第百九十二話:妖精の契約
私は人間として、今の生活を続けることを望んだ。
すなわち、今しばらくは両親の下へは行かないということ。
エルは主である両親から私を連れ戻すように言われているわけで、それが叶わないということは別れを意味する。
エルに関しての記憶はそこまで多くはない。未だに多くの記憶は封印されたままということだろう。
残っているエルの記憶はほんのわずかだ。
だけど、エルはその中で色々と私の世話を焼いてくれていた。
生まれた頃からの付き合いと言っていたが、私に笑いかけ、時に心配し、竜でありながら様々な表情を見せてくれた。
それはかけがえのない記憶で、私が今サリアに抱いている感情とは似て非なるものだけど、手放したくないものであることは確かだった。
記憶にはないけど、少なくとも七年以上の時を経た邂逅。それがこの一時だけで終わってしまうのは何とも寂しいものだ。
表情が歪んでいくのがわかる。
無表情の鉄面皮を持つ私でも、この別れが辛いものであるということがわかるのだろう。
長い時を生き、最強の名を欲しいままにする竜種なのだからこれで今生の別れとなるわけではないだろう。
それでも、人間の感覚を持つ私からすれば十分辛いものだった。
「ハクお嬢様、それでは……」
「うん、どうか気を付けて……」
「私もこの学園に入学させていただきますね」
「……はい?」
せめて最後くらいは笑顔で見送ろう。そう思っていた矢先のことだった。
え、なに? 入学? どういうこと?
思わず目をぱちくりとさせる私にエルは朗らかに笑いながら続けた。
「ハクお嬢様が今の生活を望まれるのでしたら、私はそれを支援する義務があります。そのためには、ハクお嬢様と同じ地位に納まるのが一番です。先生方、可能でしょうか?」
「そ、それは……学園長に問い合わせる必要はあるが、例年通りなら入学テストさえ乗り切れば編入は可能だ」
「いえ、エルさんは竜なのですからテストなど不要でしょう。その翼から漂う威圧感だけで魔力が凄まじいことはわかります。陛下に掛け合って、ハクさんと同じく特別許可を出してもらった方が早いのではない?」
「ああ、それもそうだ。どうせ竜のことは陛下に報告しなければならない。ハクさんの事情を話し、ハクさんのお目付け役だと言えば多分通るだろう」
なんだか勝手に話が進んでいる。
エルが、この学園に入学する?
いや、それは願ってもないことなんだけど、なんだか釈然としない。
別れるのは寂しいけど、せめて最後くらいは笑顔で見送ろうとか考えていた私の気持ちはどこにぶつければいいの?
というか、エルはどう見ても16歳くらいに見えるけど二年生に編入するんだろうか? 私と同じクラスに?
なんか、例外のオンパレードな気がしないでもないけど……。
「では決まりですね! ハクお嬢様、これからは私がお世話いたします。どうぞ私に全て委ねてくださいませ」
……まあ、いいか。
エルと一緒にいられるなんて願ってもないことだ。これで文句を言ったら罰が当たるだろう。
その後、もう夜遅いということで私達は寮の部屋に戻ることになり、エルは保健室で一夜を明かすことになった。
エランダ先生は割れてしまった薬の補充やら窓の修理やらを、クラン先生は王様に報告するための書類を作るためとそれぞれの部屋へと戻っていった。
「……ハク」
寮に戻り、軽く湯で身体を拭いて身を清めた後に眠りにつく。
サリアは色々と衝撃的な場面があったせいかしばらく眠ろうとはしなかったが、今では可愛らしい寝息が聞こえてくるようになった。
私も少し落ち着き、うとうととし始めた頃に目の前に現れたのは背中に薄い羽を生やした小さな女性、アリアだ。
「アリア、どうしたの?」
「どうしたのって……あんなことがあったのに冷静なんだね、ハクは」
冷静かと言われたら、別にそんなことはない。むしろ激しく取り乱していたと言える。
落ち着いているように見えるとしたらそれは人間としての生活を許された安堵と、エルがこれからも一緒にいてくれるという安心感からくるものだろう。
それと、なぜかいつもよりも体の調子が良く、身体的疲労が少ないのも要因の一つと言える。
恐らく、いつも発散しているように翼やらなんやら色々出したことから魔力が抑制され、結果的に体が楽になっているのだろう。
手足まで変化したのは驚きだが、そのおかげでいつもよりも効率よく発散できたのかもしれない。
アリアは少し複雑な表情をしながら私の頬に寄り添う。
「私、どうしてハクに魅かれたのか、ようやくわかったよ」
「えっ?」
