第二百五十七話:侵食する恐怖
しばらくして、雄たけびの主が現れた。
それは一見すると裸の人間のようだった。
髪が抜け落ち、目は獰猛で、肌も少し浅黒くなっているが、間違いなく人間の容姿をしている。
しかし、それを人間だと断言することはできなかった。
その溢れんばかりの敵意は、人間のものというよりも、魔物が持つ本能的な殺意と似ていたから。
先程の雄たけびも考えると、本質は魔物寄りなのかもしれない。
もしかしたら、元凶によって魔物に変化させられた人間、という可能性もあるかも。
「おっと……」
その人間もどきは、私達の姿を見るや否や、飛び掛かって噛みつこうとしてきた。
ちらっと見えたが、歯もギザギザとしたものに変わっていて、とても人間とは思えない。
さて、どうしたものか。
これが単純な魔物なら、遠慮なく倒せるのだけど、もしも魔物に変えられた人間とかだったら、ちょっと倒しにくい。
まあ、この気配を見る限り、元に戻すのは絶望的な気がしないでもないけど、それでも抵抗がある。
万が一、行方不明者の誰かだったら、やりきれないんだけど……。
「シンシアさん、あれが行方不明者の誰かってことはありませんか?」
「ないと思うのです。あんな化け物みたいな人はいないのです」
裸だとは言え、容姿はほぼ人間と同じ。しかし、シンシアさんが見る限り、こんな仲間はいなかったという。
もちろん、これまでにひっそりと犠牲になっていた、町の人達って可能性もなくはないけど、ひとまずは行方不明者でないのは安心した。
「ハクちゃん、ここは任せるのです!」
そう言って、シンシアさんは懐から銃を取り出し、素早く撃った。
弾丸は見事に脳天に直撃し、化け物はその場に倒れ伏す。
あ、案外容赦ないね。
「倒しちゃっていいんですか?」
「魔物に容赦はいらないのです。それより、今ので他にも集まってきそうなのです」
そう言われて耳を澄ませてみると、確かにそこかしこから足音が聞こえてきた。
あんまり長居すると、危険かもしれない。
ちょっと詳しく確認してみたい気もするが、ここは離脱を優先しよう。
「今のうちに離れるのです」
「了解です」
囲まれる前に、その場を脱出する。
追ってきているという感じはしないが、恐らく、物音に反応して近寄ってくるんじゃないだろうか。
森の中だから、多少物音を立てるのは仕方ないけど、少し気を付けた方がいいかもしれない。
「いったい何だったんでしょうか……」
「この山特有の魔物なのです?」
「もしかしたら、依頼にあった、凶悪な唸り声って言うのは、あれのことかもしれないですね」
容姿が人間と酷似しているというのが怖い。
もう少し、魔物に近かったなら、容赦なく屠れるけど、人間を殺すのはやっぱり慣れないから。
あんなのが、この山にはうじゃうじゃいるんだろうか。だとしたら、怖すぎるけど……。
「とにかく、元凶を叩かないとですよね」
「みんなも早く見つけてあげたいのです」
脅威は把握したし、さっさと抜けてしまおう。
そう思いながら、足を進める。
雪は相変わらずだが、しばらく進んでいくと、雄たけびも聞こえなくなってきた。
もうこの辺りは奴らのテリトリーじゃないんだろうか。
「……」
「シンシアさん?」
あれからしばらく経ったが、途中から、シンシアさんは何も喋らなくなってしまった。
確かに、物音に反応してくるってことだから、喋らないのは間違ってはいないんだけど、私の問いかけに対しても無言のままで、表情も硬い。
一体どうしたんだろうか。体調が悪くなったりしたんだろうか?
「あ、森を抜け……」
「あああああ!」
「ッ!? し、シンシアさん?」
ちょうど、森を抜けようとした時、再び雷の音が轟いた。
それと同時に、シンシアさんが奇声を上げて暴れ出す。
今まで静かだったのに、何事!?
幸い、シンシアさんとは手を繋いでいたから、どこかに行ってしまうということはなかったけど、激しく腕を振って、振り払おうとしている。
明らかに普通じゃない。何が起きたんだ?
「お、落ち着いてください……」
「あっ……」
私はとっさに、鎮静魔法をかける。すると、シンシアさんは、糸が切れたように、その場に座り込んでしまった。
どうやら落ち着いてくれたようだけど、一体何が原因なんだろう。
「シンシアさん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫なのです。急に暴れてごめんなさいなのです……」
「い、いえ、それはいいんですが……何かあったんですか?」
「わからないのです。ただ、ちょっと前から不安な気持ちが募って来て、それがさっき爆発したのです」
「なるほど……」
確かに、奇妙な空間に得体のしれない化け物。もし、この場に一人取り残されていたら、不安から発狂してもおかしくはない。
でも、今回は私が近くにいたし、それに、あの化け物相手でも、シンシアさんは積極的に攻撃していた。不安になっていたとは考えにくい。
それとも、虚勢を張っていただけで、実際は不安で不安でしょうがなかったってことなんだろうか。
ありえない話ではないけど、何か引っかかる。
『……ハク、この際だから言うけど、私も爆発しそう』
『アリアも? そんなに不安だった?』
『不安……なんでしょうけど、ちょっと違うかも。どちらかというと、恐怖、かもね』
『恐怖……』
得体のしれない空間と、得体のしれない化け物。それに対して恐怖を覚えるのは、まあ間違っちゃいない。
私だって、なんの力も持ってない状態でここに放り出されていたら、ぶるぶると震えることしかできなかっただろうし。
未知への恐怖が、シンシアさんやアリアを発狂させている?
なくはないだろうけど、でも、シンシアさんはともかく、アリアまで影響を受けるのは少し考えにくい。
アリアはすでに上級精霊だし、恐怖はむしろ与える側だ。もし忌避するとしたら、以前あった、カオスシュラームとかそのあたりくらいだろう。
少なくとも、ただ漠然と、奇妙な空間だから、化け物がいたから、というだけでは、恐怖はあまり感じない気がする。
となると、考えられるのは……。
「この妙な魔力のせいかな……」
探知魔法を赤く塗りつぶしているこの妙な魔力。
思えば、アリアも言っていた。何かに侵食されている気がするって。
それが恐怖だというならば、辻褄も合うだろう。
この魔力は、人の正気を奪っていく性質があるのかもしれない。
「なんて厄介な……」
今のところ、この結界の中から脱出する術は見つかっていない。
いや、強引に結界を破壊すれば出られるかもしれないが、結局元凶をどうにかしない限り、この結界は張り直されるだろう。
それでは、根本的な解決にはならないし、いずれ他の犠牲者が出ることになる。
それに、竜やエルともはぐれたままだし、行方不明者も見つかっていない。
少なくとも、それらを見つけない限りは、この空間から出ることは許されない。
しかし、いるだけで正気を失っていくとなると、あんまり長居してもいられない。
今のところ、私は特に恐怖に押し潰されそうになっているというわけではないけど、いつそれが崩れるかもわからないし。
とにかく、早めに合流して、元凶を絶たなければならない。
これは、時間との戦いかもしれないね。
私は、二人のことを気にかけつつ、迅速に目的地に着くために足を速めることにした。
感想ありがとうございます。




