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 アパートのドアを開ける前から透子が盛大に泣く声が聞こえていた。しかしなぜか牧子があやす声は聞こえない。

 俺は少し訝しみながら鍵を開け家に入る。


「ただいまぁ」


 いつもなら忠犬のように駆け寄ってくる牧子の足音が聞こえない。


「牧子ぉー……おーい……」


 リビングに入ると、牧子が倒れていた。


「えっ……」


 心臓がどくんっと大きく鳴る。

 鞄を放り投げて慌てて牧子に駆けよった。牧子は夜中でも透子が泣いたらすぐに目覚める。直観で寝ているとは思えなかった。


「おい、牧子っ!? 牧子っ!! どうした!? おいっ!?」


 取り乱し、大声を上げ、軽く牧子の頬を叩くが、まるで反応はなかった。

 慌てて救急車を呼ぶ。

 到着までの間、牧子に呼び掛けたり、透子を抱いたり、ほんの数分が果てしなく長く感じた。


 何がどうなっているのか、全く分からない。パニックと放心が物凄い勢いで入れ替わり立ち替わり訪れ、頭が変になりそうだった。とにかく早く、救急車が来ることを祈っていた。

 駆けつけた救急隊員に担架で運ばれ、俺と牧子も救急車乗る。


「聞こえますかっ!? 聞こえますかっ!?」


 救急隊員は牧子にマスク酸素を着け、呼び掛けていた。

 まるで現実感をなくしたその風景を呆然と見詰め、泣きじゃくる透子を抱いていた。俺は、震えていた。気付いたら、ずっと震えていた。


 窓の外の真っ暗な田舎道がパトライトで赤く光る。

 騒がしいサイレンの音が俺の鼓動をどんどん速めていった。


(やめてくれっ……なんだよ、これっ……今すぐやめてくれっ!!)


 病院に着くと牧子はそのままストレッチャーに乗せられて連れて行かれる。俺は脚が縺れて上手く走れず、着いていけなかった。

 透子を抱っこしたまま、自動販売機の明かりだけが眩しい待合ロビーのようなところで惚けていた。


「いったい……何が、どうなってるんだよ、これ……」


 泣き疲れたのか、透子はいつの間にか俺の腕の中で眠っていた。

 いつから透子を抱いていたのかも記憶が定かではない。同じ姿勢で抱いていたのと、力が変に入っていたので、腕がズキンと痛いことに今さら気付いた。


「牧子……そうだ、牧子は……」


 立ち上がって探そうとしたが、脚が震えて動かない。

 それに探して見つけたら、何かものすごく嫌なことが起きそうな気がしてならなかった。


 治療室に行ったのか、精密検査を受けているのか、それとも既に何か手術をしているのか……

 誰も俺を呼びに来ないまま、何時間も過ぎていた。


 一体病院の奴らは何をしてるんだ?

 牧子は、きっと過労で倒れただけだ。そうだ。そうに違いない。

 あいつは馬鹿だからすぐに無理をする。出産後の体力がないときに無理したから、それが祟っただけなんだ。

 そうに決まっている。

 人に無理するなとか言っておいて、自分が過労で倒れるんだから世話ない。

 帰ったらこないだ俺が働き過ぎで叱られた時の仕返しで叱ってやろう。

 俺の鬼畜な言葉責めを受ければあいつも反省するだろう。


 まあ、これからは俺が家事を手伝ってやる。

 また過労で倒れられても困るからな。



 やがて年配の看護師さんがパタパタと音を立てて小走りでやって来た。


「あ、佐々木さん、こちらにいらっしゃったのですね。どうぞこちらへ」

「え、あ、あのっ……牧子は? 赤ん坊もいますのでもう帰りますから、牧子も、妻も連れて来て下さいっ……」

「詳しいことはドクターがご説明しますので」


 人の生き死にに慣れすぎたベテラン看護師の落ち着きは、悪気はないんだろうけど、なんだかやたら無機質な冷たさを感じた。


 暗い廊下を歩いた先にある部屋に通される。

 やたら明るい部屋は冷たくて寂しい白い光で眩しかった。


 健康だけが取り柄な俺はドラマでしか見たことのない光景だ。光る壁のようなところに断面写真が並べられており、その前で医者は静かに座っていた。


「あ、あのっ、妻はっ……牧子は一体っ!!」


 敵愾心むき出しで医者ににじり寄った。そんなへんてこな写真を使って説明なんてされたくなかった。

 きっと医療費を少しでも多くぶんどるために、いらないスキャン撮影をしたに違いない。


「佐々木さん。落ち着いて。とりあえずおかけになって下さい」


 座って話す必要なんてない。

 俺や牧子はこんな病院にも、こんな医者にも用はないからだ。


「座らなくていいですよ、先生。牧子は過労で倒れただけなんスから。連れて帰りますんで。ご迷惑おかけしました」

「ご主人、お気持ちは分かりますが……」


 そう言って椅子に促してきやがる。

 何が『お気持ちは分かります』だ! 

 全く俺の『お気持ち』などまるで察してない面倒臭そうな口調で偉そうにっ!


