第五百五十五話:感謝の気持ち
「……まず一つ言わせてもらおう。ありがとう、とても嬉しい」
しばらく放心していたヴィクトール先輩はようやく落ち着いたのか、私達一人一人を見ながらそう言った。
泣いたり笑ったりといった表情の変化は見せず、努めて冷静に言い放ったと思う。
ただ、肩がプルプルと震えていたので我慢していただけかもしれない。
ヴィクトール先輩はこの研究室では唯一の先輩だ。
研究室の備品の整理や素材の購入、メンバーへの気遣いなど、ヴィクトール先輩は常に与える側だった。
もちろん、ミスティアさんの調合技術にはいつも助けられていたし、私の魔法も重宝されていたけれど、それでもヴィクトール先輩は何かを受け取るということに慣れていなかったのだ。
冷静に見えるのは、後輩の前で無様な姿は見せられないからだろう。貴重な素材を用意してくれたミスティアさんや私達に心から感謝しているのはなんとなくわかる。
「だが、同時にすまない。こんな落書きのためにみんなを振り回してしまって……」
それと同時に、ヴィクトール先輩は後悔もしているようだった。
ヴィクトール先輩にとって、あのアイデアは本当に落書きのようなもので、あれをそのまま現実にするつもりはなかったらしい。
製作コストも度外視して考えられた構成はとてもじゃないけど薬を安価で提供するという夢とは正反対だし、あくまでこういうものを作りたいという願いであって、実際にはもう少し簡単なものを作ろうと思っていたらしい。
最悪、平癒魔法を使った魔法薬が作れればそれでいいとも考えていたようだ。
それを聞いた時、ミスティアさんは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
まあ、あれこそがヴィクトール先輩の夢と思っていたのに、実際はただの落書きだったんだから。しかも、そのためにあちこちを巡って希少な素材を集めまくっていたわけだから取り越し苦労もいいところである。
ヴィクトール先輩に少しでも尋ねていればこんなことは起こらなかっただろう。ヴィクトール先輩を思うが故の過ちだったと言える。
しかし、全く無駄かと言うとそういうわけでもない。
「実を言うと、ミスティア君が言っていたその案のプロトタイプを今年の発表会で発表するつもりだった。だからこそ、平癒魔法が使えるかどうかを確認したし、素材も色々と用意していた」
「ご、ごめんなさい……私、何も考えないで……」
「だが、ここまで用意してくれたのなら、私はそれにきちんと応える必要があるだろう。こんな希少な素材が揃うことなど滅多にない。所詮は夢物語と諦めていたものが手の届くところにあるのだ。使わない手はない」
ヴィクトール先輩は若干涙目になっているミスティアさんの肩に手を置き、顔を覗き込むように屈む。
その表情はまるで小さな子に言い聞かせるように冷静に、それでいて安心させるように笑っていた。
「ミスティア君、恥じることはない。むしろ誇るべきことだ。私が無理だと諦めていたことを実現してくれたその努力は賞賛に値する。だから、今一度私に力を貸してくれないか? 君の使う平癒魔法がこの魔法薬にはどうしても必要だ」
「作って、くれるんですか……?」
「後輩の期待に応えるのは先輩の義務だ。私は君達の先輩として必ずやこの魔法薬を完成させよう。だから、顔を上げておくれ。君が悲しむ姿は見たくない」
「……ありがとうございます」
そっと抱き着くミスティアさんとそれを優しく受け止めるヴィクトール先輩。
場所が研究室でなかったらそれなりに絵になる光景だったのではないだろうか。雑多な研究室が背景なのが悔やまれる。
まあ、それはそれとして、ヴィクトール先輩もどうやらやる気を出してくれたようだ。
すでに代案を考えて進めていたようだが、しっかりとこれらの素材を使って理想の魔法薬を作る心づもりらしい。
発表会まではあと一か月ちょっとしかないけど、間に合うだろうか。
