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水の記憶

作者: 高田 朔実

 十月に入り、台風も収まってきたある日のことだった。

 祥子がその人を目にしたのは、それが三度目だった。

 初めて見たのは、昨年、学会の講演会で発表しているのを見たときだった。彼らが所属している森林学会では、その名のとおり、森林を対象とした研究がなされている。よって参加者のほとんどは、調査のためせっせと野外に足を運ぶ。皆いかにも健康そうな色の肌をしている。しかも季節は夏だ。そんな中で、まるで日に焼けていないのは、それだけで目立った。全体的に線が細い人だった。目をつぶって三秒数え、再び目を開けたら、もうそこにはいない、あれは幻だったのだと言われたらそのまま信じてしまいそうな、そんな人だった。

 彼女がその講演会場に入ったのは、ためになるお話を聴きたかったからではなく、クーラーのきいた部屋でゆっくり座っていたいという不純な動機からだった。演者にも内容にも興味はなく、電気が消えたら寝る気満々だった。

 ふと演者を見ると、思いのほか若く、そしてどこか場違いな人に思える。話は森林内の水循環に関することで、森林の中で、空気、水、土壌において、水や化学物質がどのようにやりとりされているのか調査した、というものだ。空気や水、土を採取して、そこに含まれる養分の濃度を調べる分野は、植物や動物と違って、見た目で違いを判断するのが難しい。そういった見えないものに興味を持っている人たちは、どこか遠い存在のように感じられていた。

 話の内容は、まるでわからない。ただ、大きなスクリーンに映し出される写真の美しさに心奪われていた。川、湖、滝など水に関するものの写真。日本の、なんの変哲もない風景を撮影しているはずなのに、はっとするものがある。常に流れ続ける水の、ほんの一瞬、一番美しい瞬間を捉えて、カメラに収めている、そこには、祥子が今まで見てきたようで、まるで知らない絵があった。太陽の光の加減、雲の陰り具合、湖に映る空の色……。祥子の持ちうる語彙では、どう頑張れば褒めることが可能なのかわからないような、そんなものばかりが次々と出てくる。スライドは写真ばかりで、字はほとんどない。祥子はただただ、そんな美しい写真の数々に見とれていた。

 淀みなく出てくる専門用語は、辛うじて日本語だと判別できるくらい理解を超えた物だったにも関わらず、声のトーン、発音が心地よく響いた。次第に、今自分は学会の講演会場にいるのではなく、先鋭芸術の舞台を観ているのかもしれないと思うようになった。まさに夢見心地でいた中、大きな拍手とともに会場が明るくなった。質疑応答の時間には、辛口なコメントで若手研究者を叩きのめすことで有名な教授ですら「いやあ、ずいぶんとワイルドな調査をされたんですね」と感想を述べていた。

 次に見たのは、学会の会誌上でだった。有名な、若手研究者が取る賞を、彼が受賞したのだった。普段は名前しか載らないのだが、紙面が余ったのか、それとも誰かからリクエストがあったのか、紙面には顔写真も掲載されていた。通常この手の写真は指名手配犯のようになりがちなのだが、そこにあったのは、古い時代の西洋の音楽家の絵を思わせるような、端正な表情だった。見た瞬間に、あの講演会の情景がよみがえる。クーラーでこれでもかというほど冷やした会場の、ひっそりと体温を奪っていく静けさ。ほとんど明りのない会場で、大画面に映し出される美しい水の写真。懐かしい声。またどこかで会えないものか、と思っていた。


 「水の起源」という名の展示会に来たのは、全くの偶然だった。久々に東京に来た帰りに、なにか展覧会でも見て帰ろうと思ってインターネットで調べ、知ったものだった。

 一歩中に入った瞬間、どこかで見たことがある空間だと思う。BGMなのか、耳をすますとわかる程度に、かすかに水の音がする。

 会場は小学校の教室一つ分くらいの広さだったが、薄暗く、展示品を一望することは難しい。よって、少しずつ歩きながら全体像を把握していくことになる。

まず、仏像の写真や、水神を描いた絵などが手前に並ぶ。弁財天も現れる。少し歩いたところに解説があり、水は人々の生活になくてはならないものであり、古くから信仰と切り離せないものだった、という趣旨の説明がされている。

 祥子は以前、「水が生まれるところ」というテーマで絵を描いたことがあった。そこで自分は、山の絵を描いたことを思い出した。その水はどこからくるのか。天から降ってきたものなのだ。そうして山の上から流れた水は川を流れ、町を通って海へと出ていく。それが蒸発し、雲になり、また山へ注ぎ……そう考えると、結局のところぐるぐるまわっているだけで、水はどこから来たのか、なんて考えても無駄なのではないか、とも思えてきた。けっきょく水の起源とは何なのだろう。

 突然、祥子の足が止まった。そこにあった写真には、見覚えがあった。あのときはスクリーンに映し出されていたので、ここまで鮮明な色ではなかったが、それは確かに一年前の夏に見たものだった。

