第二百十五話:谷間の泉
ニグさんの案内の下、飛んでいくと、眼下に谷が見えてきた。
ニグさんによると、この谷の奥に、ぽつんと泉が存在していたらしい。
飛んでる間にすっかり夜になってしまったが、思ったよりは早く到達することができた。
まあ、これでも速さには自信があるからね。ニグさん自身も飛べるようだけど、担いで飛んでいった方が断然早かった。
「さて、ここが例の泉か」
谷へと降り、奥へと進むと、確かにぽつんと泉が存在している。
今は夜なので、泉の色はよくわからないが、恐らく黒色をしているんだろう。
周りに何かあるかと思って見まわしてみたが、ちょこちょこと木が生えていたりするだけで、特に変わったところは見受けられない。
「確かに、豊穣の神の乳と出るけど、乳要素はどこ?」
味がそれっぽいとか? 流石に飲んで確かめるわけにはいかないからわからないけど。
あるいは、この地下深くに、豊穣の神とやらがいるんだろうか。
その神様からあふれ出る母乳が、この泉となっているとか?
もしそうだとしたら、ここはとんでもない危険地帯になりそうだけど。
「ニグさんは、なんでこの泉の水を持っていこうと思ったんですか?」
「は、はい。その、こんなことを悪魔が言うのは何ですけど、声が聞こえまして……」
ニグさんは、悪魔召喚によって契約者の下に召喚されたが、その願いを叶える力がなかった。
しかし、召喚されたにもかかわらず、願いを叶えないなど、悪魔にあってはならないこと。ここで逃げ出すようなことがあれば、すべての悪魔からつまはじきにあってしまうと考えた。
そこで、何とか打開策を考えるために、一時離脱し、あちこちをさまよっていたのだという。
そして、この谷の近くに来た時に、その声を聞いたんだそうだ。
「声とは?」
「なんというか、頭の中に響くような声で、私はてっきり、神からの啓示かと……」
「いや、悪魔が神様を信じてどうするんですか」
「そ、そうですよね、変ですよね……」
まあ、捉え方はともかく、声が聞こえてきて、この泉に誘導されたようだ。
そして、この泉の水を飲ませれば、願いは叶うだろうと言われたらしい。
半信半疑だったが、神様からの啓示だと思い込んだニグさんは、それに賭けてみようと思い、泉の水を瓶に詰めて持ち帰り、契約者に飲ませた。
そうすると、たちまちのうちに病気は治り、契約者からは信仰めいた目で見られるようになったらしい。
「その声は、今も聞こえますか?」
「いえ、声はそれっきりで、それ以降は何とも……」
声は聞こえなくなったが、この泉の効能が使えると考えたのか、契約者は他にも困っている人を助けようと、泉の水を使うことを提案してきたらしい。
ニグさんも、尊敬された目で見られるのは嬉しかったし、それが契約者の願いならばと引き受け、徐々に広めていった結果、『黒き聖水』が生まれたということだった。
気になるのは、やはりその声だろう。明らかに、この泉に誘導していたようだし、この泉を作った、あるいは存在を知っていた何者かが、ニグさんを利用して眷属を増やそうとした、と考えるのが妥当だろうか。
眷属が増えて喜ぶとしたら、やはりその豊穣の神だけど、増やしてなにをしようと思っていたんだろうか。
神様は、信仰が力になるから、それで力を取り戻そうとした、とかかな?
今は、ほとんどの神様は地上に降りることを禁じられているし、それ故に人々は一部の神様しか知らない。
だから、わかりやすく信仰される神様もいれば、全く見向きもされない神様も存在する。
そうした、見向きもされなくて力を失った神様が、力を取り戻すためにやったと考えれば、辻褄は合うかもしれない。
とはいえ、神界では、争いは起こらないはずである。
神界の法で争いは禁じられているし、どうしてもというなら、別世界に行って発散して来いという話だった気がする。
力がなくていじめられていたってわけではないだろうし、そこまでして力を取り戻す必要はあるんだろうか?
いやまあ、全盛期の力が出せないっていうのはもどかしいだろうし、わからないでもないけどさ。
「ニグさん、この泉のことを知っている人は他にいますか?」
「い、いないと思います。がっかりされたくなかったし、このことは秘密にしていましたから」
「なら、そこまで問題はないかな?」
もし仮に、この泉が豊穣の神によって仕組まれた、信者を量産する装置だったとして、ニグさん以外に知っている人がいないなら、ニグさんがこれ以上泉を利用しなければ、被害者は増えないはずである。
この場所は、谷の奥地ということもあり、普通の人が出入りするのは難しい場所だ。他の人が偶然見つけるってことはないだろうし、仮に声で誘導するにしても、そんな苦労してまでくる人はそこまでいないと思う。
今のところ、眷属化は豊穣の神に対する忠誠を誓うというものだけっぽいし、何か悪さをしたくて仕方がなくなるってわけでもないんだから、これ以上流通しないなら、そこまで気にする必要はない気もする。
まあ、万が一を考えるなら、この泉は消してしまった方がいいかもしれないけどね。
一般人は来られないとは言っても、例えば冒険者とかなら来れる可能性は十分にあるし、どこかでまた信者を増やされるのも困る。
いや、困りもしないかな? 豊穣の神が力を取り戻して悪事を働こうって言うなら話は別だけど、単に力を取り戻したいってだけだったら、別に悪いことではないだろうし。
むしろ、病気も治してくれて、いい神様かもしれないしね。
「うーん、どうしようかな」
眷属化というデメリットはあるにしても、どんな病気や怪我も治してくれるっていう特性は、十分有用である。
確かに、オルフェス王国では、ヴィクトール先輩が作った治癒装置とかがあるけど、今のところ、あれを作れるのはヴィクトール先輩のみ。
一応、後任を育てているらしいけど、それがうまく行かなかったり、その人が金儲けに走って、貧しい人にいきわたらなくなった時に、代替手段として存在できれば、万が一の時の備えになりうる。
一つの手段に頼っていた結果、それがなくなってしまった時にどうしようもなくなるっていうのは避けたいしね。
もちろん、泉の水がないからと言って、劇的に状況が悪くなるってこともない気はするけど、ただ得体が知れないからってだけで消してしまうのはちょっともったいない気もする。
まあ、その豊穣の神が、悪だくみをしているっていうなら絶対に阻止しなくちゃいけないし、それを考えると微妙なところだけどね。
一番いいのは、会話ができることだ。
相手の目的を把握できれば、こちらも判断ができるし。
どうにかして話す手段はないだろうか?
「ハク様、少しよろしいでしょうか?」
「うわ、びっくりした」
悩んでいると、不意に隣に気配が舞い降りた。
純白の翼をその背に持つ女性は、いつも私のことを見守ってくれている天使の一人、ルーシーさんである。
いきなりどうしたんだろうか? 悪魔と一緒にいたから、注意しに来たんだろうか。
でも、泉のことは確認しなくちゃいけなかったし、そこは大目に見てほしいけど……。
何を言われるのかとはらはらしつつ、ルーシーさんの顔色を窺った。
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