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墓守と天使

作者: 空束 縋





 とある春の朝のことです。

 濃い霧に包まれ、ひんやりとした空気の中、この日も青年は古い小屋のような家を出て、隣の納屋へ向かいます。

 ぼろぼろの木戸を開けば、ランタンや外套、スコップや作りかけの柵などが無造作に放られてありますが、彼はその中から、迷うことなくクロスボウを手に取ったのでありました。


 青年の家の前は広いお墓になっています。と、云うよりも、彼の家は墓地の中にあるのです。

 十字架の形をした墓石の間を通り抜け、墓地の一番奥にある、柵の扉の付いた小さな建物の前に立った青年は、鋭い瞳で暗い空を睨み付けました。

 青年の視線の先、黒く厚い雲の掛かった空からは、彼の背後にある建物へ向かって真っ直ぐに、雲の間からとてもとても美しい光が一筋注ぎ、その光の中を、何やら幾つかの影がふわふわと漂っているのでありました。

 矢を引いてクロスボウを構えた青年は、その狙いを影の一つへ絞りました。影のふわふわとした動きに合わせ、矢先をゆっくり踊らせて、その動きの緩む瞬間を見逃さず、素早く射るのです。

 矢は一直線に飛んで行き、影に深々と突き刺さりました。ふわふわと飛んでいたものはくるくると回って墜ちて行きます。

 周りの影たちは、動揺しているのか動きが大きく乱れ出しました。青年はそれを冷たい瞳で一瞥すると、また矢を引いて、次の影を撃ち抜きます。影たちが避けようと動き回るのも、彼には効果が無いようでありました。

 残った三つの影は、空から段々と地面に近付いておりました。元々、ゆっくりと降りてきていたのでしょう。一つの大きな影と、それを守るように二つの影が、青年と対峙しています。

 ふと、大きな影が周りの影を遠ざけたかと思うと、大きな動きを見せました。一瞬、その影の面積が小さくなったように見え、途端に青年へ向かって突風が吹き付けたのです。あと少し姿勢を高くしていたら、背後の建物に叩き付けられていたかもしれません。

 足にぐっと力を込めて踏み留まった青年は、風が止む瞬間に矢を引いて、とてつもない早さで二つの影を射落としてしまいました。残るは一つ、大きな影のみです。

 大きな影は、先程よりも大きな動きで突風を起こす素振りを見せましたが、青年が矢を放つ方がずっとずっと先でした。貫かれた影は、ぐらぐらと動き回って尚も進もうと藻掻いているようでしたが、青年が更に矢を撃ち込むと、彼の数歩先の地面へと落下しました。


 全ての影を撃ち落とした青年は、クロスボウを肩に担ぎ、落下した影のもとへ歩み寄ります。

 地面の上で苦しそうに喘いでいるのは、美しい絹の衣を纏い、背中から大きな白く輝く翼を生やした女性、天使でありました。

 輝く金の髪を乱し、翼には矢に貫かれた穴が開き、羽が辺りに抜け散らばり、腹部には矢が刺さっていて、鉄で出来た(やじり)に接している部分からじゅわじゅわと肉の焼ける音と、焦げる匂いとが立ち上り、辺りに充満しておりました。

 蹲った天使は苦しそうに顔を上げ、青年に悲しそうな表情を向けると、掠れた小さな声で諭します。

「…汝、神々の意志に、背こうと…云うのですか」

 青年はその問いに答える代わりにクロスボウを構え、表情を崩すことなく天使の喉元に矢を放ちました。悲しそうな表情のまま動くことのなくなった天使の体を引き摺って、小さな建物の横に掘られた穴に投げ込むと、空から注いでいた光が消え、青年はほっと胸を撫で下ろすのでありました。


 小さな建物の入口の横にそっとクロスボウを立て掛けた青年は、ランタンに火を入れると、柵の扉を開きます。その先は、地面に穴が開いており、石の階段が地下へと続いておりました。

 ランタンの灯りを頼りに地下へと降りて行くと、少し広い空間に着きました。壁に備え付けられている松明に灯りを移すと、壁に埋められた沢山の人骨が現れました。この地下は、昔に作られた共同墓地、カタコンベなのです。

