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 いささか強制終了感はあるものの、俺の高校生活は終わった。

 そうなれば当然次は働くまでだ。

 俺は衛藤さんの工場に向かっていた。人手が足りないとぼやいていた衛藤さんだから俺のような奴でも喜んでくれるかもしれない。高校を辞めて働きたいと言ったら「いつでも来いよ」と言ってくれてたこともあったし。


 学校で勉強してても誰の助けにもならないが、仕事なら頼りにして貰える。それもやり甲斐を感じるところだ。


「おはようございます」

「なんだ? ずいぶん朝早くから」


 衛藤さんは咥え煙草で日焼けと油で黒くなった顔を綻ばせた。


「俺高校退学になったんでここで働かせて下さいっ」


 そう言った瞬間、咥えていた煙草をぽろりと落とし、笑顔が見る見る怒りの表情に変わっていった。


「馬鹿野郎っ!」

「痛ぇっ!」


 衛藤さんは拳を振り下ろし、真上から俺の頭を殴った。就職活動なのに履歴書を持ってこなかったから怒っているわけではなさそうだった。


「せっかくあんないい高校に入ったのにっ! てめえはっ……」


 こんなに怒っているこの人を見るのは初めてだった。傍らにいた衛藤さんの奥さんが慌てて止めに入るほどに激昂していた。


「……すいません」

「母ちゃんがどんな気持ちか、考えてみろっ! 無理してでも息子を高校に入れてっ……それなのにお前はっ……」


 その言葉は何よりも一番効いた。衛藤さんはうちの母ちゃんのことも、厳しい経済事情も知っている。


「ちょっと、あんた……透馬君の言い分も聞きもしないで」


 奥さんに制されて衛藤さんは少し落ち着いたのか、帽子を目深に被り俺に背を向けた。


「……明日からは朝八時からだぞ。正社員なんだ、遅刻したらただじゃおかねぇからなっ!」

「あ、ありがとうございますっ!」


 俺は直角になるほど衛藤さんの背中に頭を下げていた。


「頭痛くない? 本当にうちの人は乱暴だからねぇ。ごめんね透馬君」


 奥さんは笑いながら気遣ってくれる。

 この人たちの期待に応えたい、失望させたくない。生まれて初めて他人に対してそんな気持ちにさせられた。


 次の日の朝、衛藤さんは「支度金だ」といって俺に大層な額をくれた。もちろん断ったけど一度出したものを引っ込めるような人じゃない。

 結局俺は奥さんにも言われた通りスーツを買って残りは貯金した。

 町工場勤めでスーツはいらねぇだろうと思ったけど、社会人として必要なときもあると言われてそんなもんかと納得した。


 仕事は当たり前だけど楽じゃない。慣れない機械の操作とか教えられた時はなおさらだ。

 一日働いてくたくたでとても遊ぶ気にもなれない日も多かった。

 けど俺は充実を感じていた。学校なんかに行くよりもずっと。


 初めてもらった給料で母ちゃんに服をプレゼントしたら「着てくとこなんてないよ。無駄遣いして」と笑ってくれる。

 そんなことも嬉しかった。


 ──で、こいつである。


「仕事慣れた?」


 安曇はいつも通りにそう訊いてくる。

『いつでも逢えるだろ』という俺の言葉をどう解釈したのか、最低でも二日にいっぺんは放課後にやって来るストーカーぶり。警察に相談したら保護して貰えるレベルだ。


 あまりに『どこかに遊びに行こう』ってしつこいから今日は貴重な休みを利用して巨大ショッピングモールに連れ出していた。

 断っておくがこれはもちろんデートなんかではない。


「仕事に慣れたかって? んなもん余裕だし。楽しく働いて金も貰えるから最高だ」

「うん。なんか佐々木君凄く生き生きしてるもん」


 自分のことみたいに俺の充実を喜んで微笑む。

 しょっちゅうやって来るくせに、安曇は学校のことをほとんど話さない。それは退学になった俺を気遣ってのことなんだろう。

 大抵の会話は俺がどうでもいいことを話して、こいつが聞き役というスタンスだ。


「安曇こそ学級委員長はしっかり出来てんのかよ?」

「うーん……まあまあ、かな。何とかやっているよ」

「そういえば副委員長はどうなった? まさか田淵じゃねーだろうな?」


 俺が抜けた穴を埋める副委員長が気になった。俺の次にクラスの男子で跳ね返っていたあの男だとしたらなんか癪に障る。

 俺が少し怒ったように訊くと安曇はニヤニヤしやがった。


「ううん。副委員長は空席。誰もやってないよ。安心した?」

「はあっ!? なんで俺が安心しなきゃなんねーんだよ?」

「その代わりみんなが手伝ってくれてるから」


 あたふたしてテンパる安曇をクラスのみんなが助けてやるところが容易に想像できた。そういうところがむしろこいつの人徳なのかもしれない。


 週末のショッピングモールは家族連れやカップルなどで賑やかだ。安曇は淡い水色のシャツに膝下丈のふんわりとしたスカートを穿いて、制服姿とは随分違って見えた。俺はジーンズによれたTシャツ一枚という小汚い格好だ。

