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透子の実家が金持ちだとは知っていたけど、限度ってもんがあんだろ?
はじめて訪れた牧子の実家は、俺の想像をはるかに超えていた。
あまりにデカい門と入場料の取れそうなほどの庭を見たとき、お寺か何かかと思ったほどだ。
「ここが実家なの」と言われ、こいつも冗談を言うようになったのかと思ったら、表札には確かに『安曇』という文字がデカデカと書かれていた。とはいえ書道家が書いたようなその文字は、はじめ安曇とは読めないくらいに崩されて書かれていたけど。
個人邸とは思えないほどの庭を通って玄関に入ると、出迎えてくれたのは牧子のお母さん、いやお母様だった。
「いらっしゃい、透馬君」
「あ、あのっ、すいませんっ、突然にっ……」
もはや小汚いスーツがどうしたとか言うレベルじゃない。俺が跨いでいい敷居とは到底思えなかった。
「透馬君……」
俺が怖じ気づいたのは、さすがの牧子でもわかったようだ。ギュッと俺の手を握り、微笑みかけてくれる。
「大丈夫。お父さんはそんなに怖い人じゃないよ。少しうるさいけど、普通のおじさんって感じだから」
「いや、まあ……ははは。そうなんだ……」
「さ、どうぞ……応接室へ」
「ふぁっ、はいっ……」
もはやお父さんが怖いとか怖くないとか、そんなレベルにも達していない。このお屋敷の雰囲気に完全に気圧されていた。
途中どうみても家族とは思えない角度で頭を下げてくる人と何人かすれ違ったのも驚きだった。
(使用人とか普通に雇っている家って、本当にあるんだな……)
「ここで少し待っててね。呼んでくるから」
牧子のお母さんは優しく笑って俺の緊張を解きほぐそうとしてくれていた。
「あ、ありがとうございマスっ……」
先ほどすれ違った人の一人がタイミングよくお茶やお菓子を出してきてくれた。とはいえ手をつけていいものなのかも分からない。
いや、娘さんには手をつけてしまっているんだから、今さらお菓子ごときで悩むのも変な話だ。そう思いつつもお菓子はおろかお茶にすら手は伸ばせない。
俺が通された客間には鑑定に出したら一体いくらの値をつけるんだろうと思わされるものばかりが飾られている。よく分かんない壺、掛け軸、刀、皿、更には鷹だかなんだかの剥製まで置かれ、絵に描いた金持ちのコレクションが並んでいる。
公営団地育ちの町工場勤務、おまけに中卒の俺が来るようなところじゃなかった。
しばらくすると牧子のお母さんが一人で戻ってくる。
「ごめんね、透馬君お待たせして。もう少しで主人が来ると思うので」
「いえ。そんな。こちらこそ押し掛けてしまって……」
このままお父さんが来ない方がいいとさえ思ってしまう。
(なに弱気になってんだっ! 牧子と結婚するんだろっ! しっかりしろよっ!)
汗でぐっしょりと湿った手のひらを握り、歯を食い縛る。
(この家と結婚するんじゃない。俺は牧子と結婚するんだっ)
「元気にしてた?」
重たい空気を拭うように、牧子のお母さんが話を振ってくる。
「は、はいっ! それだけが取り柄なもので……こないだはレストランでありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ。また行きましょうね!」
お母さんの感触は悪くない。もしかしたらイケるかも、と淡い期待も膨らんだが、長すぎる待ち時間で膨らんだ期待はどんどんと萎んでいった。
三十分くらい経った頃、ようやく現れた牧子のお父さんは、当たり前のように和装であった。
あわよくば俺が昔親切にパチスロの目押しをしてやったおじさんが現れるのを待っていたが、そんな都合のいいことはあるはずもなく、見知らぬ顔は難しい表情を浮かべていた。
牧子のお父さんは思っていたよりも若く見えたが、交じっている白髪の量を考えればそれほど若くはないのかもしれない。
慌てて立ち上がり、「佐々木透馬ですっ!」と勢いよく挨拶をしたが表情一つ変えずにスルーして座った。
何も語らないお父さんは静かな威圧のオーラを発していた。すっかり萎縮してしまった俺は、自分の汚い靴下が畳を汚してしまって申し訳ないという気持ちにまでなってしまう。
言えるか?
この状況で?
「娘さんを僕に下さい」ってか?
