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お食事会ではその後、牧子の小さい頃の話や、学校での牧子の話題で盛り上がった。主に俺と牧子のお母さんが話し、牧子が照れる役だ。
話をしている最中に料理も運ばれてきた。横文字が並んだ料理名は聞いたこともないものばかりだったが、驚くほど美味しい。
イタリア料理なんてスパゲッティとピザしか知らない俺は、いつピザやスパゲッティーが出てくるんだろうと思っていたが、デザートが出たところでようやくそれはないんだと理解した。
ふと窓の外の景色に目をやると、夜の街は光りの粒で輝いていた。俺はアパートや衛藤さんの町工場を探す。眩いくらいに明るい都市部に比べ、俺の住む地域は光が少なく薄暗かった。それにアパートも工場も高い建物の影で見えやしない。
俺がそんな風にぼんやりしている間に、牧子のお母さんはトイレに行く振りをして会計を済ませてしまっていた。
お母さんとの食事会を終えた俺は、外の風を浴びて初めて全身汗でぐっしょりと濡れていることに気付く。
「これからも牧子のことをよろしくね、透馬君」
お母さんは最後にそう言ってくれた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
俺は深々と頭を下げる。食事会の会計をさせてもらえなかったのが、いつまでも心の中でモヤモヤとしていた。
牧子とお母さんはそのまま帰って行き、俺は何となくそのまま帰りたくなくて、しかし結局行くところなんてなくて、あのレストランの窓からは見えなかった町工場に顔を出していた。
もちろんこんな遅くには誰もおらず、工場は静まりかえっていた。明日の朝になればまたここは普通の大声くらいでは何も聞こえないほどの活気溢れる騒音で満たされる。
「あら! 透馬君。お帰り」
「奥さん……どうも……」
牧子のお母さんと会うことは衛藤さんと奥さんには伝えていた。奥さんは近所の噂好きのおばさんのような目をして近付いてくる。
「で、どうだったのよ?」
「そりゃ、もう……牧子のお母さんは凄くいい人で……そうそうレストランとかも凄かったんですよ! もう、絶対、二度といけないようなとこで。あんなとこで一回食事したら俺の一ヶ月の食費が飛ぶってくらい…………牧子のお母さんがお金出してくれたんですけど……超ラッキーって感じでした」
俺の説明を聞くにつれ、奥さんは表情を曇らせていった。
「あ、そうそう! 衛藤さんと奥さんに言われてスーツ買っておいて大正解でした! 本当に役に立つんですねー、スーツ。あんなレストランにジーンズとか穿いていけねーし。あ、でもいたか、ジーンズの人も。でもその人全身有名ブランドの服着て、鞄とかも超ヤバくて、セレブ感はんぱーねーの。俺の小汚ねぇジーンズとはわけが違うし」
「透馬君」
もう聞きたくないという感じに奥さんは俺の馬鹿話を打ち切った。
その瞬間、一気に俺は自分が情けなくて、堪らなくなった。レストランの会計も払えず、安物のスーツを着て、牧子のお母さんに言ったことといえば「真剣に愛しています」という、腹の足しにもならないようなことばかり。
目頭が熱くなり、俺は慌てて空を見上げた。
「明日は雨っすかねえ……」
雲のかたちを見ても明日の天気なんて分からない癖に、俺はそれくらいしか誤魔化す言葉が思い浮かばなくて呟いた。
「私もね……うちの主人と結婚するときは凄く反対されたの。実はこう見えて、私は案外といいところのお嬢さんだったの。見えないでしょ?」
「はい」
「そこは嘘ついていいのよ、透馬君」
「すいません」
奥さんは笑いを交えて気を楽にさせてくれる。
「結局親の反対を押し切って結婚したってわけ。まあ実家には十年近く帰れなかったけどね」
そんなことがあったなんて全然知らなかった。
「でもね。お金なんてなくても……うちの人と結婚できてよかったなぁって思ってるよ、私は。いいじゃない、別に嫌味なくらいに高級なイタリアンなんて食べなくても。家で美味しいスパゲッティ作ればいいのよ。何を食べたかより、誰と食べたかの方が、きっと人生では大切なことなんだよ。牧子ちゃんだって、きっとそう思ってるわ」
「……はい」
滲んだ景色の中で奥さんの笑顔も歪んで見える。この辺りに街灯が少ないことをありがたく思った。
「そうなんですよね。あのレストラン、イタリアンとか言ってるのにスパゲッティ出ないんすよ、ピザも! あり得ないっすよね! あそこのシェフ、絶対イタリア行ったことないですよ」
