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安曇の弁当テロは母ちゃんが退院するまで続いた。
二日目からはプチトマトにハムを巻くなどの小細工をしてきたが、ハムだけ食べてプチトマトは残すという俺の鬼畜の所行に安曇の心は打ち砕かれたことだろう。
そして合唱コンクールの練習も毎日続いた。渋々『翼をください』を提案した川渕だったが、課題曲を決めた責任感からなのか結構真面目に練習に参加して、他の男たちをリードして纏めていた。
また頼りない委員長を見かねてか、女子連中は安曇の手助けもしていた。まあ副委員長がろくに仕事しないというのもあるんだろうけど。
動画を撮ったり、コーラスのアレンジを加えたりと、やる気なさそうにしていた連中はどんどん変わっていく。
とにかく確かにクラスは少しづつ纏まってきてるようだった。
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「いよいよ明日だね」
「ああ……」
放課後の練習が終わり、俺と安曇は駅に向かって坂を下っていく。
さすがに前日練習はバイトを休んで参加した。
「ありがとうね……佐々木君」
「別に……今日は工場も暇そうだったし」
「今日練習に参加してくれたこともそうだけど、いつも私を助けてくれて、ありがとう」
「はあ? 助けてねーし?」
安曇の微笑んだ顔で見られるのが鬱陶しくて顔を逸らし、坂の通学路の隣を寄り添うように流れる小川を意味もなく眺めていた。
「明日、楽しみだね」
「そうか? 俺は面倒なだけだけど……まあ、ここまで練習してきたんだから、あとはやるだけだろ?」
なんでこいつはこんなに愉しそうなんだ?
まあ、よくわかんねーけど、嬉しそうに笑う顔はチビ眼鏡も少しだけ可愛く見えた。ほんの少しだけだけど。
「佐々木君のそういう思い切りのいいところ、好きだなぁ」
「はあ?」
「あとは当たって砕けろみたいなこと、私言えないもん」
「当たって砕けろとは言ってねぇし……そこまで緊張するもんか? たかが合唱コンクールだぞ?」
「まあそうなんだけど。でも練習してきたことをこの一回で出し切るというのが緊張するのかも」
確かに安曇のその一言は理解できた。練習をどれだけしてきたとか、練習の時はどれだけ上手に出来たとか、そんなものは見ている人には分からない。
一発勝負の本番で失敗するか、成功するかにかかっているから緊張するんだろう。
受験だってそうだ。どれだけ勉強しても入試試験で失敗したら、結果は勉強しなかったことと同じになる。もちろん勉強してきたことを全て忘れて無になるわけではないんだけど、合格するために得た知識なのに不合格では報われない。
「何も緊張する必要なんてねーよ。もう成功してるんだから」
「え?」
「合唱コンクールなんて優勝するためにやってきたわけじゃねぇだろ? 『クラスのみんなが一つになれた』とまでは言わなくても、かなり打ち解けられただろ? 目的はそれなんだから、もう俺たちは目的を達成してるんだ。だから明日は緊張する必要なんてなんもない」
「わぁ、さすが佐々木君っ! いいこと言うね! そうだね。うん、明日は愉しめばいいだけだね!」
やたら褒められたり、感謝されるとなんだか照れくさい。よし、明日は歌う直前に『絶対間違うなよ。これまでの練習が水の泡だからな』と安曇を脅してやろう。
うれしそうに鼻歌で『翼をください』を歌う安曇を見ながら、俺はそんな鬼畜のプランを練っていた。
家に帰り適当に飯を食ってから、俺は合唱練習の動画を見ていた。練習じゃなくて暇潰しだ。こうして聴いてみるとそれなりにかたちになっている合唱に合わせて、俺も自然に口ずさんでいた。
俺の視線の焦点は気が付くと安曇に合ってしまっていた。
(なんでチビ眼鏡なんか見なきゃいけねぇんだよ)
と、自分を恥じたその瞬間、動画が止まった。
そして画面には着信の表示が映し出される。
(竣から?)