 俺が座らないと、諦めたのか医者は何かの断面写真に指し棒を当てて説明をはじめやがった。


「奥さんの脳腫瘍がかなり進行してきました」

「は? ノウシュヨウ?」


 聞こえているのに頭には何も伝わってこない。


「の、脳腫瘍って……なんですか?」

「えっ……!?」


 今度は医者が驚く番だった。

 夫である俺が妻の病を全く知らなかったことに。


 それから先の、このヤブ医者の話はほとんど耳に入ってこなかった。いや、意識的に聞いていなかった。


 どうやら牧子は俺と出会う前の中学生の頃から脳に腫瘍があったらしいこと、それが進行してしまったこと、そして完全に摘出してしまえない臓器のためにここまで進行したら手の打ちようがないことを説明した。


 このヤブ医者が話せば話すほど牧子の容態が悪くなるような気がしてならない。


「黙れっ! 黙れ黙れ黙れっ! ふざけるな! 黙れよ! そんなわけねぇだろう!」


 俺が怒鳴り散らすと寝ていた透子が驚いて起きてしまい、泣き喚く。


「勝手に牧子を殺すな! そんな変な病気のわけねぇだろ! 今までずーっと元気だったんだ!」

「落ち着いて下さい、佐々木さん」


 俺が興奮してるからか、看護師は慌てて俺から透子を受け取った。医者や看護師は平然として『たまにいるんだよな、こういう受け入れられない人』的な感じを漂わせていた。


「じゃあいいよ! そのノーシュヨーって病気で! だったら先生が直してくれよ! 頼むよ!」

「ですから既に手術は施しようもなくて、あとは放射線治療とかで延命──」

「頼むよっ! 先生は頭いいんだろう!? 立派な大学出て、お医者さんになったんだろっ!? なんとかしてくれよ! 頼むっ! この通りだから!!」


 俺はその場にしゃがみ、膝をつき、頭を床に押し当てて叫んだ。


「頼むからっ! 直してやってくれ! お願いだからっ! 牧子を殺さないでやってくれよ! 俺のどの部分切って移植してもいいからっ! 現代医学は発展してんだろ! テレビで言ってたぞ、ガンも治せるって! 俺が馬鹿だから、中卒だから知らないとでも思ってんのかよ!」

「佐々木さん……」


 医者も椅子を降りて屈む。


「牧子はっ……牧子はこんなところで死ぬ奴じゃねーんだよ! 頼むよ……先生……お願いだよ……金はっ……お金はなんとかします! 貧乏だけど必死で稼ぐからっ! 取り敢えず今はあんまないけどっ」


 俺は震える手で財布を取り出す。たった六千円しか入っていなかった。悔しさと情けなさを卑屈に歪んだ笑顔に変えて、本当はもっとお金はあるんだという顔をして、握り締めた六千円を医者に突き出す。


「お願いしますっ! 家に帰ればもっとお金はありますからっ!」


 医者は頭を下げてはした金を握り締めた俺の拳を押し返す。


「佐々木さん、すいません。我々もやれるだけのことはやります。でも奥さんは持ってあと半年かと思います」


 半年……六カ月……

 嘘だろ……

 そんなの絶対に嘘だっ……


「ふざけるな。こんなヤブ病院信じられるかっ! セ、セセセカンドオピなんとかだ! 違う病院に行くから牧子を連れて来い!」


 暴れる俺は看護師や警備員に取り抑えられた。

 こんな奴らなんて余裕で殴り倒せるけど、透子の前だ。勘弁してやる。


「離せよ」


 振り払い、透子を連れて部屋を出た。

 牧子の病室には、すぐには行けなかった。

 また待合ロビーに戻り、椅子に座る。

 手の中にあるぐしゃぐしゃの千円札六枚を床に叩きつけようと思い、やめた。


 死にたい。

 牧子の死に際を見るくらいなら、先に死んでしまいたかった。

 何にも出来ない自分が、悔しかった。


 なんで牧子が死ななきゃなんねーんだよ……

 あいつ、何にも悪いことしてねーだろ!

 あんなに真面目に生きてきたじゃねぇか!

 どちらかと言わなくても、死ぬなら俺の方だろうっ? 

 牧子に迷惑ばかりかけて、心配ばかりかけて……挙げ句の果てに一人娘を攫うように駆け落ちまでして……

 何かの間違いだっ!

 最近働き過ぎでフラフラするとか、死亡フラグも立ちまくってたじゃねぇか!

 俺にしてくれ!

 頼むから、殺すなら俺にしてくれよ、神様!


「嘘だ……牧子が死ぬなんて……そんなの嘘に決まってる……絶対嘘だよな、透子……」


 何がどうなってるのか、透子に分かるはずもないが、何か大変なことになってるのくらいは分かってくれているのかもしれない。

 俺の涙の滴が透子に落ち、ジッと俺のことを見詰めてくる。


「透子……」


 そうだ。俺は透子を守ると決めたんだ。

 俺が死ぬとか、あり得ない。何言ってんだよ、俺は。

 牧子とも約束したんだ。

 俺が、この子だけは守らなくちゃいけないんだ。


「大丈夫だ、透子。きっと助かる方法もある。何かの間違いって可能性だってあるし。パパに任せておけ」


 一応顔は洗ったが、晴れて真っ赤な目は隠しようもない。


(まあ、あんまりにも長いから寝ていたってことにするか)


 俺は鏡の前で笑う練習をしてから牧子の病室へ向かう。しかし俺のそんなつまらない言い訳も演技練習も、特に必要なかった。

 牧子はチューブを繋がれ、酸素マスクを着けられて眠っていた。


 痛々しい姿を見るとまた涙が溢れてきた。


「牧子……」


 もう二度とこのまま目を醒まさないなんて、そんなことないよな?

 手を握ると牧子は確かに生きている温かさがあった。

 その手を握り、俺は泣いた。声を圧し殺して泣いていた。


 牧子が死ぬなんて信じられるはずがない。

 俺と一緒に生きていくって約束したんだ。

 真面目な牧子が約束を破るなんてあるはずがない。



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