
おばあちゃんは、色々なことを教え、色々なものを食べさせてくたけど、勉強に関してはとても厳しく、私はよく泣いていた。それでもお母さんよりは、幾分マシだったと思う。
小学校に上がると、お母さんとおばあちゃんによる教育はどんどん厳しくなっていった。お母さんは少々、潔癖症なところがあり、衛生面において細かなルールがS家にはたくさんあった。
例えば、外着と家着は必ず分けること。
学校から帰ったら靴下を脱いでから上がること。ランドセルを専用の場所以外に置かないこと。置いた場合は後でアルコールで拭くこと。
とにかくたくさんあって、物忘れの激しかった私は何度も失敗をした。
ある日のこと、私は明日着る服を用意せずに寝てしまった。その夜、すよすよと眠る私の顔を、お母さんは横殴りではなく真上からバチーンと平手打ちし、それはもう般若の如き顔で怒鳴った。
「明日の服は!どこにあるの!」
深夜1時頃だったと思う。幼い私は、驚きと眠気で上手く答えられない。
「??ん、えっと、あの、ん?」
すると、お母さんは容赦なく私の髪を掴み、ベッドから引き摺り下ろした。
その夜から、内容は違えど、深夜に叩き起こされるという不快な儀式が当たり前になっていった。
同時に私は、毎晩、別の儀式をするようになる。眠る前にベッドの周りにぐるっと一周、自分を囲むよう大量のぬいぐるみを並べて手を合わせ、
「みんな、今日は守ってね!絶対だよ!一生のお願い!」
冷静に考えれば、ぬいぐるみが絶対に動くことは無いとわかるはずだけど、その時の私にとって、頼れる相手はぬいぐるみしかいなかった。
ぬいぐるみは従兄弟のご両親がプレゼントして下さったものと、母が新聞のクイズの景品でGETしたものだった。
S家にはピアノが置いてあった。
きっかけは分からないが、私は強制的にお母さんからピアノを習っていた。しかし、テンポが少しズレれば髪を引っ張られ、2度間違えれば椅子から突き落とされ、それは正に地獄のレッスンだった。
お父さんとは何故だかとても仲が良かった。それは、お母さんから時々庇ってくれたからかもしれないし、単純に異性だったからかもしれない。
しかし、お父さんもまた完全な味方では無かった。
お父さんとお母さんはよく喧嘩をした。
それはそれは激しい喧嘩で、大体お母さんが正しいのだが、お母さんは言い方があまりにキツかったため、毎度激しい喧嘩になった。椅子を投げ、電話を投げ、怒鳴る、蹴る、髪を掴む、引き摺る、引っ掻く、噛み付く。
子供が見るにはあまりに恐ろしい光景で、S家には室内飼いの犬が1匹いたが、犬と私はお互い抱き合って隅で嵐が過ぎるのを待った。
お父さんは酒癖が悪かった。酔うとすぐカッとなるのだ。そんな時に私がお母さんを怒らせてしまうと、本当に厄介なことになる。
ガミガミ私に怒鳴るお母さんに、お父さんがうるさいと怒り、するとお母さんの私への怒りが強くなる。
暴力はエスカレートし、私は泣き叫びながら逃げ回るが、これがお父さんの癪に触ってしまい、2人で挟み討ちにされ、大人2人に小学生の私は蹴り倒された。痛みと苦しみ、恐怖で泣いて転げ回ったあの日を今でも鮮明に思い出せる。
お母さんの異常なところは噛みつくところだ。その為私の体には痣がよく出来ていたし、明らかに歯型と分かるものだったが、小学校の先生が私を心配してくれたことは1度も無かった。それは、私がいつも笑顔でいたことと、お母さんの表の顔があまりに良かったせいだと思う。
お母さんはボランティア活動を積極的に行っていたし、私は周囲に1度だって苦しみを漏らしたことはなかった。
学校の三者面談で、先生が私の行動について注意をしたり、成績が少しでも落ちていたりすると机の下で、足を抓られた。私は何故か、先生に悟られまいと笑顔で必死に耐えた。
小学2年生の時、一度だけS宅に児童相談所から私の担当者が訪れてきたことがある。児相の人は「S家はどう?楽しい?何か困っていることや嫌なことは無い?」
そう聞いてきたが、真横に本人がいる状況で、暴力を受けていますなどとは言えなかった。
そもそも私は、暴力や虐待だとは思ってもいなかった。全て私が不出来な所為だと、ダメな私への躾なのだから仕方ないのだとそう思っていた。そして、その考えは未だに強く私の中に残っている。