「ふふ。透馬君は本当にいい子ね。おばさん、凄く好きだよ。また明日から頑張ろうね!」
「ありがとうございます、奥さん」
惨めな気持ちになって自分を卑下するというのは、意外と気持ちいい。
俺は底辺だ。育ちも卑しくて学もない。彼女は金持ちの令嬢だから遊びでは付き合えても、結婚は出来ない。給料も安いし、油まみれ。将来なんてきっと今と変わらない。いや年を取った分、今よりもっと惨めだろう。
自分自身をそうやって嘲笑うと、可哀想な自分に酔え、堕落していくことも肯定できるような心持ちになる。
でもそれはもう、やめよう。
俺は歯を食い縛って笑う。
俺は、俺だから。
高校の頃の担任の桝本に「変わりたいか?」と今訊かれたら、俺は即答するだろう、「変わりたい」と。
金持ちになりたいとか、優秀になりたいとか、そんな風に変わりたいんじゃなくて、自分を誇れるような人間に、俺は変わりたい。
それにいじけていたら牧子に合わせる顔もなくなるからな。
俺に出来ることといえば、仕事を必死で頑張ることだ。
翌日からも俺は必死で働いた。今までよりもっと自分の仕事に誇りを持って働けた。
牧子は相変わらず俺の小さなアパートにやって来て大学のレポートをしたり、食事を作ったりしている。
俺が帰ると顔を上げ、嬉しそうに笑って「お帰りー!」と出迎えてくれた。
俺の幸せはこの六畳一間の中に詰められるサイズだ。でっかい屋敷にすかすかの幸せを入れるよりも、みっしりと詰まったこの部屋の方が俺の性には合っている。
卑下や自嘲じゃなく、そう思えた。
ある日、家に帰ると母ちゃんが遊びに来ており、牧子と並んで座って何かを一生懸命見ていた。
「なんだ、母ちゃん。来てたのかよ?」
「どうぞお構いなく。私のことはタヌキの置物だとでも思っておいて」
言いやがったなと牧子を睨むと、にひーって感じに歯を見せて笑ってやがる。
「ほら、これが小学校入学の時の透馬」
「わー、可愛い!」
って俺の子供の頃の写真見てんのかよ!?
「何持ってきてんだよ、母ちゃんっ」
「いいでしょ、別に」
「私が見せて下さいってお願いしたの」
女二人は結束して、俺そっちのけで盛り上がる。
「この頃の透馬はこんなに可愛かったのにねー」
二ページに一回はそう言ってため息をつく母ちゃん。
今可愛くないのはあんたの育て方に問題があったんじゃねーの?
一体母ちゃんは何冊アルバムを持ってきたのか、俺はドンドン成長していき、小学校を卒業し、黒歴史のような中学時代に突入し、牧子と出会った高校生にまでなっていた。
「てかよくこんなに撮ってたな」
思春期になると写真を嫌がり、ほとんどの写真がカメラの方を向いておらず隠し撮りみたいな写りになってしまっている。
「懐かしいなぁ……」
高校入学式の写真を見て、牧子は目を細めて頬笑んでいた。
「懐かしいってほど昔じゃねーだろ?」
「えー? でも懐かしいでしょ?」
「こういうのは四十過ぎてから二人で見て懐かしいとか言うもんじゃねーの?」
「そっか……そうだよね!」
「まだ始まってばかりなのに懐かしいとかいうなよな」
牧子は嬉しそうに笑い、顔を上げる。
母ちゃんはもう一度一番古い『透馬誕生』と書かれたアルバムを広げて赤ん坊の俺を見た。
「可愛いねぇ……」
「はい。この時から今の透馬君の面影ありますよね」
「ねーだろ」
「あるよ!」
しわくちゃで、顔真っ赤で、どう見ても面影なんてない。
「赤ちゃん、抱っこしたいなー」
母ちゃんはいきなり爆弾を投げつけてきた。
牧子は顔を赤くして俯き、可哀想に躯を丸く縮めていた。
そういう微妙な発言は控えろよな。
「まだ早ぇーだろ? 二十歳にもなってねーんだぞ、俺も、牧子も」
仕方なしに俺がツッコむと牧子は赤い顔を上げて俺を見詰める。
「私は赤ちゃんを抱っこした言っていっただけ。猫カフェみたいに赤ちゃんカフェってないのかなー」
「あるかよ、んなもん。牧子もなんか言ってやれよ」
「私も産みたいな、透馬君の赤ちゃん」
「そうそう。俺の赤ちゃんを……って、ええーっ!?」
牧子は決して俺と目を合わそうとせずに、耳まで赤くしてジッと赤ん坊の俺を見詰めていた。
母ちゃんはなんか凄くいい仕事をした感のニヤニヤした顔をしてお茶を淹れにキッチンに立つ。
もういいから帰れよ、母ちゃん。
…………孫の顔が見たいんだったらな。
────
──
意識してなかったらあんまり気付かなかったけど、そう意識すると『結婚』という言葉はそこかしこに散らばっていた。
