第二百三十三話:嵐の中で
海の上を飛ぶというのは気持ちのいいもので、潮の香りを含んだ風を楽しみながらの旅は自然と心が躍った。
しかし、それも一瞬のことで、しばらくすれば代り映えのない景色に飽きが生じてくる。
時折島を見かけたりするが、それも一瞬で過ぎ去っていき、ああ、一応進んでいるんだなと距離の指標になるだけだった。
でもまあ、仮に船に乗って移動していたのだとしたらかなりの日数がかかる上に船酔いの心配もしなくてはならない。ほとんど揺れもなく快適に飛行しているエルに比べたら断然こちらの方がいいに決まっている。
「何か面白いことでも起きればいいんだけど」
退屈なのは皆同じなのか、誰かが何気なく呟いた。
しかし、今思えばそれはフラグだったのだろう。その誰かを責めるわけではないが、急激に忙しくなったことに苦言を呈すくらいは許される気がする。
海に出てからしばらく経った後、不意に頬に冷たさを感じた。
思わず手で拭ってみると、僅かに濡れている。空から落ちてきた水滴は瞬く間に量を増やし、やがて豪雨となって降り注いできた。
「わ、雨?」
エルは飛行する際に周囲に氷の粒を纏わせることで風の影響を低減している。それは雨にも適用されるので、服がびしょぬれになる、なんてことはなかったが不意の雨に少しびっくりしてしまった。
「エル、大丈夫?」
〈問題ありません。たとえ台風の中でも飛んで見せますよ〉
エルの氷の粒の膜がどれほど優秀かは知らないが、流石に台風の中は無理なんじゃないだろうか。
まあ、私が防御魔法を重ね掛けすれば多分行けると思うけど、そんな危険な場所に飛び込みたくはない。
ふと下を見てみると、先程まで穏やかだった海が荒れ狂う波に埋め尽くされている。
これは、もし船で移動していたら転覆していただろうか。そうでなくても、だいぶ被害を被っていたことだろう。
間の悪い雨に少し苛立ちを覚えたが、外は荒れ狂う豪雨でもエルの背中では小雨程度。若干服が濡れるのが気になるが、それも防御魔法を張れば弾いてくれる。だから何の問題もない。
そう思っていた……。
「ん? ハク、あれ」
ふと、お姉ちゃんが海の方を指さした。誘われるように目を向けてみると、そこには一隻の船が見える。
ここはほぼ雲と同じ高さのためかなり小さく見えるが、実際は大型船だろうか。何度も波を被り、その度に船体が大きく揺れている。あれでは、転覆は時間の問題かもしれない。
「運が悪かったとしか言いようがないけど、災難だね」
表情を曇らせて悔しそうに呟くお姉ちゃん。
お姉ちゃんは昔、船から転落して漂流したことがあったと聞く。それによってお師匠さんと離れ離れになってしまったらしいし、お姉ちゃんにとって船の事故というのはあまり思い出したくない記憶なのかもしれない。
「この荒れ模様じゃ海に放り出されたら助からないだろうな」
「運が良ければ助かるかもしれないけどね」
サリアとアリアはあまり興味がないのか、まるで人ごとのようにそう呟いた。
サリアは社交的ではあるが大人に対しては割と辛辣だ。犯罪組織のボスに祭り上げられ、責任を押し付けて好き放題やっていたり、心無い言葉で傷つけられてきたサリアにとって、大人はあまり心を開く対象にならないのだろう。
アリアに至っては人間は忌むべき対象だ。私という例外はあったにしろ、そこまで興味を持つ対象にはなりえない。
「……エル、止まってくれる?」
〈え? それは構いませんが、どうかしたのですか?〉
みんながみんなすでにあの船の事を諦めている。だけど、私は諦めたくなかった。
私とて竜の力を授かった身。人間がどうなろうと知ったことではないし、そこまで興味もないはずだった。
だけど、ここで見捨ててしまったら後悔する気がする。そんな曖昧な気持ちが私を突き動かした。
「すぐ戻るから、ちょっと待っててね」
「ハク、何をするつもり?」