 そして彼女は理解した。この空間には、あの時の講演を彷彿とさせる空気が漂っているのだ。

 果たして、彼はそこにいた。祥子が何気なく入り口に目をやると、彼が会場に入ってきたところだった。祥子は思わず立ち往生した。講演のときには、曇りの日の摩周湖のような色合いの長袖シャツと、濃い灰色のズボンで、クールビズとはいってもフォーマルな格好だったのだが、今の彼は暗いブルーのハイネックのセーターと、色があせ始めたブラックジーンズという、学生でもおかしくないような服装だ。あの時より若く見えなくもないが、間違いなく本人だろう。彼の勤める大学は、新幹線で数時間かかるところにあるはずだ。東京でばったり見かけるだなんて、思いもしないことだった。

 せめて講演の内容を覚えていれば話のきっかけにもなるだろうが、「きれいな写真に感動しました」などと言ってもあほな学生めと黙殺されて終わるかもしれない。共通の知り合いなど一人もいないので、どういう性質の人であるのかまるで知らないのである。

 無意識のうちにじっと見すぎてしまったようで、彼はこちらに顔を向け、目が合った。目を反らす機会を逸してしまい、そのまま数秒間見つめあう形となる。

 彼はゆっくり近づいてきた。

「すみません、僕、人の顔をあまり覚えられないんです。どこかでお会いしたんでしたっけ」

 相手に不快な印象を与えないよう配慮した様子に、祥子はますます慌てた。

「もしかして、この間一緒に調査に行った学生さんですか?」

「違います、あの、この間、一年前くらい、夏の暑い日に、講演されてましたよね。森林内の水循環をテーマに。あのとき会場にいたんです。だから、あの時の方かなと思って、ついじっと見てしまったんです。失礼しました」

 祥子はしどろもどろになりながら、どうにか返答した。

「ああ、あの時の。つまらない話で、すみませんでしたね」

「いえ、とてもきれいな写真ばかりで。感動しました」

「ああいう写真、好きなんですか?」

「はい、どれもこれも、水がどうやったら一番きれいに見えるか、考え抜いて撮られたもののような気がして。感心してしまいました」

 言ってしまってから、「感心した」なんて偉そうだったと思い、うつむいた。

「特に考えて撮ったわけではありません。僕にはただ、わかるんです」

 祥子は驚いて顔を上げた。彼の表情からは、特に何も読み取れそうにない。

「今日の展示も、実は僕が陰でお手伝いしているんです。あの写真が気に入ってもらえたのなら、こちらも気に入ってもらえたんじゃないかと思うのですが」

「はい、とても」

 祥子は力強く首を縦に振った。

「でも」

「なんでしょう?」

「なんだか、私、よくわからないんです。とても心惹かれるんですけど、なんなんだろうって思ってしまって。考えても仕方ないのかもしれませんが」

 祥子は聞いていいのかどうか迷ったが、聞いてみることにした。

「水の起源って、けっきょく何なんですか?」

 彼は五秒ほど何かを考えているようだった。

「よかったら、お茶でもしませんか」

 二人は会場と同じビルにある、喫茶店に入った。

「あの、私、なんて言っていいかわからないんですけど、すごいなと思いながら、どうすごいかきちんと説明できなくて、すみません」

「いいんですよ。気に入っていただけたのなら、それでいいんです」

 彼は涼し気な笑みを浮かべた。

「さっき、『ただわかる』って言われていたのは……」

 彼は不思議そうに祥子を見る。

「ああ、写真のことですか?」

 祥子はこくんとうなずいた。

「僕は、かつて水だったんです」

 この人何言ってるんだろうという思いと、それなら納得できるという気持ちが、同時に沸き起こる。

「信じて欲しいとか、そんなことを言うつもりはありません。夢物語だとでも思って聞いてもらって構いません。ただ、あなたがあれらの写真に興味があるなら、お話してもいいかなと思ったもので。

 僕は、ここに生まれてくる前までは、ずっと水として、地球上をぐるぐる回っていたんです。川にいたり、湖にとどまってみたり、海に出て、そしてまた蒸発して、空の上で雲となり、地上に降りてきて……。そういうことを、ずっと繰り返してきたんです。数えるのも無意味なくらい長い間、ずっとそうしてきたんです」

「飽きなかったんですか?」

「どうだったのかな。水だったとき、自分が何を思っていたのかは、もうよく覚えていないんですよ」

 祥子はコーヒーを一口飲んだ。コーヒーの味を確かめたかったわけではなく、話を飲み込むのに少し時間が欲しかったのだ。

「先生は、そうやって、水だったことを、川にいたときのこととか、海にいたときのこととか、誰かに飲み込まれたとか、全部覚えているんですか?」

「それは、なんとも言いようがありませんね。記憶にあったとしても、全部思い出せるわけじゃない。あまりにも膨大な時間ですから」

 祥子はとりあえず頷いてみせたが、話を理解したからではなかった。

 彼はそれを、話し続けてよいという合図として受け取ったようだった。

「思えば僕は、物心ついたときからずっと、水のことをよく知っていたんです。子供のころ、家族で出かけるときには、必ず水のあるところを希望していました。海だったり、川だったり、湖だったり、湧き水の出る山だったり。僕は、そういうところで水に触れてじっとしていることを、こよなく愛する子供でした。