背中を私の頬に預けながらわずかに緊張した面持ちをして語り掛けるアリアはいつもの快活さが感じられない。
言うなれば、戸惑っているような、そんな感じだ。
「あのエルって言う竜が言っていたよね。ハクはリュミナリアの子供だって」
「え? あ、うん」
竜の王というワードと大層な名字に魅かれてハーフニル・アルジェイラという名前の方が印象に残っているが、確かに母親はリュミナリアという名前だと言っていた。
夫婦だから名字を省いたのかな、程度にしか思っていなかったが、アリアにはその名前に思うところがあるらしい。
「リュミナリアって言うのはね、精霊の名なの。それもただの精霊じゃない。数少ない上位精霊を束ねる女王。精霊の頂点に君臨する存在なのよ」
神妙な面持ちで言い放った言葉に私も思わず息を飲んだ。
精霊の女王。実感は沸かないが、それが凄い存在だということはわかる。
竜の番いというのだから当然相手も竜だと思っていたけれど、まさか精霊だったとは。
精霊は妖精の上位種だと聞く。その頂点に君臨する存在ならば妖精であるアリアが知っていても不思議ではない。
アリアは以前、私に付き添うのは何となく気に入ったからだと言っていた。
私なんかのどこがいいのかと思っていたけど、私が精霊の子だというのならそれも理解できる。
当然だ。精霊は妖精の上位種、言い換えれば妖精は精霊の子供ともいえる。庇護される存在であり、必然的に精霊の集まる場所には妖精も集まる。
だから、私の下にはよく精霊が集まるし、妖精も例外ではない。
アリアは、私の精霊としての力を好んで引き寄せられたのだ。
「前に精霊の女王が家族を持ったなんて話を聞いたことがあったけど、まさかそれが竜の王とで、その子供がハクだなんてね」
私もびっくりだ。
竜の王と精霊の女王。王と王の子供なんて私も大層な生まれを持ったものだ。
わざわざ私の身体を作り出したというのは精霊が生殖器官を持たないからだろう。
人間の形に寄せたのは精霊が人間の姿を模しているから。恐らく、作り出すのに一番苦労がなかったのがこの形なのだと想像できる。
「ハク……いや、ハク様って呼んだ方がいいのかな? リュミナリア様の子供なわけだし、妖精の私が呼び捨てにするのは失礼だよね」
「それはダメ」
「えっ?」
アリアがいきなり変なことを言うので思わず突っ込んでしまった。
きょとんとして振り返ってくるアリアの頭を指で撫でながら、諭すように続ける。
「私とアリアの仲でしょう? そんな他人行儀な呼び方はしてほしくないな」
「でも、私はハクの契約妖精でもないし……」
「契約ならしてるでしょ?」
「え……」
「私についていくって。そう言ってくれたじゃない。こんな人の多い場所にまで付いてきてくれたのに、今更契約してないなんて言われても困るよ」
私はアリアから加護のようなものを貰っている。それに、元をただせばアリアは私の命の恩人だ。
むしろ、私の方が恩を返す側であり、私の我儘に付き合ってついてきてくれるアリアが気に病むようなことは何もない。
妖精にとっての契約がどういうものかは知らないけど、私にとってはアリアは立派な契約者、いや、親友だ。
「してないって言うなら今しようか。どうすればいいの?」
「ハクは、私なんかでいいの? 気づいてると思うけど、ハクの周りには私よりも上位の精霊がたくさんいるんだよ?」
妖精の加護や精霊の加護はその個体の力に依存する。その中でも、契約妖精、契約精霊というのは重要な意味を持ち、生涯のパートナーとなる存在らしい。
当然、力の強い者を契約者にするのが普通であり、精霊が近くにいながら妖精と契約するなど普通はありえない。
コンコンとそんな説明をされたが、私にはアリア以外に考えられないんだよね。
私が欲しいのは加護じゃない。信じられる仲間であり、親友であり、家族なのだ。
「関係ないよ。私はアリアがいい」
「……そこまで、言うなら」
小さな声でそういうと、アリアは立ち上がり私の方へ振り返る。
そして、その小さな手を私の口元に寄せてきた。
「口づけを、そして私の真名を呼んで」
「真名?」
「そう。シュークレ・シェル・ヴェルデール・アリア。溢れる緑と水辺に寄り添う者」
厳かに告げられた名前を無意識のうちに復唱する。
満足気に綻んだ笑顔を見せたアリアを見て、これでいいんだと理解した。
私はそっと小さな手に口づけをする。
その瞬間、私とアリアの間で、強い結びつきのようなものができたのを感じた。
「これからもよろしくね、ハク」
「アリアこそ、よろしくね」
感想、誤字報告ありがとうございます。