 青年は慣れた足取りで人骨の中を進み、小さな通路を進んで行きました。通路にも、沢山の人の骸が積まれて青年を見送っています。

 通路の先には、小さな小さな祭壇があり、古びてはいるものの美しい十字架と、少しの飾りが施された燭台が置かれておりました。

 しかし、特に目を惹くのは、その手前にある棺です。金の装飾や散りばめられた宝石の輝く、硝子で作られた棺の中には、美しい少女が横たわっているのでありました。彼女に血の気は無く、その命の灯が尽きていることはわかるのですが、体は生きていた時の美しい姿のままで、もしかすると目を開ける時が来るのではないかと思える程でした。

 青年は棺に触れて、静かに涙を流します。

「アメリー…」

 名前を呼んでも、彼女が目を覚ますことはありません。それでも、天使達に連れ去られ、この棺から居なくなってしまうより、寂しさが和らぐように思えるのでした。



 物心のついた頃から、青年は墓地の片隅にある小屋のような家で母と暮らしておりました。

 墓守をしていた母は病に冒され床に臥せていることが多く、そんな母を助けたいと幼い内から仕事や家事を引き受けていたのでした。

 父親はおらず、その理由も知ることはありませんでしたが、居ないことが当たり前であった彼は、他の家庭に父親という存在があることですら、最近になるまで知らないままでありました。

 学校へは通っておりませんでしたが、母の調子の良い時には、墓石に刻まれた名前が読めるよう、文字の読み書きを教わったり、毎月の給金を渡しに来る役人に数を誤魔化されないよう、一通りの計算を教わっていたので、困ることはありませんでした。

 しかし、彼が十三歳になった頃、母の病はどんどんと進行し、ある冬の夜、とうとう息を引き取ったのでありました。

 母の墓を墓地の一番陽の当たる場所に建て、一人になった彼は尚も墓地を出ることはせず、毎日墓石と語らい、母の遺した鎮魂歌(レクイエム)を唄って過ごしました。とても質素な暮らしではありましたが、彼の日々は平穏への祈りと、死者への慈しみとで、優しく、穏やかに流れて行きました。


 母が亡くなってから二度目の冬のことです。

 いつものように仕事をしていた十五歳の少年は、木の影で佇む一人の少女と出会いました。また一つお墓が増えると知らせを受けていた彼は、少女が喪服を着ているのを見て、葬式の参列者なのだとわかりました。

 薄暗い雪空を眺めていた少女は、少年に気付くと首を傾げて、寂しそうに微笑みます。

「あなたは、墓守さん?」

 あまり話し掛けられることのない少年は、少し身構えながらも頷きました。

「ああ。そうだよ」

「あなたのこと、お話は聞いたことがあるの。私と年があまり変わらないのに、ずっとお仕事をしてるんでしょう。一人でお墓にいるなんて、寂しくない?」

 ずっと墓地で暮らしてきた少年には、彼女の尋ねる意味があまりわかりませんでした。一人で居るのは、母と暮らしていた時よりずっと寂しく感じますが、それは何処に居ようとも同じであって、墓地に居るからではないと思ったのです。

「どこに居たって、僕は一人だ」

「…ごめんなさい。バカな質問だった」

 悲しそうな表情で謝る少女に、少年は困惑しました。一人であることは変えようのない事実で、彼女に責任がある訳ではありません。謝ることなど無いのだと伝えたくとも何と言って良いかわからず、ただ空気を飲み込むしか出来ませんでした。

 会話というものがこんなにも難しいのかと途方に暮れた少年は、沈黙に耐えられずその場を離れようとしましたが、少女が地面を見詰めたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出しました。

「弟の、お葬式なの。胸に病気があったらしくて…。何故だか私、ちっとも涙が出ないんだ。弟のことは、とっても愛していたのに。ひどいよね…変だよね」

 少年は抱えていた剪定用の大きな鋏を木に立て掛け、少女の横へ並びます。

「…僕は、変では無いと思う」

 彼女の瞳を見詰めながら、優しかった母のことを思い浮かべました。

「僕もそうだった。母さんが死んだ時…目を開けてくれなくなって、どんどん冷たくなっていった。気付いた時には家に多くの大人が居て、僕が知らせに行ったことを褒めてくれて、葬式の話を進めていて。内容なんて覚えてない。知らせに行ったことも。ただ、言われたことに頷いてた。そして気付いたら葬式も終わって。僕はずっと、立ち尽くしてただけだった。泣いたのは、その次の日だ。母さんが居なくなってからはじめての日常。いつもと同じ仕事をいつもと同じだけやった。帰ったら、全然いつもと違うんだ」