私は背中から竜の翼を出す。もちろん、服にはちゃんと切れ込みを入れてあるから服が破れる心配はない。
何度かバタバタと羽ばたかせ、調子を確認していく。この状態で飛ぶのは久しぶりだけど、問題はなさそうだ。
「あの船を近くの島まで送っていくよ」
「えっ!? そ、それは無茶なんじゃないか?」
「サリアの言う通り。それよりも、こんな雨の中飛んでハクに何かあったら……」
見知らぬ他人よりよく知る身内を助けたいと思う。それは私も同じだから気持ちはよくわかる。
だけど、もし助けられるのならみんな助けてあげたい。そう思うのは私のエゴなのだろうか。
なんにせよ、私の気持ちは決まっている。私はそっと二人の肩に手を置くと、精一杯微笑んで見せた。
「大丈夫、すぐ戻るから。エル、みんなをよろしくね」
〈お、お任せください。でも、お気をつけて〉
軽くエルと会話を済ませ、私はエルの背中から飛び降りた。
その瞬間、もの凄い風と雨が私の身体を叩き付けてくる。
エルの背中は予想以上に快適に保たれていたらしい。私は即座に防御魔法で体を覆うと、すぐさま体勢を整えて船へと向かった。
近くで見ると、船は結構酷いありさまだった。船体はところどころひびが入り、マストは折れている。
かろうじて浮くことはできているようだったが、それも時間の問題に思えた。
ひとまず、この風と雨をどうにかしなくてはならない。私は防御魔法を船全体にかけると、甲板付近へと降りていく。
流石に大型船を丸ごと防御魔法で覆うとなるとかなりの魔力を消費したが、こうでもしないとすぐに転覆しそうだったから仕方がない。
甲板には人の姿はなく、皆船内に立てこもっているようだ。
もしかしたら投げ出された人がいるかもしれないと周囲の海を探知魔法で探ってみたが、反応はなかった。
いないならいいけど、すでに死んでいるとかだったらちょっと悔しい。もっと早く気付いていれば救えたかもしれないのに……。
悔やんでも仕方ないのですぐさま水の鎖を作り出し、船に括りつける。
マストが折れている以上、風を操作して移動させるのは無理だ。だから、こうして無理矢理移動させるほかない。
いつもなら筋力のなさに辟易するところだが、竜状態の今ならば人の何十倍もの力を持っている。
それでも、若干力が足りなかったから腕も竜化させ、膂力を確保する。
私がぐいぐいと鎖を引っ張ると、少しずつではあるが船が動き始めた。
「島は……あっちだったかな」
ここに来るまでに見かけた島の方角を思い出し、引っ張っていく。
流石に竜状態と言えど、この豪雨の中巨大な船体を強引に引っ張るのは骨が折れた。
何度か休憩しながら引っ張ること数十分。ようやく島まで辿り着き、私はばたりと砂浜にその身を投げ出した。
鎖はそこらの岩に括りつけておいたから沖に流される心配もないだろう。
早く、乗客の確認をしないと……。
そうは思っても、体が思うように動かなかった。
大規模な防御魔法、慣れない力仕事、そして豪雨。それらは思いの外私の体力を削っていったらしい。ごっそりと一気に魔力が減ったこともあって倦怠感もあり、次第に瞼が落ちていくのを感じた。
「せめて、鎖の固定化を……」
気を失ってしまったら魔法も解けてしまう。そうなれば船を固定している鎖もなくなり、再び船は流されてしまうだろう。
私は魔法陣の固定化を行い、魔力が尽きぬ限り魔法を行使し続けるように構築を行う。
朦朧とした意識の中で精密な作業を行うのはかなりの苦戦を強いられたが何とか終わらせることができた。
「もう無理……」
もう限界だった。
流石にちょっと無謀だったかなとここに来たことを後悔したが、一応船は助けられたのだから無駄ではなかっただろう。
私はそのままうつ伏せに倒れると、そっと意識を手放した。
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