中学時代のダチからの着信に、なにか俺は胸騒ぎを覚えた。
「なんだ?」
「透馬、マジでヤバい! 光汰が拉致られたっ!」
「えっ!? 誰にだよ!?」
「……パニックピースの奴らだ」
「マジかッ!?」
パニックピースとはこの辺りでは有名な暴走族だ。かなりヤバい奴らも所属しており、俺たちも関わらないようにしていたほどだ。
とにかく助けようと話し合って、ひとまず電話を切る。
(マジかよ……せめてもう少しましな奴らと揉めてくれよな、光汰……)
馬鹿な仲間を恨みながら、俺は部屋にあった木刀を手に取る。中学の時の修学旅行で洒落で買ったまま放置していたものだが、まさか使う日が来るとは思わなかった。
それを片手にスマホを手に取ると、再生途中で止まった動画の画面が目に映った。安曇の、口を大きく拡げて目を閉じた間抜けっぽいブサイク顔に思わず笑った。
(暴力沙汰を起こしてしまったら、停学じゃ済まないかもしれないよなぁ……)
俺は木刀を名残惜しそうに一度見てから放り出し、武器を持たずに家を飛び出す。
母ちゃんがまだ帰ってきていないのは幸いだった。
パニックピースの奴らがたむろしているアジトは町外れの廃アパートだ。俺はスクーターに乗り、フルスロットルで急ぐ。
アジト前には予想通り何台もの下品な改造バイクが止められていた。峻はまだ来ていないが、待っていてはその間にも光汰の身に危害が及んでしまう。
(ええいっ! 畜生っ!)
ダチを見殺しにするわけにはいかない。
俺は脚が竦むのを叱咤するように頰を数回叩いてから駆け出す。
廃墟と化した集合住宅の中庭だったらしいところで奴らはたむろしていた。
低脳な生き物ならではの下卑た声を上げ、光汰一人を囲んで吠えていた。
「おいっ!」
俺が怒鳴りながら駆け寄るとパニックピースの奴らが一斉に振り返る。
「おお。お友達が助けに来てくれたぞ、光汰君」
誰かが馬鹿にしたように言い、愉快そうな笑い声を響かせた。
既に光汰はボコボコに殴られており、酷い有様だった。
「なんだ、透馬一人で来たのか? 度胸あるじゃねぇか」
そう言って笑いながら近付いてくるのはパニックピースのリーダー格、太軌だ。二年上の先輩だが、生意気な俺は昔からよく衝突しては拳で可愛がってもらっていた。
「透馬……逃げろ……」
ボロボロの光汰は呻き声で俺に言う。そんな心配するくらいなら最初からこんな奴らと関わるなよ。
俺は光汰の前に立ち、庇うようにしてから太軌の方を向く。
「お願いです……太軌さん……光汰を許してやって下さい……」
両膝を跪きながら、真っ直ぐに太軌の瞳に訴えた。
「は? なにお前?」
俺は両手をつき、額を地面につけるほど頭を下げる。
「お願いしますっ……赦してやって下さいっ!」
「おいおい、土下座かよ!」
「だせぇ!」
殺気だった笑い声を浴びせられる屈辱を、ギュッと手に力を籠めてぶちぶちっと雑草を引きちぎって堪える。
「透馬、お坊ちゃん学校に入って根性まで腐ったのか?」
太軌は屈んで俺の髪を掴み、無理矢理に顔を上げさせた。挑発に乗ったら駄目だ。ぐっと唇を噛み、堪えるしかなかった。
「光汰を赦してやって下さい。お願いします」
「がっかりさせるなよ? 昔のお前なら勝ち目がなくても刃向かってきただろ?」
がつんっという衝撃が顔面を走り、遅れて痛みと血の味が口に広がる。
それが合図だったかのように四方から足が飛んできて、背中やら脚やら首を蹴飛ばされた。俺は頭だけを守り、必死に丸まっていた。
ここで暴れたら、俺もこいつらと同じだ。
ひたすら耐え、こいつらが諦めるのを待つより手立てがない。
俺の脳裏には何故だか安曇の顔が浮かんでいた。
「おい、貴様らっ!」
警笛と怒声が鳴り響き、複数の慌ただしい足音が駆け寄ってくる。
「やべっ!」
パニックピースの奴らは慌てて走り出す。顔を上げると警察官と、ちゃっかりその後ろを走る峻が見えた。
(峻……ちゃっかり通報してお巡りが来るまで待ってたのかよっ!)
腹の中で峻を罵りながら、感謝していた。
俺たちはパトカーに乗せられ、署に連行され、そして何故か加害者のように扱われた。
「だから俺は手ぇ出してねーからっ! ダチを助けに行っただけでっ……」
必死に説明するも、お巡りは端から俺も喧嘩をしていたと決めつけ、まともに取り合ってくれない。日頃の行いが悪かったから、まあ、それも仕方のないことだった。
ようやく事態を理解してくれ、解放されたのは夜の十時過ぎだった。
俺を迎えにやって来ていたのは担任の桝本ともう一人の男性教師と母ちゃん。
と安曇。ってなんで安曇がここにいるんだよっ!
