2月15日
目が覚めた。
冷たいフローリングの床に、身体がくっついていた。白いカーテンの隙間から差し込む淡い光。記憶の中にはない形をした天井の角度。
知らない場所だった。
起き上がった。そうしたってここがどこか分かるわけもない。
隣に梯子があった、そう長くない、ベッドへと続く梯子。明らかに人を寝かせるのに適切な場所があるのに、どうして自分はそこいなかったのだろう。
理由はすぐに分かった。先客がいたからだった。
微かに聞こえていた吐息が少し、止んだ。小さく声が上がる。文字にできない、音が喉の奥で一つ。やがて布の動く音が聞こえる。手をついて、軋む木の板。
彼はのそりと起き上がった、自分よりは速く、でも遅い起動。
ベッドの縁に手をかける。こっちに頭を持ってくる。その瞳は自分の方を向いて、捉えた。
「待ってたよ」
柔らかい声が、白い壁に吸い込まれていく。
待ってたよ。
その言葉の意味を掴めず宙を見つめていると、彼は目の前にやって来て、手を取った。
「ありがとう、ここを選んでくれて」
選んだ、記憶なんて、無かった。
分からなかった。何も、何も。
目の前の寝ぐせだらけの青年。細められた目の際に汚れ。触れる手は冷たくて、愛おしそうに撫でてきた此方の指には、剥げかけた赤いネイル。
何も分からない自分に感謝をする、可笑しな青年。
青年は立ち上がって、ドアの向こうに消える。すぐ向こうに水道でもあるのか、水の流れる音。どうして自分はそれを水の音だと分かるのだろう、何も分からないはずなのに、抜け落ちたものだらけの頭はそれを理解した。言葉に、水に、呼吸の仕方。それは分かるのに、他はあまり分からない。
ケトルのようなものを手に青年はこちらの部屋に入ってきた。人間が二人いるには少々狭い小さな部屋。机の上にケトルを置いて、コンセントにプラグをつなぐ。スイッチを入れてお湯を沸かし始める。手元のリモコンでエアコンの電源を入れた。暖房、21度。目の中に入ってくる情報を処理する自分の脳は、予備知識の一つでも果たして持っていたのだろうか。
鏡があった。棚の扉に取り付けられた縦長の鏡。立ち上がってその前に立ってみた。ベージュのコート、その下に白いブラウス、赤いスカート、黒いタイツ。髪の毛は肩の上で揃えられて、染められたような茶。化粧は落としてあるのか、眉尻が消滅していた。
「着替える?」
青年の声に振り返った。机の上には湯気を立てるマグカップが二つ。中には不透明の茶色をした液体。ミルクティー、ココア、カフェオレあたり。
「できるの」
初めて耳にした自分の声は嫌に高く、勝手に驚いた。息をもう一つ吸って、落ち着いて声を出してみた。
「それどころじゃない、気がするんですが」
喉を開いても同じ声。息をするたび冷えていく喉の奥。
「そうだね」
特に驚きもしない青年は、クッションを動かして座るよう促す。選択肢が他に見えなくて、促されるままにそれに腰を下ろす。
「ココア、飲みながら話そう」
赤いマグカップが手渡される。彼が口を付けるのは淡い黄色、カスタードクリームに似ている。特に考えずに口を付けた、熱い。
「あつ、」マグカップを机に置いた自分を、彼は息だけで笑った。驚きもせず、馬鹿にするわけでもなく。「火傷してない?」大丈夫、と返せば、彼は安心したようにこっちを見つめてくる。
「まあ、不安だよね、話そうか」
彼もマグカップを机に置いた。
「君は昨晩この部屋にやって来た。0時を過ぎたあたりにインターホンを鳴らした履歴が残ってる。僕が君に気づいたのは早朝」
部屋の上の方にある時計に目をやる、11時。一度気づいてから二度寝をかましたそうだ。
「その時にはもう君は床で眠っていた。初めてのことじゃないからほっといたよ、ごめんね。寒かったでしょう」
「…おそらく」
二月の夜にしては薄着のまま、一晩床で眠っていた。きっと寒かっただろう。
「君はきっといろんな記憶がないと思う。僕のことも、この場所も君にとっては初めましてだらけだと思う」
頷いた。その通りだった。
「でも安心してほしい、僕は君のことを知っているから。ついでにこの場所がどこかも知ってる」
流石に、ここがどこか知らずベッドで寝ているとすれば可笑しいのでは。
「まあ、そんなとこ」
彼は立ち上がる。棚の扉を開けて、服のようなものを引っ張り出す。「着替えといて、あったかいから」渡して、ドアの向こうに消えていく。もう一度水が流れる音がする。何かの電源がついたことを知らせる電子音、彼が棚を開けたり閉めたりする音。
よく片付いた部屋だった。床に物は散らばっていなくて、机の上にも必要最低限の物しかない。ベッドの下に置かれた棚に必要なものを入れているようだった。
何も考えずに服を脱いだ。コートとブラウスを脱ぐと、黒いキャミソールが現れた。鏡で自分の姿を確認すると腕は全体的に不健康な色をしていて、特に手の先は他の皮膚とは違ってほんの少し黄土色をしていた。渡された服のうち片方はトレーナーで、先ほど彼が口を付けたマグカップに似た色をしていた。腕を通すと体格差のせいか袖が余って、膝の上まで柔らかい生地に覆われた。スカートとタイツを脱ぐと、これまたひどい見た目の脚が出てきた。手の先よりも一段階濃い黄土色が膝の下あたりまで上って来ていて、ところどころ青色や紫色の痣があった。渡された柔らかいグレーのズボンに脚を通した。先ほどまで身に着けていた衣類は畳んで床に置いた。
ドアが少し開いて、彼が顔をのぞかせた。
「そっか、裸足か」そう言うとベッドの下の棚から黒い靴下を一組取り出して寄越した。
「もう少しでできるから待っててね」とまた向こう側に消える。
畳んだ布の塊を枕にして、また床に横になった。ベージュの冷たいフローリング。目を閉じて、何も考えず息をした。ドアの向こうで何かが焼かれる音がする。遅れて電子レンジで何かが温められた音。忘れかけたころに水の流れる音がした。暫くしてドアがまた開いて、足音が近づいてきた。
「起きれる?」
優しい声色に喉の音だけで返事をした。