第四百九十九話:精霊の抱擁
竜の谷の上空。眼下に見える広大な谷を前にふと思う。
以前の勇者はどうやってこんなところに来たんだろう。
竜の谷から一番近い村から来たとしても、その間には広大な森と険しい山脈がある。当然、人の手など入っていないから道などないし、竜の谷の魔力に引き寄せられて多くの強力な魔物が跋扈している。
そりゃ、勇者一行は強いのだろうし、魔物が強いくらいは脅威にならないかもしれないけど、勇者は日本人だったはず。戦闘のスキルはいつの間にか生えていたとしても、険しい山道や迷いやすい森を踏破する力などなかったはずだ。
飛行魔法を使ってそれらを無視して突っ切ったという可能性もあるが、山の標高は軽く5000メートルを超えている。竜の谷付近なら天候魔法の影響で温度は一定に保たれているが、それ以前の場所ならそんな高度にいたら相当寒いだろう。絶対凍傷なり高山病なりのリスクがあったはずだ。
仮にそれらを抜け、竜の谷に辿り着けたとしても、竜の谷でまともに歩ける場所など谷底くらいしかない。当然、そんなところにいれば竜達の集中砲火を受けるし、まともに戦ってなんかいられないと思うんだけどな。
勇者が何かしらの特別な力を使ったのか、それとも相当な犠牲を払って成し遂げたのか、どちらにしてもわざわざこんなところまで来るなんて馬鹿げていると思う。
魔王の城が最高難易度の場所にあるのはわかるけど、どちらかと言うとお父さんは裏ボスだよね。一度戦っているところを見てみたい気もする。
「お父さん、ただいま戻りました」
〈ハクか。よくぞ戻った〉
そんなことを頭の片隅で考えながら、住処である洞窟へと向かう。
お父さんは相変わらず雄々しい竜の姿をしていた。
まあ、本来の姿が竜なのだから当たり前なのだけど、たまには人の姿になればいいのに。
今のところ、食事の時以外で人の姿になっているところを見たことがない。やっぱり、窮屈なんだろうかね。
「お父さん、聖教勇者連盟の様子はいかがですか?」
〈今のところは大人しくしている。が、奴らに約束を守るという言葉はないようだ。再び我らが姿を現そうものなら、問答無用で襲い掛かってくることだろう〉
確かに、今の聖教勇者連盟は一部の人を除き竜の討伐に賛成的だ。
まあ、こちらの要求が教皇達の身柄の引き渡しだったのに、それらがなされない今でも何もしてこないところから舐められているという可能性もあるけど、どちらにしろよくない兆候である。
ただ、それは洗脳のせいと言うのもあるので一概に彼らが悪いというわけでもない。もしかしたらだけど、竜と相容れる選択もあるかもしれない。
「再び交渉することはできませんか?」
〈向こうの出方次第だろうな。もし、再び牙を剥いてくるようならば、一思いに皆殺しにしてやる方がいいかもしれん〉
元々、お父さんは聖教勇者連盟の破滅を望んでいた。本来ならセフィリア聖教国もろともだったところを、私が我儘を言って留めてもらったのだ。
だけど、実際にはその聖教勇者連盟すら存続し、今でも竜の事を敵視している。
いくら私でも、流石にこれ以上暴動を起こされたら擁護しきれない。今彼らが生き残っているのは、私のお気に入りだからだ。
でも流石に、長年に渡って竜を攻撃していた国を残しておくほどお父さんも寛大ではない。次があったら確実に滅ぼしてしまうだろう。
これは、あまり時間は残されていないかもしれないね。何としても、早々に浄化魔法を完成させて彼らの洗脳を解き、説き伏せないといけない。
「もう少し時間をいただきたく思います。彼らは事の善悪を知らぬ子供なのです」
〈教育が悪かったということか。ハク、お前なら教育し直せるというのか?〉
「必ず」
〈ならば任せる。我もハクのお気に入りを壊すのは心苦しい〉