S家から泣き声と怒鳴り声が聞こえてくるのは日常茶飯事だった。
しかし、近所の誰1人としてそれを気にかける人はいなかった。
噛み跡は腕ばかりだったが、その他の痣は服に隠れて見えないことが多かった。近所の人達が冷たかったのか、痣が見えなかったせいなのかは分からないが兎に角ずっと通報されるということは無かった。
私は時々家出をした。
神社の境内でジッとしていたり、おばあちゃんとおじいちゃんの家の倉庫にそっと忍び込んで、狭い隙間に息を殺して隠れた。
夏に蚊に刺されるのはマシで、真冬に裸足、上着も無く飛び出した時は本当に寒かった。
どこかのマンションの裏側、コンクリートの上で猫のように丸くなって寝ていたこともある。
いつも短時間で帰宅していたが、一度だけ、一晩外で過ごしたことがあった。季節も季節だけに、流石に心配になった里親さんは警察へ連絡した。しかし、失礼ながらあまりに役立たずだったと思う。
すぐ側の小木に隠れていた私を見つけられず、保護した後も結局、虐待を見抜くことは出来なかった。
小学校3年生の時、男の子からラブレターを貰った。お母さんはとにかく、男女のことに厳しく、透け感のある服は着ない、スカートは膝下、男の子ばかりと遊ぶなと、口を酸っぱくして言われていたため、私は絶対にラブレターを見つからないようにしなければ、と思った。しかし、私の嘘は大抵、お母さんには通用しない。あっさりと見つかってしまったのだ。
「…なんて返事を書くつもりなの?」
「っっ!!えっと…あの…
今はお互い勉強に集中しないといけないからって断る、かな。」
するとお母さんは、紙と鉛筆を差し出して、書きなさいと。
それから何度も添削され書き直しをさせられた。それはとても屈辱的で、とても恥ずかしい作業だった。
「あんたの母親も男にだらしない人だったのよ!血は争えないわねー!
普通の人より何倍も頑張ってやっと、普通の人の横に立てるんだから!
男遊びなんかしてる場合じゃないでしょう!もっと頑張りなさい!」
お母さんは私にそう言った。
悔しさで涙が滲み、泣くまいと噛み締めた唇に血が滲んだ。
あまりに厳しすぎる躾の毎日に私の神経は日に日にすり減っていった。そしてある時、ついに私の優等生の仮面が剥がれ、学校で爆発してしまったのだ。
どんな事だったのかはよく覚えていない。ただ男の子に陰口を言われて腹が立ったのだ。
カッとなった私は椅子を投げつけてしまった。まるで、S家の夫婦喧嘩のように。すぐに我に返った私は、先ず、男の子を心配する前に、お母さんにバレて怒られることを心配した。そして、人目が多かったため、私は保身の為に土下座をして男の子に謝った。結局、S家に連絡がいき、散々お母さんに殴られた。
私はその事件をきっかけに、自分が怖くなった。このまま支配されていては、私はおかしくなってしまうのではないか、支配から逃れるにはもう、お母さんを殺すしか無いのではないか、そんな風に考えてしまったのだ。そして毎晩、お父さんもお母さんも寝静まった頃、キッチンへ行き、包丁を持ち出し、スムーズに刺せるように態々刃を上にしてお母さんに向かって突き立て、ジッと固まっていた。いつも犬はそんな私を、キョトンとした目で見つめていた。
そんな狂気的な夜を私は毎日、約半年程繰り返し続け、それでもなんとか踏みとどまっていた。
毎日包丁を突き立ては止め、確実に私の心は蝕まれていった。
見つめていた犬も、ただならぬ物を感じ始めていたのだろう、瞳には明らかに怯えの色が見えるようになっていた。
放課後、友達と遊んではならない。
真っ直ぐ帰ってくること。
この約束を破ったことは無かった。
唯の一度も。しかし、4年生の夏、その日は断れなかった。毎日、ギリギリの淵にいて、とにかく解放されたくて、私は友達の誘いにのってしまった。
それでもやっぱり不安はあった。
あまり遅くならないよう私は、おばあちゃんの家の近くの公園で遊びたいと友達に頼んだ。
しかし、それはあまりに浅慮だった。
犬の散歩に出たおばあちゃんに、見つかってしまったのだ。
物凄い剣幕で怒られ、友達が「私達が無理やり誘ったのです」というフォローの声も虚しく、