テレビをつければ結婚情報誌の宣伝、ドラマは結婚の話、ニュースでは誰かが結婚した話をしている。
街を歩いても式場やらジュエリーショップなどに目が向いてしまうのは、やはり意識しているからなんだろう。
牧子は余計なことなんて何も言わないが、期待や羨望の眼差しをそれらに送っていることは分かっていた。
(結婚っていっても牧子は学生だもんなぁ……)
そんな思いが俺の気持ちに歯止めをかけていた。
しかし牧子が家に帰って行くときは、やはりいつも切なかった。
このままいつまでも、牧子がそばにいて欲しい。
あいつの帰る家が、ここであって欲しい。
一人になったあとの静かな部屋で、俺はそんな思いにいつも駈られる。
ある日の仕事終わり。牧子が大学で留学生との交流会とやらで遅くなる夜だったから、俺は衛藤さんの家で夕食をご馳走になっていた。
無口な衛藤さんはあんまり喋らないけど、そういうところが好きだった。
そして反比例するように奥さんは色々と話し掛けてくれる。そういうところが、やっぱり好きだった。
二人は性格がまるで違うけど、相性ぴったりの夫婦だ。それが、俺の憧れだった。
「衛藤さんって、どういうタイミングで結婚したんスか?」
俺は今一番知りたいことを、一番聞きたい人に訊いてみた。
俺が真っ直ぐ衛藤さんを見詰めていたからか、奥さんは黙って衛藤さんの言葉を待ってくれた。
「透馬……結婚なんてのはなぁ……」
衛藤さんは晩酌を煽りながら静かに答えてくれる。
「このタイミングとか、こうなったら結婚できるとか、そんなんはねぇんだよ」
トン、とグラスを置くと、奥さんはそのタイミングでビールをグラスに注いでやっていた。
衛藤さんはそのグラスを握ったまま、傾けずに俺を見た。
「こうなったら結婚するとか、そんなのは言い訳だ。そういうことを考えてるうちは結婚なんて出来ねぇし、しない方がいい。こいつと一生暮らしたい。そう思えた時に結婚するのが一番だ。結婚するタイミングってのは、それしかねぇ」
衛藤さんのセリフとしては過去最長記録を達成すると、余計なことを喋った自分を叱るようにグラスをぐいっと煽った。
「ありがとうございます」
俺が聞きたかったままのことを言ってもらい、頭を深く下げる。
そうだ。俺の中で、もう答えは出ていたんだ。
安曇が学生だとか、住む世界が違うとか、そんなのは全て自分への欺瞞だったんだ。
俺は食べかけの茶碗の白米を口に詰め込み立ち上がる。
「ご馳走様でした!」
奥さんは微笑みながら俺の顔を見て頷いてくれる。
そのまま飛び出し、俺は安曇の大学へと走った。
まだ作業着を着たままだったことに気付いたが、そんなことはどうだっていい。
今すぐ安住に会いたかった。
キャンパスに着いて、俺はよく考えたら安曇がどこにいるのか全く分からないことに気付いた。
キャンパスマップとやらを見ると「留学生センター」というところと、「国際コミュニケーションセンター」というものを見つけた。
(国際コミュニケーションセンター……微かに聞き覚えがあるっ! もし安曇がここにいたらっ)
俺は再び勢いよく走り出す。
大学生たちはなにごとかと俺を見てくるが、全然気にならなかった。
俺が凄い勢いで走るから学生たちが避けていく。
辿り着いた国際コミュニケーションセンターは、そのきらびやかな名称とは裏腹に古びた昭和臭漂う建物だった。それがなんだか牧子にぴったりで笑えてしまう。
建物に突入し、大ホールへと駆け寄る。中からは賑やかな声と音楽が聞こえてきた。
(よしっ! 当たりだ、ここにいるっ……)
ドアを思いっ切り勢いよく開けると室内の全員が俺を見た。
「透馬君……っ!?」
どういう流れになったのかは知らないが、あの生真面目で大人しい牧子がヒゲ付きの眼鏡というお約束のパーティーグッズを着けていた。
息切れしてるのに笑わせようとすんなっ!
笑いを噛み殺し、牧子の元へと歩いて行く。
「牧子、結婚しようっ」
「えっ……」
一瞬の静寂の後に日本人も留学生も色めき立ち、歓声や拍手が湧き起こる。
「は、はいっ……幸せに……して下さいっ……」
作業服着た底辺労働者丸出しの姿で、しかも友達の前で公開プロポーズするという俺の鬼畜の所行に、牧子は羞恥と屈辱で涙を溢れさせながら答える。
「透馬君っ! 大好きっ!」
「知ってるよ、馬鹿。みんなの前で恥ずかしいだろっ……」
感極まって抱き付いてくるのはいいけど、ヒゲ眼鏡は外せよな。
全然違う意味で恥ずかしくなるから。