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牧子とはもう会わない。連絡も取らない。そう心に誓った。だから携帯は乗り換え機種変して電話番号ごと変えてやった。
本当は引っ越しまでしたかったけど、そんな金の余裕はなかった。それに引っ越ししたところで職場はバレているからあまり意味はない。
しかし俺の予想に反して、牧子が職場までやって来ることはなかった。それはおろかメールも送ってこない。もしかしたらケータイなどを取り上げられて親に閉じ込められているのかもしれない。
いや、それは俺の願望だ。
牧子は俺と会いたいのに親に赦してもらえない。俺のことを思いながら牧子は泣いている。そんな願望だ。
ただ単にお父さんの話に耳を傾けて冷静になり、俺と結婚した場合の未来への不安に気付いたのかもしれない。
それはそれで、自分が惨めに思えて独り善がりに酔いしれた。
いや、もしかしたらどこか身体をおかしくしたのかも知れない。あいつはなんかひ弱そうなところがあるから、実は持病があってそれが悪化したとかも有り得る。
それともまさか、失意のあまりに……などと不穏なことまで脳裏を掠める。
そう悶々と過ごした二週間後、家に帰ると突然牧子が来ていた。
無事だったことに心から安堵し、そして俺の部屋に来てくれたことが心から嬉しかった。
それなのに、
「なんだよ? 荷物でも取りに来たのか?」
冷たいことを言い放ってしまう。
でも俺の心情も考えて欲しい。俺は俺で覚悟を決めてあの日、牧子の前から立ち去った。
こうやって部屋に来られても、俺にはどうすることも出来ない。
両親を悲しませるようなやり方で、牧子と一緒になっても幸せにはなれない。
牧子は思い詰めた顔をし、申し訳なさそうに頭を下げていた。
今すぐ抱き締めてやりたい。「落ち込むなよ」って励ましてやりたい。
だけど臆病な俺は何も言えずに立ち尽くしていた。
「透馬君……」
牧子は俯きながら俺にプラスチックの棒を差し出してくる。
それは陽性を示した妊娠検査薬だった。
「生理が遅れてるから調べたの……そしたら……ごめんね、透馬君……」
「は? 馬鹿か、牧子。なに謝ってんの?」
こいつはお勉強だけは出来るけど、本当に真性馬鹿だ。
「新しい命が芽生えたんだろ? そしたら普通『嬉しい』じゃねえの、言うセリフって」
「え?」
「んで、俺は『おめでとう』とか、『ありがとう』だろ、普通」
「透馬君……」
「なに泣いてんだよっ。牧子、母親になるんだぞ? そんなに弱くちゃ母ちゃんになんかなれねぇぞ?」
「うん、そうだね……ごめんっ」
牧子は涙を拭いながら、必死に笑った。
金もないし学歴もない、人生積んだような奴に孕まされて、悔しくて泣いてやがんの。
だから言ったろ高校二年の時に。
これ以上俺に関わると人生滅茶苦茶にしてやるって。
俺はやると決めたらやる鬼畜な男だからな。
「牧子、俺、もう一回牧子のお父さんと話し合うから」
「それは駄目っ!」
牧子はヒステリックなほどに叫んだ。
「いや、そうはいかない。こうなったからには赦されようが、赦されまいが、話はつけないと。男としてな」
「そんなことしたら……」
牧子はまだ平坦なお腹を庇うようにした。
「この子が…………殺されちゃう……」
俺は言葉を返せなかった。確かに牧子の言う通り、お腹の子の命を危険に晒してしまうのは間違いないだろう。
みんなに祝福されながら産まれてきて欲しいが、それは俺の身勝手すぎる願いだった。
そうなれば、もう、浅はかな俺には逃げるしか手はなかった。
赦されざる愛の末に駆け落ちとか、ほんと、昭和か。牧子はどうしてこうも昭和が似合うんだろう。
善は急げだ。いや、全然善ではないんだけど。とにかく捕まる前に、今夜にでもこの町を出て方がいい。しかしその前にしなくてはいけないこともあった。
ちゃっかりと用意だけはしていた婚姻届に必要なことを書き込み、保証人欄だけ空白のその紙を手にアパートを出た。
まず最初に俺は牧子を連れ、母ちゃんのところへと向かった。
あんまり心配はかけたくなかったけど、「子供出来たんで駆け落ちします!」と端的に説明しても、さすがに理解してもらえないだろうから手短ではあるが事情を説明した。
「ほんと、ごめん……母ちゃんにも迷惑かけて……」
「なに情けないこと言ってるんだよ、この子は! あんたは父親になるんだよ? もっとしっかりして牧子ちゃんとお腹の子を守ってらないと!」
そう言って背中をバシンと強く叩いた。叱咤されてる俺を見て牧子は可笑しそうに笑う。
なにがおかしいんだよ、くそっ!
行き先はまだ決まってないから、着いてから連絡することにした。
時間がないから名残惜しんでる暇もなく、婚姻届の保証人欄にサインをしてもらい、次は衛藤さんのところへと急いだ。
高校退学になった時のように、衛藤さんから殴られることは覚悟していた。
衛藤さんと奥さんに事情を説明すると、奥さんは俺たちを祝福してくれ、喜んで保証人に判を押してくれる。
「透馬君、しっかり二人を守るんだよ! 落ち着いたら連絡も寄越しなさい!」
衛藤さんは黙って立ち上がり、金庫を開けて金を封筒に入れて俺に押し付けてきた。
「ほら。持ってけ」
「も、貰えませんよ、衛藤さんっ!」
「馬鹿野郎。退職金だ」
「た、退職金って……」
退職金制度について見識がある訳ではないが、恐らく正社員を二年程度しかしていない俺に、こんな多額の退職金はない。
「一度出したら引っ込めないのは透馬君も知ってるでしょ、ほら、早く持って行きなさい」
奥さんに無理矢理掴まされて急かされる。
「透馬……しっかりやれよ」
「はいっ」
衛藤さんにハグをする習慣はなかったはずだが、突然俺をきつく抱き締める。
父親を知らない俺は、その温もりが本当にありがたくて、頼もしくて、強いものに感じた。
俺も衛藤さんのような父親になる。心の中で衛藤さんにそう約束した。
その夜のうちに俺は牧子とお腹の中の子供を連れて文字通り、生まれた街を逃げるように飛び出した。
駆け落ちって悲壮感溢れるものなのかと思っていたが、俺たちはいつも以上に笑いあっていた。
よくよく考えれば愛し合う二人が新しい暮らしを求めてすることなんだから、悲壮感溢れているはずがない。不安はあるけど希望と喜びで輝いてるものだ。
急なことだったし、行き先は出鱈目に決めた。俺は海がいいと言ったが、牧子は山がいいと主張する。
結局は牧子の希望を取って山にしてやった。
そして俺たちは夜更けに、名前もあるのか怪しいような山間の小さな町に辿り着いた。
「ここが俺たちの、新しい生活をするところだ」
「そうね……そしてこの子の、ふるさとになるのね」
牧子は腹をさすりながら子供に話し掛ける。
俺は希望と不安を胸に、暗くてよく見えない景色を見渡す。四方を山で囲まれたこの場所が、俺たちを守ってくれる気がした。