ランドセルを掴まれ文字通り引き摺られていった。
おばあちゃんの家まで引き摺られ、すぐにお母さんへと連絡がいった。
おばあちゃんは私の服を掴み、 「帰るよ!」
そう一言言うと、バイクで走り出した。私は立ったまま。
おばあちゃんは私の服を掴んで走り出した。バイクに合わせ走らなければ引き摺られてしまう。
必死で走ったが、すぐに息が上がりバランスを崩した。
そこから家まで私は、泣き叫びながらバイクに引き摺られていった。
幸い、ランドセルが背中を守ってくれたが、そこかしこに擦り傷が出来、体中が痛かった。しかし、その時の私は痛みよりお母さんへの恐怖の方が勝っていた。これからどれだけ痛い思いをしなければいけないのだろうかと、ただただ怖くて怖くてたまらなかった。引き摺られたランドセルには無数の小傷、擦り後が生々しく残っていた。
その日はお父さんのお陰で、思ったより酷いことは無かった。拍子抜けしてすっかり安堵しながら眠りについたが、やはりそうはいかない。お父さんが眠りについた真夜中に叩き起こされた。
「あんた友達と遊んでる暇なんてないでしょう!」
今までの比じゃない力で腕を噛まれ、髪を引っ張られ、お腹を蹴られ、私の叫び声でお父さんが目を覚ました。
「夜中になにやってるんだ!いい加減にしろ!」
お父さんのお陰で助かった。
しかし、また攻撃されるんじゃないかとその日は眠れなかった。
翌朝は、兎に角早く家を出たくて、お父さんが仕事へ行くのに合わせようと必死で支度をした。
そんな努力も虚しく、お母さんに引き留められ、お父さんがいなくなった途端に階段から突き落とされた。
階段から突き落とされるのは慣れていたが、その日は死をも覚悟した。お母さんが包丁を持っていたからだ。お母さんが降りてくる前に玄関を出なくては、そう思ったが、怖くて体が上手く動かない。なんとか扉に辿り着き、手を伸ばしたところで、顔の真横を包丁が掠った。ほんの少し頬が切れピリッと一瞬痛みが走った。冷や汗が垂れる。上手く息が出来ない。手が震えた。
なんとか扉を押し開けて、一気に外へ飛び出した。お母さんが追ってくる。後ろを確かめたい気持ちをグッと堪えて、一目散に走った。ただただ走った。
後ろからお母さんの声が聞こえる。「あんた、学校から帰ってきたら覚えときなさいよー!!!」
声が小さくなってチラッと後ろを見ると、包丁を上に掲げたお母さんが見えた。
学校に着いて鞄を下ろす。
あれだけのことがあったのに、やっぱり私の優等生の仮面は剥がれなかった。
いつも通りの挨拶、いつも通りの笑顔、私の演技はいつでも完璧だった。
朝の点呼では、体調について報告しなければならない。腕の噛み跡は青く深く、何も言わずにいるのは不自然だと思った私は、
「はい、元気です!でも、犬に腕を噛まれて少し痛いです!」
ほんの少し照れた顔でそう言った。
教室にみんなの笑い声が響く。
人の歯型と犬の歯型は全く違う。
大人ならば見て分かるだろう。
しかし先生は、「あらぁ、それは痛そうねぇ。」
そう言っただけだった。
休み時間、昨日の出来事を、引き摺られていった私を見ていた友達が、心配そうに声を掛けてきた。
「昨日はごめんね。やっぱりお家、厳しいんだね。あの後、大丈夫だった?」
「うん!怒られちゃったけど、大丈夫大丈夫!いつものことだし!」
そう言って大きな声で笑った私だったが、私の心は限界に近かった。
ずっと、私の腕を見つめて黙っていた友達の1人が、とても真剣な顔で聞いてきた。
「……その噛み跡、犬じゃないよね?ねぇ、本当に大丈夫なの?」
違うの!違うのに!お願い!
お願いだから誰か気づいて!
ずっと叫んでいた。嘘を吐きながら私はずっと心の中で、助けを求めていた。それが今、ようやく気づいてもらえた気がして、張り詰めていた糸がプツッと切れた。
私は堰を切ったように、お母さんに噛まれたこと、今朝の出来事、そういったことは日常茶飯事であるということ、何より怖くて帰りたくないという気持ちを、早口で一気に話した。
友達は私が話し終わるまで、誰1人として声を発さず、時折、頷きながら真剣に聞いてくれた。
1人が言う、
「ねぇ、それって普通じゃないよ!
