第五百八十五話:ヘクターの演奏
路地にある楽屋テントには同じように出番を控えた人達が楽器の調整を行っていた。
割とうるさいが、劇場は結界で覆われているから劇場に音が届くことはない。
それでも周りの住人にかなりの騒音被害が出そうではあるが、みんなお客さんとしてきているようなので多分問題はないだろう。
さて、それぞれの楽器を【ストレージ】から出して楽器の確認をしていく。
本当は実際に演奏してみたいところだけど、流石にそれはネタバレになってしまうし、あんまり長く音を出すのは他の人にいい顔はされないので自重するしかない。
前日に調整したおかげもあって、特に問題はなく、どの楽器も音はしっかり出るようだ。これなら、本番でも大丈夫そうである。
「ちょっと緊張してきたかも」
「カムイさん、気軽に、気軽にですよ」
間近に迫った出番を前にカムイがしきりに深呼吸を繰り返している。
まあ、あれだけの観客の前で演奏するのだから緊張しないわけもないか。
しかし、そこまで思いつめるものでもない。
と言うのも、今まで演奏してきた人を見る限り、堅実に演奏するというよりは、失敗してもいいから目立つことをする、と言う人が多かったからだ。
当然ながら、高い技術が要求されるパフォーマンスは失敗することも多かったが、それでも観客達は笑って拍手を送ってくれていた。
むしろ、堅実な普通の演奏の方が受けは悪かった。
だから、失敗を恐れず、私達のできることをやっていくのが一番なのである。
まあ、わかっていても緊張はするけどね。
「そうね、平常心平常心……」
カムイは張り切ると思いがけないドジをすることがあるから少し心配ではある。
楽器を壊さないかひやひやしていた。
しかし、どうやら緊張のせいか逆に落ち着いているようで、今のところは大丈夫そうである。
このまま本番が終わるまで持ってくれたらいいなぁ。
「シルヴィア、アーシェ」
と、そこに隣から話しかけてくる人がいた。
この楽屋テントは概ね番号順に並んでいる。なので、私達の隣のテントにはヘクター君がいるのだ。
決戦前の挨拶と言ったところだろうか。その表情は真剣そのものである。
「今日こそは勝つ。しっかりと見ておけよ」
「もちろん、しっかり見させていただきますわ」
「そちらこそ、私達の演奏をしっかり見ていてくださいませね」
「当然だろ」
両者の間で稲妻のようなものがバチバチと散っている気がする。
今回はヘクター君が先攻となったわけだが、果たしてこれがどう影響してくるだろうか。
審査員が点数をつけていく関係上、最初の人達はあまり高い点は付けられない。あんまり高くつけすぎてしまうと、その後でより高い技術を持った人がいた時に大変だからね。
しかし、私達は100番台。そんな調整はもはやなく、思うがままに採点してくるだろう。
私達の技術とヘクター君の技術、どちらが上かはっきりとわかるわけだ。
「言いたいことはそれだけだ。お前達は俺の次だろ? そろそろ待機場所に行こうぜ」
「ええ、わかりましたわ」
出番までおよそ十分ほど。ヘクター君の場合、ピアノと言う大型の楽器を扱うことから、スタッフさんが協力して運んでいるらしい。
もう初めからステージに設置しておけばいいと思うんだけど、それじゃダメなのかな?
まあそれはともかく、ヘクター君の出番が近いということは私達もそろそろ出番。私達も待機しに行こうか。
待機場所であるステージ袖に着いてからしばらく経ち、ヘクター君の番が訪れた。
他の多くの音楽家と同じように一人だけではあるが、ピアノは大きいので存在感がある。
ヘクター君は臆することなくステージに向かい、観客に挨拶をした後、ピアノへと向かう。
そして、静かに演奏が始まった。
「おおー……」
思わず感嘆の言葉が漏れる。
滑るように動く指は的確に鍵盤を叩き、至高の調べを紡いでいく。
その技術力は高く、今までに聞いてきた他の音楽家と比べるとかなり高い才能を窺わせてくれた。
シルヴィアさん達もかなりうまいと思っていたけど、流石ライバルを名乗るだけはある。素晴らしい演奏だ。
「なかなかやりますわね」
「練習期間は短いはずですのに」
シルヴィアさん達もその演奏に聞き入っている様子。
確かに、一か月前にはすでにこの町にいたようだけど、学園が休みになってから来たとなればせいぜい早くてもその一週間前くらいに着いた程度だろう。
それから、シルヴィアさんの発言を受けて仲間探しに奔走していたとなると、そのアドバンテージはなくなり、むしろマイナスまでいっているかもしれない。
つまり、私達よりも練習する期間は短かったはずなのだ。
もちろん、ピアノなんて大型の楽器、学園に持ち込めるはずもないし、シルヴィアさん達以上にブランクがあったに違いない。
それなのにこの素晴らしい旋律だ。相当努力したことがわかる。
「負けていられませんわね」
「ええ、私達の演奏で度肝を抜いてやりましょう」
やる気は十分。あの演奏を聞いても全く物怖じしていない。
やがてヘクター君の演奏が終わり、会場中から拍手が送られる。
審査員も、今までの最高評価を付けてきた。
文句なしに最高の相手である。
さて、これを越えられるかどうか。
「次は私達の番ですわ」
「皆さん、準備はよろしいですの?」
「もちろんです」
「大丈夫だぞ」
「私はやれる……。よし、大丈夫」
次は私達の番。スタッフさん達がピアノを片付けるまでのわずかな間で、私達は気合を入れる。
狙うは打倒ヘクター君。現在最高評価を貰った人が相手だ。
「よし、行きましょう!」
「「「おおー!」」」
一度深呼吸をしてから、ステージに上がる。
すれ違いざま、ヘクター君がぐっと親指を上げていたけれど、激励のつもりなのかな。
ともかく、ライバルに背中を押された以上はますます負けられない。
楽器の設置が終わり、代表であるシルヴィアさんが観客に向かって挨拶をする。
演奏する曲は『百合の花』。
なんか意味を知ってしまうとあれだけど、端から聞く限りはただの恋の歌にしか聞こえないだろうから多分大丈夫だと信じたい。
「それでは、聞いてください!」
シルヴィアさんの合図とともに、演奏を始める。
さあ、私達の演奏はどこまで通用するかな?
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