 良家のお嬢様と肉体労働者丸出しの二人は周りの奴らからはどう見えるんだろう。ふとそんなことも思って気後れしてしまった。


 適当に歩いて服屋だとか雑貨屋だとかを冷やかし回っていく。安曇は意外にも可愛らしい雑貨を見ると、それに相応しいくらい可愛く喜んだ。真面目で堅物で女子力なんて無縁と勝手に思い込んでいたが、安曇もやっぱり普通の女の子なんだな。


「わあっ……綺麗っ!」


 安曇が特に興味を示したのはガラス玉だった。綺麗に色づけされたガラス玉を一つぶら下げたネックレスを、まるで大英博物館からやって来た美術工芸品を見るような目で見詰めていた。


「買ってやるよ」


 俺は引ったくるようにそれを安曇から取り上げレジに持って行く。


「い、いいよっ! 悪いしっ」


 安曇が必死で抵抗するのを片手で制しながらレジをしてもらう。その光景を見て店員さんは可笑しそうに笑っていた。「プレゼントですか?」って見りゃ分かるだろ。冷やかしか?


「ほらよ」

「あ、ありがとう……」


 安いプレゼントなのに安曇の奴は少し目を潤ませるほど感謝してやがる。

 社会人と学生の財力の差だというのを見せ付けてやった。ざまあみろ。


 早速袋から出して首にかけてやると、照れ臭そうに鏡の前で頬笑んでいた。


「大切にするね」

「んなもん大切にするなよ」

「するよ! せっかく佐々木君にもらったんだからっ!」

「馬鹿。大切にするよりいつも着けてろよ。せっかくプレゼントしたんだから」

「……うん。そうだね。大切にいつも着ける」


 こんな安物一つで喜ぶなんて、意外とチョロいんだね、安曇ちゃんよ。

 だったらダイヤの指輪なんて買ってやったら心臓止まるんじゃねえの? さっさと金貯めてこいつの息の根、止めてやるか?



 俺は仕事を覚え、どんどん出来ることが増えていき、衛藤さんも頼りにしてくれるようになってきた。

 それが嬉しくて、更に俺は仕事に身が入る。


 高校の時の友達はもちろん、中学時代のダチともつるむ暇がなくなってきたけど、相変わらず安曇だけは甲斐甲斐しくもやって来て俺と繋がりを持ち続けてくれた。

 もちろん躯の繋がりはないけど。


 季節は巡り、それこそ息つく暇もなく時は流れ、高校を辞めて二度目の春が訪れようとしていた。

 退学になっていなければ、今日が卒業式だった。


 もちろん卒業式なんて俺には無関係だから見に行くはずもなく働いていた。


(安曇も、今日で高校生活最後か……)


 ふとそんな感傷が胸に迫ってくる。


 ガチガチに緊張しながら卒業証書を受け取ったり、仰げば尊しを歌ってボロ泣きするとことかを見られたら一生ネタにしてやれるのに残念だ。



「佐々木君っ!」


 仕事終わりの時間に安住の俺を呼ぶ声が聞こえる。振り返るとまだ咲いていない桜の木の下に制服姿の安曇が立っていた。走ってきたのか、息が上がっている。

 こいつの制服姿を見られるのも今日が最後か。


「なんだよ、安曇。卒業式の日くらい同級生と遊んで来いよ」


 首にかけたタオルで顔を拭い、ぶっきらぼうに言ってしまう。


「……うん」


 安曇はどこか寂しげだ。卒業式を終えた奴に気の利いたことを言ってやれない自分が情けない。

 卒業出来なかったことを悔やんでいないと思っていたが、案外どす黒い嫉妬が自分の中にあるのを見てしまったような、そんな気がした。


「まあ、なんだ……卒業、おめでとう。安曇」

「ありがとう、佐々木君」


 杓子定規な俺の社交辞令に涙ぐむ安曇。

 中卒なのに杓子定規な社交辞令とか言えちゃう俺、凄いだろ?