いや、間に合わせてみせる。そう心に決めた。
「……それにしても、これほどの素材を一体どこで手に入れたんだ? 特に神星樹の実がこんなにたくさん、買ったわけではなさそうだが……」
「ぐすっ……一年の頃から、あちこちを探し回って見つけたものです。中には家の人に手伝ってもらったものもありますけど、大抵は自分で見つけました。神星樹の実はハク達に協力してもらって、見つけました」
「……そんなに前から私の妄想に付き合わせてしまっていたんだね。すまない、私があんな落書きを夢などと言ってしまったばっかりに」
「い、いえ! 私はヴィクトール先輩の考え、とても素敵だと思いました! 私がやりたいからやったんです、ヴィクトール先輩のせいじゃありません!」
感情が高ぶっているからか、ミスティアさんのいつもの間延びした口調が崩れている。
でも、よくもまあ探す気になれたものだ。
確かに、神星樹の種以外の素材は見つけるのは困難ではあるが頑張れば手に入れられないこともない素材である。貴重な素材とは言っても、誰もが金に糸目をつけずに買うというようなものじゃない。
数年単位の時間をかければ確かに集めること自体は可能ではあるが、それを学生の身で行ったと考えると凄いことだ。
平日の放課後はほとんど研究室にいたことを考えると、休みの日に集めてたってことだろう。あるいは、長期休みの時に頑張って、と言うことかもしれない。
中には場所を選ぶものもあるというのにその執念はすさまじい。私も、事情を知っていれば手伝えたんだけどな。
今回話を持ち掛けてくれたのは神星樹の種だけは自力じゃどうしようもないと思ったからだろう。
でも、もっと初めから頼ってくれてもよかったのにとは思った。
「いや、後輩の悩みの一つも見抜けないようでは先輩失格だ。この責任は魔法薬を完成させることで必ず果たす」
「……先輩の夢、必ず形にしましょうね」
「ああ、もちろんだ。ハク、エル、サリア、君達も手伝ってくれるかい?」
「はい、もちろん」
「努力は報われなければいけませんからね」
「頑張るぞ!」
ここに残りのメンバーである後輩達が入っていれば綺麗に締まったかもしれないが、彼らは私が遠征に出かけていることを知って絶賛さぼり中である。
多分もう少ししたら来るだろうけど、私目的じゃなくてしっかりと魔法薬の研究に精を出してほしいものだ。
発表会まであとわずかしかないんだし、やる気を出してくれ。
「さて、それではさっそく取り掛かるとしよう。ミスティア君、まずは保管箱にこれらの素材をしまってくれるかい?」
「わかりましたー」
ヴィクトール先輩の指示にいつもの調子が戻ってきたミスティアさん。
てきぱきと仕分けをし、保管箱に収めていく。
それから使う素材だけを取り出し、すり鉢とすり棒を用意。いつもの調合の準備が整った。
「素材をダウングレードさせた代案は粗方完成している。手順は同じでいいとして、問題はタイミングだな」
ヴィクトール先輩は慎重に素材を選びながらすり鉢の中に放り込んでいく。
希少な素材ばかりとはいえ、数はそこそこがある。だが、いくらでも失敗できるかと言われたら当然そんな数はないので、試行できる回数は決まっている。
それまでにベストなタイミングを見つけられるかどうかが鍵だ。
だが、それに関しては私の【鑑定】でどうにでもすることができる。私の【鑑定】は、調合中の些細な変化すら見抜くことができるから。
しかし、それを大っぴらにやれるかと言うとちょっと違う。
この魔法薬はヴィクトール先輩の手で作り上げるべきだろう。もちろん、手伝いはするが、後ろからあれやこれや言いまくって完成させたのではヴィクトール先輩が作る意味がない。
出来ることなら、ヴィクトール先輩の力だけで正解に辿り着いてほしい。そんな気持ちがある。
幸い、まだ実験は始まったばかり。まだ失敗すると決まったわけじゃない。
私は成功を祈りながら、その様子を見つめていた。
感想、誤字報告ありがとうございます。