 ある程度大きくなって、高校生になったころだったか、僕は自分が水については、ずいぶんみんなが知らないことを知っていることに気づいたんです。図書室に置いてある本をちょっと見て、どんなことが書いてあるかだいたい予想がついたりだとか、予想できないことでも、一度読めばあらかた内容が読み込めてしまったりだとか。

 大学に入って、水の生まれるところへもっと行きたいと思った。山に関する学問がいいと思い、この分野を選んだんです。そこでも僕は、水理学だとか水文学だとかは、授業を全くきかなくても既に理解できました。もともと勤勉ではないので他の教科は全然できなかったけれども、そうして水に関する知識を求め続けていました」

 彼は少し話過ぎたと思ったのか、祥子がなにか話すまで待つ素振りを見せる。

「先生は、全然日焼けしないんですね」

「それも不思議に思っていたんですが、普通の人よりも肌の水分が多いみたいなんですよね。だから、冬になっても肌荒れとは無縁なんです」

 声を出して笑う気にはなれなかったが、とりあえず少し微笑んでみた。

「水になる前は、どこにいたんですか?」

「宇宙にいたようです」

「宇宙にいたときのことも覚えているんですか?」

「たまに夢にみているような気はするのですが、起きたら大抵忘れているので、きちんとお話することは難しいですね」

「その前は」

「それ以上古いことは、全然わからないんです。きっとそのあたりが始まりなんでしょう」

 水の起源、と頭の中でつぶやいてみる。

「先生は、いつから自分が水だったと思うようになったんですか?」

「先週くらいからです」

「ずいぶん急ですね。今までも、たまに水だったころの記憶がよみがえっていたんでしょう? つじつまが合わなくないですか?」

「今までは、単に妄想だと思っていたんです。でも、その記憶は本当のことだったんだって、それがわかったのは最近ということです」

 祥子は視線で、話の先を促した。

「来月、僕は三十三歳になります」

 自分よりも十歳以上年上だったのか、と意外に思う。

「この体は、三十三年以上は持たないんです」

「誰がそんなこと決めたんですか」

「生まれたときから、決まっていたんです」

 祥子は静かに首を横に振った。彼は、なだめるような優しい目をした。

「もちろん、そんなことずっと知っていたら、安心して生きていられません。だからこうして、直前になると思い出すように準備されていたんだと思います」

 彼はいったん言葉を区切った。何を言うべきか、窓の向こうを探しているようだった。

「信じろというほうが無理ですよね。ただ、誰かに話したいと思ったんです。ついていけないからやめて欲しいというのであれば、話題を変えましょう」

「いえ、聞きたいです」

 彼はそっと頷いた。

「多分、僕は来月にはもうここにはいない」

「……」

「でも、そういうのは全部僕の幻想で、何も起こらないかもしれない。ただ僕が最近寝不足で過労気味だから、おかしなことを考えているだけなのかもしれない。信じる信じないは自由です。強制するつもりはありません」

「なんで私にそんな話を」

「僕にもよくわかりません。誰にも言うつもりはなかった。言っても頭がおかしいと思われるだけだから。でも、きっと消えていく前に、誰かに言ってみたかったんだ。それにあなたは、僕の写真を気に入ってくれたから」

 彼の表情が、一瞬ささやかな風を受けた水面のように揺らいだ気がした。

「身近な人には、こんな話できないですからね。あっという間に噂が広まるでしょうし、心配されたり、騒がれたり、そういうのに巻き込まれたくないですから」

 椅子を引く大きな音がした。隣の席のカップルが、席を立ったのだった。

「あの、先生は都心にはよく来られるんですか?」

「はい、月に何回かは。普段住んでいるのが田舎なので、休日はたまに都会に来たくなるんです」

「じゃあ一月後、来月の第三土曜日、ここで待ち合わせしましょう」

「生きていたらね」

「悪い冗談はやめて下さい」

 二人のコーヒーカップはかなり前に空になっていた。いつの間にか、外には順番待ちの列ができていた。

「そろそろ出ましょう」

 彼は、伝票を手に取ると立ち上がった。


 一月後の第三土曜日、祥子は祈るような思いでその店へ行った。待ち合わせの時間の三十分前に店に入り、コーヒーを三杯お替りしたが、彼はやってこなかった。

 あの時と同じ席に座り、一月前の会話を思い出していた。

 厚い窓ガラスの外の音など聞こえるわけはないのに、何か音がした気がして外を見ると、雨が降り始めたところだった。

 彼を待つ間、彼女は無言で雨を見続けていた。


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