あとから確認したらパニックになった母ちゃんが何故か安曇に連絡してしまったらしい。勘弁しろよ、母ちゃん。
「馬鹿っ!! なんでこんな危ないことするの!」
安曇はボロボロ涙をこぼしながら俺に怒ってきた。
ざまぁ!
はじめてこの生意気なチビ女を泣かせてやった。いい気味だ。
安曇は飛び付いてきて俺をポカポカと叩いてくる。
「痛ぇから叩くな! 怪我人だぞ、こっちは! とどめを刺しにきたのかよ、お前は!」
「心配したんだからっ!」
「うっ……」
次はタックルで抱き付いてくる。本気で痛いからやめて欲しい。
「今学校で緊急職員会議を開いてるから、取り敢えず明日は教室に行かずに職員室に来なさい」と言い残し、桝本は疲れた顔を無理矢理笑みに変えて学校へと戻っていった。
当然明日の合唱コンクールは参加できないだろう。
こんな夜中じゃ危ないからと母ちゃんは安曇を家まで送ると言ったが、怪我人の俺に無理をさせるからと安曇は固辞してタクシーで帰っていく。
怪我人の俺を叩いた奴が言うな。
帰り道、母ちゃんは何も言わなかった。恐らく警察からは事件の経緯を説明されたんだろう。
「悪い奴とつるむな」とか、「友達は選べ」とか、母ちゃんはそういうことは決して言わない。けど本心は安曇とかうちの学校の生徒のような上品な奴らと仲良くして欲しいんだろう。その気持ちは分かるけど、合わない奴らに無理矢理合わせるより、気の合う奴らと馬鹿をしていたい。
「ごめんな、母ちゃん」
色んな言葉を省略して、俺は一言だけ謝った。
「まあ、透馬の馬鹿は今に始まったことじゃないし……」
母ちゃんは振り返って力なく笑った。
「それにしてもいい子だねぇ、牧子ちゃん」
「は? そうか?」
俺は惚けて答えて「あーあ、明日説教されるの嫌だなー」と話を逸らした。
頭にはボロ泣きした安曇の顔がちらついていた。
俺のために泣いてくれる奴って、そういえば生まれて初めてかもしれない。俺みたいな奴になんで関わりたがるんだろうな、あいつ。ま、お嬢様の気まぐれなんだろうけど。
翌日、職員室に行くと意外にも説教はなかった。
教師たちは腫れ物に触るような雰囲気で「退学」ということを伝えてきただけだった。
俺は知らなかったが、この学校は警察沙汰の事件を起こしたら退学という暗黙の決めごとがあるらしかった。
うはっ! 俺、中卒決定っ!
辞めたかったし、別に異論もない俺はそのまま職員室をあとにした。
「佐々木君っ!」
俺を追い掛けてきた担任の桝本はひたすら謝っていた。
事情を説明しても聞き入れて貰えなかったことや、自分の力不足をひたすら詫びていたが、俺は歩を止めずに聞き流していた。謝られれば、謝られるほど、俺はつくづく人に迷惑をかけながら生きていると嫌気がさした。
「いいよ、別に。先生のせいじゃねーから」
振り返らずにそう言うと、桝本は「ごめんなさい」と謝り、それ以上俺を追い掛けてこなかった。
校舎を出て体育館脇を通ると中から合唱コンクールの歌声が聞こえてくる。
(結局出られなかったな……合唱コンクール。まあ、出たくはなかったけど)
しばらく立ち止まって聞きながら空を見上げた。
(母ちゃん、悲しむかな……せっかく行かせてくれた学校を中退だもんな……)
「続きまして二年二組。曲目は『翼をください』」
拍手の後に俺のクラスの歌が始まる。クラスメイトの歌声に合わせながら俺も小さく口ずさむ。
安曇は俺がいなくて不安になってないかな?
