12
本当は牧子のそばにいてやりたかったが、透子のミルクやらおむつがないので一旦家に帰った。
いや、そんなのは言い訳で、本当は痛々しい姿の牧子を見たくなかっただけなのかもしれない。
ベッドで横たわり、よく分からないものに繋がれた牧子を見ていると、牧子がいなくなるという現実を突き付けられているようで怖かった。
きっと明日の朝、病院に行ったら何ごともなかったように牧子は起きている。
そしてあのヤブ医者は誤診でしたって俺に土下座してくるだろう。
そんなことを思いながらいつの間にか寝ていた。しかしその夜見た夢は思い出すのもおぞましいくらいひどいものだった。
朝は透子の泣き声で起こされた。
時刻は朝六時半。曇りなのか窓の外は暗かった。
「おー、ごめんごめん。お腹空いたのか?」
寝ぼけながら抱っこするとおむつが膨れてぬるい感触だ。
「そっちの方か。よし、待ってろ」
おぼつかない手つきでおむつを替える。透子はそんな俺にでも、信頼できる親という風に全てを委ねてくれていた。
そのあと粉ミルクを作って飲ませるのも一苦労だ。粉の量は目分量だったからやけに濃くてお湯を足して薄める始末だし、熱々で飲めたもんじゃない。大人なら多少濃かろうが熱かろうが適当に飲み食いしてくれるが、赤ちゃんというのはそうはいかない。たかがおむつ替えとミルク作りなのに家の中がひっくり返っていた。
牧子は簡単そうにやっていたのにな。
仕事は休む連絡を入れ、迷った挙げ句に一応牧子の着替えやらの用意もした。そんなものを用意するのは、牧子の病気を現実だと受け止める行為のような気がして、諦める行為のような気がして、嫌だった。
(もちろん念のためだし、今日連れて帰るけどな)
空回り気味の強がりを自分に言い聞かせても、心はちっとも落ち着かなかった。
透子を抱っこひもで括り立ち上がったところで足が止まった。
行きたくない。
もし牧子が昨日と同じ状況で寝ていたら、そう思うと胸が張り裂けそうだ。
もちろん俺が見ようが見まいが現実は変わらない。変わらないのは分かっているけれど、目を背けたかった。
行ったり来たり、止まったりを繰り返し、一時間以上かけてようやく病室の前まで辿り着いた。
『佐々木牧子』
病室に書かれた名前を見るだけで目眩が起きそうだった。
透子はここがどこなのか、何が起こっているのか、なんでパパが泣いているのかも分からず、はじめて見る景色に視線を巡らせていた。
意を決してドアをスライドさせる。
牧子はベッドの上で身を起こし、窓の外を眺めていた。
いつもと変わらない撫で肩、パジャマの上に羽織ったカーディガン、ふんわりと付いた寝癖。
そして視線は遠くを見詰めていた。何かを覚悟した顔にさえ見え、俺はきゅっと胸が締め付けられる。
「牧子……」
俺の呟きで牧子は振り返る。そしてすぐにいつもと同じ優しい顔で笑った。
「透馬……透子も来てくれたんだ……」
まるで長い冬眠から目覚めた生き物のように、間延びした弱々しい笑顔だった。
「馬鹿だな、牧子」
俺はいつも通りの口調で喋ったつもりだった。でもいつもどんな風に牧子と喋っていたのか、装おうとすると分からなくなる。
「お前過労で倒れたんだよ。ったく……頑張りすぎだ。まあ二三日寝てれりゃ治るよ」
なるべく顔は見せないようにそっぽを向き、鞄を開けて着替えの用意をする。
「そう……よかった…………ありがとう。ごめんね…………透馬」
牧子はぷつぷつと途切れ途切れに答えた。『ごめんね』という言葉だけ強く発音していたように聞こえたのは、俺の思い過ごしかもしれない。
「まあ、これからは俺が家事とか透子のこととかするから、牧子はっ……」
突然溢れた涙で言葉が喉で詰まって声が出なくなった。
慌てて背中を向けて動揺を隠すのに何の意味があるのか、俺自身分からない。
「ありがとう。透馬……嬉しいよ……じゃあいっぱい教えないとっ! 私が楽させてもらえるようにっ……私がなぁんにもしなくても透馬に全部してもらえるように」
牧子の声も震えていた。
「調子に乗んなっ……牧子が元気になるまでだ。元気になったら家事なんて一切してやらねーしっ……副委員長の仕事をしなかった時みたいにな」
「懐かしいね……そんなこともあったなぁ……じゃあ早く元気にならないとね」
「当たり前だ……」
俺は袖で目を拭い、牧子を見た。
牧子は目を真っ赤にして笑っている。
「早くよくなれよ、牧子」
「うん、わかった……」
肩を抱き締めて、祈るように呟く。
俺たちは死ぬ間際の別れを言っているようだった。逃れようのない暗雲が、俺たちを飲み込んでいた。
その時、俺の胸の中にいた透子が激しく泣き出した。抱っこしたまま抱き合うから挟まれた感じになって驚いたのだろう。
「わっ!? ごめんっ!」
「ほら泣かないの。透子、ママのところへおいで」
そのハプニングでなんとかいつものような空気に戻れた。透子がはじめて親孝行をした瞬間だ。
体調が安定していて手の施しようのない病なら入院している意味はない。
俺は牧子を家に連れて帰った。
「ただいまー」
ドアを開けると俺たちの家の匂いがした。家にいると気付かないけど、外から帰ってくると玄関で感じる香りだ。別に芳しいものではないのに、なぜか心が安らぐ不思議な匂いだ。
「病み上がりなんだからあんまりはしゃぐなよ?」
俺たちは自然と玄関に飾られている写真に目がいっていた。
「今年も、撮ろうね……写真」
「当たり前だ。今年は牧子も仲間入りだからな。その次の年は牧子の弟、そのまた次の年は更に下の子が増えるからな」
「えー? 私そんなに毎年産めないよ!」
困ったように笑う、その顔が好きだ。だから俺はお前を困らせてやるんだ。これからも、もっともっと。
「ちょっと、これ何っ!?」
リビングに入った牧子は悲鳴を上げる。昨日の服を脱ぎ散らかし、粉ミルクは缶が倒れて溢れていた。お尻ふきウエットタオルも開けたままだ。
さっそく困らせたわけだが、牧子は笑っていなかった。
「あ、いや……ほら、お前が病院に行って気が動転してたから」
「っもう! パパは散らかし屋さんですねー、透子」
ブツブツ文句を言いながら牧子は片付けはじめる。
「俺がするからいいって。座っておけよ」
牧子に心配をかけてくなくて、俺は慌てて片付ける。
でも俺が片付けをして掃除機をかけてる間に、牧子は洗濯をはじめてしまう。本当にジッとしておけない奴だ。苦笑いしながら働き者の牧子を見詰めていた。