第三百五十八話:最後の理性
「……?」
ざしゅっと肉が切り裂かれる音が聞こえた。しかし、痛みはなくそれどころか温もりを感じる。
確実に私は斬られたはずなのに、なぜ私はまだ意識を保っていられるんだろうか。
瞑っていた目をゆっくりと見開く。そこには、琥珀色の瞳をした少女の姿があった。
「え、る……?」
「ハク、お嬢様……生きて、ください……なんとして、も……」
儚げに笑ったエルの姿を見て、私はようやくエルに庇われたのだと気が付いた。
ぐったりとしなだれかかってくるエルの身体は血に染まっている。見れば、その背中はバッサリと横一文字に切り裂かれていた。
竜の状態であれほどの大怪我をする斬撃なのだ、人状態になって防御力が下がっている状態であれを受けたらどうなるか、想像できないわけない。
エルの瞼がゆっくりと落ちていく。痛みに狂いそうになっているはずなのに、その表情はとても安らかだった。
徐々に体が冷たくなっていく。それは、エルの命が急速に失われて行っていることの証明だった。
「エル! エル!!」
とっさに揺さぶるが、エルがその目を開くことはない。
嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!
エルが、私の家族がそんな簡単に死ぬなんてありえない!
エルはエンシェントドラゴンだ。この世界の最強種たる竜の中でも最古参であり、世界の管理を任された偉大な竜だ。それがこんな、私なんかのために命を落としていいはずがない!
私は即座に治癒魔法をかけた。しかし、いくらやってもエルが目覚めることはない。
お腹と背中をかなり深く切り裂かれたのだ、臓腑もめちゃくちゃになっていることだろう。治癒魔法一つでこれが瞬時に治るはずもないが、私にはそんなことどうでもよかった。
エルが生きていてくれるなら何でもいい。エルが死ぬなんてことは絶対にあってはならない。
私は何度も何度も治癒魔法をかけた。それが無意味なことだと薄々感づきながらも、それを認めたくなかった。
「なんで……どうして、私なんかのために……」
エルは私にとっての家族だ。私がこの世界に来たばかりの頃、人間なのに精霊の、それも竜の力を持つ者に転生されられた挙句、性別まで変化させられ、自暴自棄になっていた頃からずっと、私の事を支え続けてきてくれた。
本来であれば最古参たるエンシェントドラゴンがやるような仕事ではなかっただろうに、泣き言も恨み言も言わず、私の事を理解し、きちんと育て上げてくれた。
一度離れ離れになった後も、700年と言う時が経ってもなお私の事を気遣ってくれて、私の我儘もたくさん聞いてくれた。
エルは、お姉ちゃんやお兄ちゃんと同じくらい大切な人だったのだ。
それが、こんな、私なんかのために、死ぬなんて……。
「なんだ、まだ生きてたのか。しぶとい竜だな」
ざりっと土を踏む音が聞こえる。私の背後に勇者が立っているのが気配でわかった。
「子供を庇ったか。なんとも無駄なことをしたもんだ。どうせ二人纏めて殺しちまうのに」
「……無駄なこと?」
「そうだろ? ここでお前を庇ったところでどうせお前は死ぬ。なら、死んだふりでもしとけばまだ助かったかもしれないのにわざわざ庇うなんて無駄以外の何物でもないだろ? まあ、どうせ死体は解体するつもりだったから死んだふりなんて通るわけないけどな」
私なんかのために命を散らしたことが無駄なこと?
ああ、確かにそうだろう。私なんかを庇うくらいなら、その隙に逃げだして欲しかった。私はどうなってもいいからエルに生きていて欲しかった。
だけど、私が同じ立場だったとしたら迷わずエルを庇うことだろう。だから、エルにとってはあの行動が全くの無駄ではなかったことくらい私でもわかる。
私という命を助けたこと、それがエルの生きていた意味だとするならばその命を軽々しく奪おうとするこいつは何だ?
