第百八十九話:私の正体
少女の背中から飛び出した竜の翼。
邪魔にならないようにと折りたたんでいるせいかなんとか収まっているが、目一杯広げればこの小さなスペースには収まりきらないだろう。
私ので見慣れているサリアはすぐに平静を取り戻したが、先生方はその光景に言葉が出ないようだった。
かくいう私も驚きに固まってしまっていた。
尻尾こそ生えていないが、私と同じように翼を生やすことが出来る人物がいたということも驚きだし、ましてその人物と出会えるなんて思いもしなかった。
エルさんは翼を出し切ったタイミングで立ち上がり、こちらを見ている。
その琥珀色の瞳は瞳孔が縦に開き、まるで獰猛な獣のようになっていた。
「ふぅ、これで少しは思い出していただけましたか?」
先程と変わらぬ口調でにっこりと微笑みながら話しかけてくる。
だが、その声は今までとは印象がまるで違っていた。
私はこの声に聞き覚えがある。
横たわる私にパッと笑いかけてきた記憶がある。
私は、エルさんを、いや、エルを知っている……!
「え、る……?」
「はい、私はエルでございます。思い出していただけたようで何よりです!」
私は確かにエルを知っている。断片的ながら記憶も少し思い出した。
だが、それだけ。この記憶が自分のものという確証は持てなかった。
言うなれば、私が持っている春野白夜としての記憶と同じようなものだろう。
確かにそれは私の記憶ではある。でも、それは本当に私が体験したことなのだろうか?
私という、ハクという人物が体験したことならば、先程思い出した記憶にはだいぶ齟齬がある。
まず場所。背景として映っていた景色はまるで見覚えのない場所だった。
森の中だろうか、木々が生い茂り、近くから川のせせらぎが聞こえていた。
目の冴えるような新緑の色をよく覚えている。少なくとも、私の村の近くに在った森とは似ても似つかない場所だ。
強いて言うなら魔力溜まりの場所と少し似ている気もするが、私が覚えていない範囲、つまり私が村で生活している記憶より前となると、相当幼いはず。
そんな赤子を森の中に連れ出すなんておかしいし、周囲には人の姿はどこにもなかった。
それによくよく考えてみれば、エルはこの大陸に逃げのびてきたと言った。つまり、それ以前は別の大陸にいたということだ。
両親は別の大陸の出身で、戦いから逃れてこの大陸に移り住んできた?
だとしても、大陸間の移動なんてそう簡単にできるものじゃない。それに、もう一つの事情から、それはあり得ないと感じられた。
私は森の中に一人で置き去りにされていたわけではない。そこにはエルがいたのだ。
ただし、人間の姿ではなく、巨大な竜の姿で。
「おお、エルもハクと同じで翼が出せるんだな」
二の句が継げない私に変わってサリアが気さくに声をかける。
一応、私の翼については秘密ということになっているのだが、サリアはその辺りをあまり気にしていないらしい。
先生の目もあるのにそんなことを口走ってしまうほどには危機意識がないようだった。
「おや、ハクお嬢様も出せるのですか? てっきりすっかり人間の身体に馴染んでしまっていると思っていたのですが」
「どういう、こと?」
私は怖くなってきていた。
エルの話は私の記憶とはあまりにもかけ離れすぎている。
別の大陸からやってきた、森に私を封印していた、そして、生まれた時からお世話していたという竜。
確かに私は生まれた時の記憶はない。村で平穏に暮らしていたという記憶もせいぜい5、6年程度のものだ。
忘れられたそれ以前の記憶の中で、エルの言うような敵に襲われ逃げて来ただとか森に封印し、戦いが終わった後に探しに来ただとか、それらの出来事を行えるとは思えない。
竜であるエルに命令できるほどの権力を持っているという私の両親。それは本当にあの両親なのか?
私は、一体誰の子だというのか?
今まで信頼してきたものがガラガラと崩されていくようで、私の身体は無意識のうちに震えていた。
「ハクお嬢様は人間ではございません。我が主にして竜の王、ハーフニル・アルジェイラ様とその奥様、リュミナリア様の御子、ハク・アルジェイラ様です」
「……ッ!?」
人間ではない。そう言われた途端、私は強い頭痛に襲われた。
人間として生き、人間として死ぬ。そんなごく当たり前のことを突如否定された衝撃は私の心を強く揺さぶった。
身体が冷たくなっていく。
自分が自分でなくなっていく感覚に恐怖を覚えたが、もはや止めようがなかった。
びりりと音を立てて私の制服が破れる。
その背から現れたのは巨大な翼。荒々しい銀色の鱗に覆われた外郭に赤みがかった黒い翼膜。腰元からは同じく銀色の太い尻尾が生え、先端を彩る鋭い棘は血を思わせる赤黒さを秘めている。
それだけにとどまらず、腕は肘より先が銀の鱗に覆われ、指は鋭い爪へと変貌していく。
靴と靴下を破って現れたのは同じく銀の鱗に覆われたごつく強靭な脚。
それらは到底人間とは言えないものだった。
「は、ハク……?」
いきなり姿を変えたことに戸惑ったのか、いつもと違う様子の私を気遣ったのか、サリアが呆然とした様子で話しかけてくる。
だが、私はそれどころではなかった。
薄々おかしいとは思っていた。
魔力溜まりに入った影響とは言っていたが、いくら未開の地でわからないことが多いとはいえ、身体から翼が生えるなんて普通ならありえないことだ。
それは私が元から人間ではなく、竜の子だったからそのような特徴が現れたに過ぎない。
伝承に聞く竜は魔力が濃い場所を好むと聞く。それならば、私が魔力溜まりに入ってもあまり影響を受けないのも納得できる。
それに、あまり気にしてはいなかったが回復力も凄い。
カラバの町のオーガ騒動を始めとして、その後もいくつか小さな怪我とかはしてきたが、腕の骨を折るという大怪我も数日のうちに治っていた。
人間ならもっとかかるだろう。治癒魔法のおかげかと思っていたが、それを合わせても異常なことだったのだ。
それもすべて、今の私の姿が物語っている。
私は人間ではなかった。竜の王とか言うたいそうな肩書を持つ竜の子供。両親だと思っていたあの家族はただの偽りの存在だった。
私は、どうしたらいいのだろう?
竜は人間にとって天敵ともいえる存在だ。
魔王の配下にして人類の脅威。ブレスの一つで人を一瞬で消し炭にできる強大な存在。
私は人間のつもりだった。一人で生きていこうと、両親を見返してやろうと必死で生きてきた。
でも、私が竜だというのなら、その在り方は間違っているのだろうか?
竜のように傍若無人に振舞い、過去の栄華を求めて魔王の復活に加担するべきなのだろうか。
あるいは、人間としての矜持を捨てず、人類のために自ら命を絶つべきなのだろうか。
どちらにせよ、私にもはや居場所はない。
ならばいっそのこと、すべてをなかったことにして去るというのも、いいかもしれない。
胸のうちに黒いもやもやが広がっていく。
ああ、そうだ。私は竜、すべてを破壊する者。それが本来の在り方だ。
頭が冷えていく。体が冷たい。胸が痛い。
それらを考えないようにして片手を上げる。
その瞬間、強烈な魔力の奔流が部屋を満たした。
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