 卒業証書の入った筒を片手に、安曇は頼りなげに立っている。まだ肌寒い三月の風が強く吹いて安曇の黒髪おかっぱを揺らした。


「お祝い、してやるか」

「いいのっ!? あ、でも仕事終わりで疲れてるだろうし、いいよ」

「ナメんな。これぐらいで疲れるほど柔じゃねーし。てかそういう風にすぐ気を遣うのやめろよ」

「ごめん」

「すぐ謝るのもな」


 十八歳の誕生日を機に一人暮らしをはじめた俺の部屋に、初めて安曇を上げた。

 散らかそうにもモノがない殺風景な部屋で、安曇はちょこんとクッションの上で正座をして俯いていた。


「コートくらい脱げよ」

「あ、うんっ……」


 安曇は立ち上がり、コートを脱ぐ。それを受け取ろうと安曇の前に立つと、改めてこいつが小さいことを実感した。でも上目遣いに見上げてくる顔は、出会った頃よりずっと大人びたしっかりとした顔に変わっていた。


 その瞬間、押し込めていた感情がいきなり溢れてきた。直情型の俺は、その激しい衝動に駈られたらもう、止められなかった。


「安曇……」

「きゃ!?」


 ほとんど反射的に抱き締めてから、もう後戻りできないと悔やんだ。

『もし拒絶されたら』という不安が俺にはいつもあった。暮らす世界が違いすぎる安曇の優しさが、本当はいつも怖かった。


 なくして悲しむくらいなら、はじめからない方がいい。臆病で卑怯な俺は、だからその瞬間だけの刹那の喜びだけで満足するように生きてきた。

 手の届かないものをはじめから欲しがらない性格は、貧しさ故に植え付けられたものなのかもしれない。


 俺の腕の中では安曇も震えている。でも目を見れば怯えて震えているわけではないことが分かった。

 俺が顔を近付けると、安曇も顔を上げる。


「安曇、愛してる……」

「私も……ずっと佐々木君が好きだったのっ……」


 唇を重ねると脳の奥がふらっと揺らいだ。

 安曇の唇は生意気にも、とっても柔らかくて、温かかった。



 安曇があんまりにも痛がるから俺は本気で動いたりせず、自分が果てる前に適当なところで終わりにしてしまう。初めての安曇を相手に手抜きとか、俺はやはり鬼畜だ。


 ことを終えた後、安曇は鏡を見ながら髪をとかしていた。まだ興奮が抜けきっていない頬はほんのりと赤かった。


「大丈夫か、牧子」

「えっ……!?」


 驚いた顔で俺を見る。俺的にはごく自然に呼び方を変えたつもりだったが、やっぱり違和感を感じるよな、そりゃ。


「な、なんだよ……」

「ううん……大丈夫だよ、透馬君」


 名前で呼び合うのは何だか気恥ずかしいけど、その擽ったさが悪くなかった。

 牧子はブラシを置き、膝でトテトテと近寄ってきて顔を俺の胸に顔を埋める。


「ありがとう、透馬君……嬉しい」

「はあ? 何言ってんの牧子」


 なんだか照れ臭くて、俺はうやむやにしてしまう。真っ直ぐな牧子の方がもしかしたら俺よりずっと強いのかもしれない。

 はっきりと、俺は感じた。今、幸せなんだ、と。実際は安曇と重ねてきたこの一年半、ずっと幸せだったんだが気付けないでいた。

 自分が幸せなんだと認めてしまうと、なんだか笑ってしまうほどに、気が楽だった。


「なに笑ってるの?」

「別に……牧子は俺みたいなろくでもない奴に引っかかって災難だなぁって同情してただけ」


いつも通り軽口を叩いてやったが、牧子は笑わずに真剣な顔で俺の目を見詰める。


「私の方が、ずっと悪くてひどい女かも知れないよ?」

「はぁ? んなわけねーだろ? 牧子くらいお人好しで親切でもの好きな奴もいない」

「もう。照れるから褒めないで」

「褒めてねーし!?」


 牧子は先ほどの真剣な顔を霧散させ、いつも通りの朗らかな笑顔に戻った。


「春からは大学なんだろ?」

「うん。近いからもちろん家から通うんだけどねぇ……」

「なにその残念そうな言い方」

「だって一人暮らしとか愉しそうなんだもん」 


 行ったことはないけど、こいつの家はかなりの資産家らしい。しかも一人娘だ。一人暮らしなど赦すはずもないだろう。


「一人暮らしっていうのは自分で金を稼げるようになってからするもんだ」

「なんか上から目線だねー、透馬君」

「上だからな」

「なにそれー」


 偉そうに言ってるけど、俺も衛藤さんの厚意で寮費と言う名目で手当をもらっているのは内緒だ。


「それはそうと俺も大切な仕事任されて最近は残業も多くて大変だから、これからはあんま仕事場の方に来るなよ」

「えっ……」

「だからこれ渡しておく」


 俺のアパートの部屋の鍵を差し出すと、思考がフリーズしたように牧子の動きが止まった。


「来たかったら勝手に来て、上がってればいいし……」

「透馬君、大好きっ!」

「わっ!?」


 牧子は腕を俺の背中に回して思いっ切り抱き付いてくる。

 こんな何もない安っぽい六畳一間の部屋に出入り自由なのがそんなに嬉しいのかよ。

 やっぱり変わった趣味だな、こいつは。



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