私の命を奪うということは、エルの尊厳を踏みにじることに他ならない。エルが私を庇ったことを無駄だとあざ笑うことに他ならない。
ではどうするか? 証明するしかない。私が、エルが命を散らした事が無駄ではなかったことを。
「……訂正しろ」
「あん?」
「エルが私を庇ったことが無駄だという発言、訂正しろ」
「はっ、何を言うかと思えば。無駄なことを無駄と言って何が悪い。ただの魔物の分際で調子に乗るな。お前らは俺に倒されるがためだけに存在するんだよ!」
今思えば、この問いは私の最後の理性だったんだろう。その言葉を聞いた途端、私の中の何かがぷつんと切れた。
その瞬間、夥しい量の魔力が全身を駆ける。熱く、暑く、体のすべてが溶けてしまうような魔力の奔流。それは瞬く間に私の身体を包み込むと、その姿を変容させていった。
小柄だった私の身体がどんどん膨張していく。それはまるでアドバルーンに空気を入れていくかの如く、魔力の渦が巻き起こっていく。
その過程で、体格も変わっていった。人間としての身体から四足歩行に適した骨格へと変化し、背中の翼はさらに広がり、手足はより巨大な爪が生え揃い、首は伸縮しながら伸びて行き、口は裂けるほどに開いて鋭利な牙を覗かせる。
余波によって巻き起こされた風が止み、その場に現れたのは銀色の竜。月明かりを反射してきらめくその姿は、まるで月女神が遣わせた使徒のようだった。
「……こりゃ、たまげたな。それが本来の姿ってわけかい?」
目線が上がったせいか、だいぶ下から聞こえる声に視線を向けると、勇者が若干戦きながら剣を構えていた。
本来の姿とは何だろう。よくわからないが、私は今とても気分が高揚していた。
人状態から竜形態になった時の解放感に似ているが、これはそれ以上。言うなれば、全能感のようなものを感じる。
ここにいるのは何だ? エルを殺した奴だ。ならばどうするか? 決まっている。
――殺す。
「図体がでかくなっても竜は竜、この剣にはかなわ……なにっ!?」
勇者が放った斬撃を結界で防ぐ。
元々、ミホさんが張った結界は壊されこそすれすぐには壊されることはなかった。つまり、数度は攻撃を耐えれていたのだ。
ならば、それと同じだけの強度を持つ結界を作り出すことができればノートゥングの攻撃を止めることも可能。なんとも単純な話だった。
空間魔法に特化したミホさんの結界と同等の物を張るのなら相応の魔力が必要になると思っていたけど、思ったよりも消費しなかった感はある。だって、減った気がしないんだもの。
今ならばどんな魔法だって使うことができる気がする。例えばそう、こういうことだって。
「なんっ……かはっ!?」
結界で勇者を閉じ込め、さらに空間そのものを刃とした不可視の攻撃で腹を貫く。
勇者はすべての攻撃に耐性を持っているようだけど、空間魔法だけは特別だ。空間そのものに干渉できる存在など竜か精霊くらいしかいないのだから。
耐性を持っているように見えても、それは単に威力が足りなかっただけである。だから、足りない威力を魔力で補ってやれば、簡単に攻撃を通すことができる。
「殺す」
私は結界の一部に穴をあけ、そこから最大火力の火魔法を放り込んでやった。
いくら勇者の防御力が高かろうが、十全に魔力を通した火魔法なら少しくらいは効くだろう。そもそも、結界と言う密閉空間で火が燃え続ければいずれ結界内の空気がなくなる。
勇者も人間である以上は呼吸をしなければ生きていけない。仮にこの猛攻を耐えきれたとしても、いずれは呼吸困難になって死ぬだろう。
私は刃が食い込むことも忘れて暴れ狂う勇者の悲鳴を聞きながら、ふっと意識を失った。
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