絶対おかしい!危ないよ!今日絶対家に帰ったらダメ!放課後、一緒についていってあげるから交番に相談しに行こう!」
他の友達もみんな、
「私も行く!」
そう言ってくれた。
どれほど、嬉しかったことか。
私の心にパッと光が差し込んだ。
放課後、友達に付き添ってもらい交番へ行った。腕の噛み跡を見せ、お巡りさんに事の次第を説明し、昔、養護施設にいたこと、児童相談所の担当者の方と連絡を取りたいことを伝えた。
するとお巡りさんは、
「うーん、ごめんね。そういうことはご両親と一緒にお話に来てくれるかなぁ。それか、学校の先生とか!」
何故そんなことが言えるのだろうか。
包丁で脅してきた人物と一緒に交番へ行けるわけがない。私達が、先生に相談するという選択をしなかったのは、今まで1度も気にかけてくれたことが無かったからだ。また、先生が
両親に注意の連絡をして、逆にエスカレートすることを強く恐れたからだった。
私は心底ガッカリしたし、あまりの的外れな発言に憤りを感じた。
そんな私に友達の1人が言う。
「とりあえず、うちにおいでよ!
あのね、うちのお母さんも施設にいたことがあってね、養子として引き取られたんだって!だから相談したら助けてくれるかも!」
陰ってきた私の心にまた光が差した。
友達のお母さんに事の次第を話すと、こう言われた。
「家に泊めてあげたいけれどね、ご両親に許可なく泊めてしまうと、誘拐と思われてしまうかもしれないの。
だけど、このままあなたを家に帰すのはとても危険だと思う。だから、私を引き取ってくれた私のお母さんに相談をしたいの。その為には今話してくれたことを、私のお母さんにも話さなくちゃいけないんだけど、大丈夫かな?」
私はただ必死で頷いた。
友達のお母さんのお母さんは、ガソリンスタンドで働いていたため、勤務先のガソリンスタンドへお邪魔させて頂いた。話を聞き終え、すぐに児相へ連絡を入れてくれたようだった。ちょうど、私の担当者の方が帰り仕度をしていた時で、ギリギリ間に合ったのだそうだ。
1時間程度だったと思う、程なくして担当者の方がやって来た。私の腕の噛み跡を確認し、すぐにどこかへ電話をかけていた。電話が終わると担当者さんは、自分がS家に訪問した
時もあったのかと聞いた。
「隣に里親さんがいたので、言えませんでした。S家に移ってから痛いことばかりで辛かったです」
ずっと言えなかった気持ちを、私はなんとか絞り出した。
担当者の方はそっと頭に手を乗せ、「ごめんね、もっと早く気づいてあげられたら良かったのにね」
私と同じように、辛そうな表情でそう言った。
「あのね、昔いた施設に今から行こうと思うんだけど、どうかな? 今夜はそこに泊まらない?」
私は心から嬉しくなった。
「はい!よろしくお願いします!」
車に乗って移動する。
「施設のこと覚えてる?今はね、とっても綺麗になったんだよ!うーん、マンションみたいになっちゃって見ても分からないかもしれないなぁ」
私は期待と不安でいっぱいになった。昔一緒にいたあの子はまだいるだろうか。また弟にも
会えるのだろうか。気になることはたくさんあったが言葉を発することが出来なかった。
最初、施設に到着したことが分からなかった。まるでマンションのような外観で、昔の古い
懐かしい寮の姿は全くなかった。
施設ではインフルエンザなどの感染を最小限に抑えるため、鍵付きの隔離部屋がある。私はとりあえずその部屋で数日を過ごすこととなった。夕食が運ばれてきて、食事を摂っていると、トントンッ部屋のドアをノックする音が聞こえた。先生かな?と思い、はい、と一言返事をすると…懐かしい顔が2つそこにあった。
記憶の中の姿は保育園の時で、2人共だいぶ変わっていたが、それでもすぐに誰だか分かった。
「ナナー!!久しぶり!!私達のこと覚えてる?分かる??戻ってきてくれて嬉しいよ!なんで?え?ずっと寮にいるの?」
矢継ぎ早な質問に苦笑しつつ、
「里親さんと色々あってね、ずっとかどうかは分からないけど、多分しばらくはいるよ。ユリ、アーちゃん、ただいまっ!」
そう言って私は2人に抱きついた。