まあ、なんねーか、そんなもん……
そんなことを思いながら、俺は歌いながらその場を立ち去る。
段々と小さくなっていく歌声が、いつまでも耳に残っていた。
その日の夜。「俺、退学になったわ」と笑いながら母ちゃんに報告した。
どうせこっぴどく叱られるならどんな風に言ったところで同じだ。何でもないことのように伝えて、『俺は落ち込んでなんかいない』アピールした。
母ちゃんは「そう……」とだけ答えて黙り込み、天井を見上げながら意味もなく台所に向かってしまった。
肩を震わせて何も語らない背中を見て『もう二度と親不孝をするのはよそう』、そう決心した。
荷物を取りに来るのは日曜日にしろと言われていたが、辞める俺には関係ない。今の俺は無敵だ。
翌朝に学校へ行ってやった。
「透馬っ……」
「佐々木君っ……」
クラスメイトはある程度事情を知っているようで、戸惑いと憐憫の視線を向けてきた。
「俺退学になっちまったんで!」
冗談のように言うと、どう反応していいのか判断がついたのか、みんなは遠慮がちに笑った。
しかしその中に安曇がいないことに気付いた。
(まさか……)
嫌な予感がして、俺は教室を飛び出して職員室へと駈け出す。
職員室の扉を開けて中に飛び込むと、安曇の怒声が響いていた。
「納得できませんっ! 佐々木君は友達を助けに行っただけで、暴力も振るってないんですよ!」
噛み付くように怒鳴って陳情している相手は教頭だった。
「きょ、教員みんなで会議をして決めたことだからっ」
「だからもう一回会議をして下さいと言ってるんですっ!」
安曇は教頭の襟首を掴みそうな勢いで詰め寄っていた。試合前のボクサーかってくらいに顔を寄せている。
お前が退学になるぞっていうくらいの勢いだ。
「おい、安曇、やめろって!」
振り返った安曇は俺の顔を見て、落ち着くどころか興奮を増して、
「佐々木君は黙ってて!」
ビシッと人差し指を俺の前に突き立てる。
「あ、安曇さん落ち着いて」
今度は教頭がなだめようとするが、刺し殺しそうな勢いで睨まれ、思わず怯んでいた。
普段大人しい安曇がブチ切れると手に負えないということを俺は学んだ。
しかしいくら騒ごうが、訴えようが、当たり前だが退学は覆らなかった。
俺が荷物を纏めて出て行くと安曇も当たり前のようについてきてしまう。
お前は授業あるだろ!?
「佐々木君が退学なんて……絶対間違ってるっ! ……ごめん、私、力になれなくて……本当に、ごめんなさい。いつも佐々木君に助けてもらってたのに……私は何にも、助けられない……」
どこまでもついてこられても困るので、駅近くの河川敷で座ると、安曇はボロ泣きしながら謝ってくる。
「別に……高校なんて辞めようって思ってたから。だいたいお前は悪くねーし……謝んなよ」
それ言っても安曇は泣き止まない。
川原の土手に座りながら喋るとか、昭和の青春ドラマかよ。
ほんと、安曇は昭和臭が漂う奴だな。
「俺はお前を助けてなんていねぇし……それに俺はほら、弁当とか、助けてもらってるから……母ちゃんの見舞いにも来てくれたしな……」
目を真っ赤に腫らした顔がなんだか痛々しくて見てられなかった。だからちょっとしたリップサービスだ。
これ以上泣いたり謝られたりしても俺が辛くなるから陽気な口調に変えようと試みた。
「あーあ。どうせ退学ならあいつらの何人かでも木刀でぶっ叩いてやればよかったな」
「駄目ッ! 暴力なんて!! ……はっ!? もしかして復讐しようなんて考えてないよね!? そんなのっ、絶対駄目だからね!」
安曇は再び涙をこぼし、必死に訴えてくる。
「しねーよ、そんなもんっ!」
これは逆効果だった。よけい泣かせてどうすんだよ。
そうだ、ここはもう、ガラッと話題を変えた方がいい。
「そういえば合唱コンクール、どうだったんだよ?」
「あ、うん……学年一位だったよ!」
一瞬パッと安曇の顔が明るくなった。
「へえー! 凄いな! やったじゃん。練習した甲斐があったな」
「えへへ。佐々木君のお陰だよ! ありがとう! それなのにっ……ううっ……私は佐々木君になにもしてあげられないなんてっ……情けなくてっ……」
「わー、だから泣くなよっ」
せっかく話題を変えたのにやはり泣いてしまう安曇。もう、どうすりゃいいんだよ、これ! 俺はあんまり人に泣かれるのが得意じゃない。
「別に死ぬわけじゃねーし……ほら、家もそんなに遠くないんだし、いつでも逢えるだろ?」
「本当!? いつでも!? 絶対!? 約束だよ!」
突如涙を引っ込め、激しく食い付いてくる。
「お、おう……約束だ」
なんだか嵌められたような気分だったが、仕方ない。それで泣くのをやめてくれるなら、まあよしとするか。