まだ「あの掛け軸を僕に下さい」って言う方がましだ。
「あ、あのっ……む、娘さんとっ……牧子さんと結」
「佐々木君って言ったかね? 牧子は大切な一人娘だ。そう簡単にくれてやるわけにはいかない。それ相応の男でなければ……ね。私の言ってる意味が、分かるね?」
俺が言い終わる前にお父さんは話し合いの終了を告げた。
会って数分で、俺は全否定されてしまった。
でも、まあ、そりゃそうだ。
俺は一生かかってもこんな豪邸には住めない。
いや、この部屋の調度品ですら集めることが出来ないだろう。
「お父さんッ! 透馬に謝ってっ! 謝ってよ!」
牧子は目を真っ赤にしてお父さんに噛み付いた。
ヤバい。牧子は逆上すると手に負えない。
お母さんは申し訳なさそうな顔をして、俺と目が合うと小さく会釈した。
俺に敵意はないにしても味方にはなってくれない。そう言っているようだった。
「俺は確かに小っぽけな人間です。高校も出てないし、小さな町工場で働いてます。この家の物置はおろか、押し入れより狭いような部屋に住んでて、あなたたちの一回の外食費で一ヶ月食いつないでいるような人間です。でも、俺は牧子さんを誰よりも幸せにする自信があります」
「誰よりも、か……私たち親よりも、と言う意味で捉えさせてもらっても構わないのかな?」
言葉尻を捕らえて嫌味を言われているのは馬鹿な俺でもわかった。
「そうです」
分かった上で、俺は馬鹿丸出しの返事をした。
これで怒るのか、生意気にも俺はそれを試していた。どうせ駄目なら下手な小細工なんかせず、馬鹿みたいに真っ正面から突撃する。それが俺の生き方だ。
牧子が何か言おうとしたのをお母さんが手を握って止める。
お父さんはしかし、表情を微動だにさせなかった。
まるで無理してでも無表情を貫こうと堪えているかのように。
そりゃそうだよな。こんな名家なんだ。普通に考えればこんな小汚い男が娘に求婚しにきただけでも屈辱なんだろう。その怒りを必死で抑えてくれているだけでも感謝すべきだ。
もしかしたらあそこに飾ってある日本刀もこういう時のためにあるのかもしれない。
でもだからといって俺も『はいそうですか』とは引き下がれなかった。
「牧子さんはいつも活き活きとしてます。いつも笑ってくれています。それを幸せと呼ばずになにが幸せなんでしょうか? 俺も牧子さんといるといつも笑っていられます。幸せっていうのはこういうものなんだって、牧子さんと一緒にいてわかりました。何があるから幸せとか、こうなったから幸せとか、そういうもんじゃなくて。自分が今幸せだと気付けるから、幸せなんだって」
自分の言葉で自分が興奮しながら、俺は一気に捲し立てた。しかし牧子のお父さんは相変わらずの無表情を貫いていた。
「君にとっての『幸せ』について、ここで意見を戦わせるつもりはない。私が言いたいのは、金銭的に苦労をかけさせないと言う意味での『幸せ』だ。確かに今は『楽しい』『愛してる』で幸せなのかもしれない。しかし生きるためにはお金が必要だ。きれい事じゃなくてね。生活が苦しくなれば、どうしても心が荒む。そうなっても、まだ、笑っていられる、活き活きしていると言えるのかな? 私にはそう思えない」
「もうやめてっ! お父さんっ!!」
遂に牧子がガチキレて怒鳴りながら立ち上がる。
「私の人生は私が決めるっ! お父さんに決められたくないっ! 私は透馬君と結婚したいのっ!」
「牧子……」
俺は自分でも驚くくらい小さな声しか出なかった。
「牧子のお父さんの言うことは……正しい」
「透馬君までなに言ってるの!? 相応しいとか相応しくないとか、そんなの関係ない! 私は透馬君が好きなのっ! 透馬君と、結婚したいのっ!」
ぼろぼろと涙をこぼし、震えた声で訴える。
「落ち着きなさい、牧子。お父さんは恋だとか、愛だとかを否定はしていない。お前が佐々木君と交際してると知っていたが、一度でも反対したり、止めたことがあったか? しかし結婚は違う」
「違わないっ! 私は透馬君と結婚したいのっ! 一生そばにいたい人と結婚するっ!」
牧子が泣きながら訴える度に、胸が張り裂けそうに痛かった。一人娘の牧子と結婚するということは、この家を守る人間にならなくてはいけないということだ。
町工場での作業しか出来ない俺に、そんなことは出来やしない。
恋愛とは違うんだ、結婚というのは。それを思い知らされた。
「いいんだ、牧子……ありがとう」
俺は立ち上がり、一礼をして客間を後にした。
「待ってっ! 透馬君っ! こんなの嫌だよっ!」
「分かってあげなさい、牧子。透馬君の気持ちも」
「離してよっ! 透馬ぁあ!」
俺は振り返れなかった。
振り返ったらきっと、駆け寄ってお父さんを殴り倒してでも、牧子を連れて走り出してしまう。
俺はそんな、後先も考えられない低脳だ。
それに俺は怖かった。
お父さんの言うように、きっと俺は一生お金に苦労して生きる。
貧しくても俺にとってはそれが普通だ。しかし牧子はどうだろうか?
貧しい暮らしで心もゆとりがなくなり、カサカサに乾き、荒み、牧子と笑いあえることもなくなる暮らしが、怖かった。
牧子を幸せにしたい気持ちで生きて、不幸にしてしまう。それより辛いことがあるだろうか?
やっぱり、俺と牧子では、暮らす世界が違いすぎる。
でも、勘違いしないで欲しい。
俺の住む貧乏ったらしい世界が卑しくて、牧子たちの暮らす世界が華やかで高貴で尊いなんて思っていない。
むしろ逆。
自由で気ままな貧乏暮らしの方がよっぽどいい。
先祖代々続く、由緒正しき貧乏人は元々金がないんだからお金がないことくらいで悩まない強さがある。
それに少なくとも貧乏人は相手の家柄で結婚相手を決めたりはしないからな。
門を出て振り返り、俺には不必要なデカい屋敷をもう一度仰ぎ見る。
(悪いな、牧子。俺は、お前を幸せにしてやれるような男じゃねーんだ)
牧子を幸せにするというのは、この家を守っていけるということまで含まれている。それをするには俺は、学もないし人脈もない。
目が熱かったから、そのまま下は向かない。
「あーあ、帰りてぇなー」
適当にそう呟いたが、どこにへなのかは、俺もよく分からなかった。
あの六畳一間のアパートなのか、それとも高校二年生の、あの学級委員を決めたホームルームなのか。
その時ふと口をついたのは、あの合唱コンクールで歌った『翼をください』だった。