さて、こう言ってしまった以上は私も頑張らないといけない。
浄化魔法を作るだけなら簡単だけど、問題は彼らの洗脳を解いた後だ。
みんながみんなそれによって竜のことなどアウトオブ眼中になるならそれでいいんだけど、そううまくいくとは思わない。
竜の事を悪だと信じる神官が多くいるし、素で竜の事が悪だと思っている転生者もいるだろう。
必ず教育し直すとは言ったけど、自信は全くない。
でも、私が失敗したら、そのまま聖教勇者連盟の消失を意味するし、何としても成功させないと……。
変なプレッシャーがかかってしまったな。
「ありがとうございます。近いうちにまたきますね」
〈うむ、気をつけてな〉
「あ、それと、お母さんはいらっしゃいますか? 少し聞きたいことがあるのですが」
〈リュミナリアなら森に……いや、すでに向かっているか。しばらく待てば向こうからやってくるだろう〉
「わかりました」
まあ、お母さんとはここに来る度に会っているし、私が帰ってきたのは精霊のネットワークで察知しているだろうからすぐに来るか。
情報収集をさせたらお母さんの右に出る者はいないだろう。精霊がいける場所であればどんな情報でも攫うことができるのだから。
「ハク、会いたかったわ」
「お母さん、ただいま」
しばらく洞窟内に設置された部屋で待っていると、お母さんが入ってきた。
精霊の女王がホイホイ森を離れてもいいのかと思うけど、精霊は基本的に気まぐれだし、このくらいが普通なのかもしれない。
私は抱き着いてくるお母さんとしばし抱擁を交わすと、早速気になっていたことを聞くことにした。
「ふむふむ。それは多分、精霊の抱擁と似たような事が起こっているんじゃないかしら?」
「精霊の抱擁?」
私が解呪の後のシュピネルさんの反応を話すと、そういう答えが返ってきた。
精霊の抱擁とは、精霊が気に入った相手を見つけた時に体を霊体化させて相手の身体をすり抜ける行為の事を指すらしい。
これは相手に加護や魔力を与える時に行う方法で、他にもキスをしたりそのまま抱きしめたりなど色々なアプローチの仕方があるらしい。
本来であれば、ただそれだけの行為であり、相手に体調的変化を与える要因はない。ただ、ある条件が重なると、心理的影響を与える可能性があるのだとか。
「それは?」
「相手の体の中に霊体化した状態で長時間留まること、そして魂に触れることよ」
詳しいことは知らないが、魂は精霊で言うところの精霊光であるらしい。精霊達は本能的にそれが人にとって大事なものだとわかっているので、滅多なことで触ろうとはしないようだ。
だけどごく稀にいたずらが過ぎて魂に触れてしまう精霊もいるらしい。そうなると、その人物は見えないはずの精霊をその個体に限り視認できるようになり、様々な感情の変化を示す。
それは愛情だったり、恐怖だったり様々だが、多くの場合は愛情を抱くようだ。
精霊は生殖機能を持たないからそれで事に及ぶってことはないようだけど、しばらくの間は恋人のように接してくることがあるらしい。
「ハクがやったのって、魂に絡みついた契約の紐を千切る作業だったんでしょう? なら、条件は満たしていると思うけど」
「確かに……」
長時間霊体化した状態で体の中にいたし、魂にも触れた。私は知らないうちに精霊の抱擁とやらをしてしまっていたらしい。
「それって、一度なったらずっとそうなの?」
「いいえ、連続でやらない限りはじきに治るわ」
それならよかった。これで一生好意を抱き続けるとかだったら本当に申し訳ないことをしていたところだ。
そういうことなら、最悪この方法で洗脳を解いていってもいいかもしれない。浄化魔法が効かなかった時の案として考えておこう。
感想、誤字報告ありがとうございます。