 いつも通りに帰ったはずが、家の扉を開けた瞬間に現れたのは、真っ暗で、以前より何倍も広く寒々しい、何もない闇でありました。戸口に立ち尽くした少年の目から自然と涙が溢れて止まらなくなったのは、丁度この日のような天気だったと思い出しました。

「君は、変じゃない。ただ、まだ悲しみに心が追いつけていないだけだ」

 語り終えた少年は、雪空から視線を少女に移し、狼狽えました。彼女の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちていたのです。

「うん…うん。ありがとう」

「いや、あの、今悲しくなった?それとも、僕が気付かないまま酷いことでも言っていたんだろうか」

 ハンカチを差し出しておろおろしている少年に、少女は可笑しくなって吹き出しました。

「あなたは、優しいね。泣いてる人なんて見慣れていると思った」

「葬儀に来ている人と関わることはあまり無いんだ。泣いている人なんて、見たことないよ。母さんの葬式でも誰も泣いていなかった」

「またそうやって、悲しいことを平気で言う」

 この日から少女アメリーは、毎日のように弟のお墓参りの後、少年を訪ねてくるようになったのでありました。


 出会って三年が過ぎた頃、アメリーの体にも、病が潜んでいることがわかりました。彼女を愛していた青年は、自分に会いに来ることを控えさせ、少しでも体が良くなるように様々な方法を調べました。

 高価な薬や滋養に良い食べ物を届けたり、本や物語を聞かせたり、仕事以外の時間はアメリーと過ごしました。

 それでも彼女の命の灯は、静かにゆっくりと、消えていったのです。

 深い悲しみに暮れた青年は、彼女の墓を建てることはせず、これまでに使うことなく貯まっていた給金を全て使い、硝子の棺を作りました。更に街の科学者に彼女の体を預け、年月を経ても朽ちない術を施したのでありました。

 棺をカタコンベの中の小さな祭壇の前に運び、そこにアメリーを寝かせると、まるで天使が眠っているかのようで、青年は何時間も彼女を見詰めて涙を流しました。


 その次の日です。彼女の元へ行こうと地下墓地へ向かっていた青年は、その前に不審な影を見付けました。

 人のようではありますが、何やら大きな荷物を背負って柵の扉の前に佇んでいます。

「そんな荷物で、墓地に何の用がある」

 カタコンベの装飾品や遺物を盗みに来たのだと思い、彼は駆け寄りながら、強い口調で尋ねます。

 振り向いた人物を見て、青年は目を疑いました。

 荷物だと思っていた背中のものは、白く大きな翼でありました。着ているのは、絹を肩から斜めに掛けたようなものを腰の辺りで紐で結んだ衣。教会の絵画で見たものがそのまま現れたような天使の姿があったのです。

「ああ、助かった。汝、この鉄の扉を開いてもらえるだろうか。我らは鉄に触れられない」

 青年と変わらない若さの男性である天使は、にこやかに柵の扉を指差しました。

 天使を見詰めたまま少しの間固まっていた青年は、はっとして構えます。

「この先に、どんな用が…?」

「奥で眠る娘を迎えに来たのだ。天界で彼女を待つ御方が居られる」

 青年は耳を疑いました。

 カタコンベの中には、生きて眠っている者など居りはしません。この天使は、アメリーを天界へ連れに来たと言うのです。

「アメリーの魂は、天界に居るんじゃないのか?」

「勿論、天界に有る。彼女の清く美しい魂を御覧になった一柱の神が、彼女の体をも天界へ招こうとなされているのだ。汝のお陰で、娘は天使になれるのだぞ」

 誇らしげな天使とは反対に、青年は表情を曇らせ、扉の前に立ち塞がりました。

「…彼女は渡さない。引き返せ」

 思いも寄らない青年の態度に、天使は目を丸くして驚きました。

「何を言っている?神の意志だぞ。汝に断る権利があるか」

「例えあんたが天使だろうと、神の命令だろうと関係ない。権利なんて知ったことか」

 諭して尚も変わらない青年の拒絶に、天使は眉を寄せます。

 そのまま飛び立つかと思いきや、彼に背を向けて歩き出しました。

「汝と話しても時間の無駄と考える。扉を開けられる人間は他にも居るだろう。神でない者の言葉には従えぬのだ」

 青年は体がかっと熱くなるのを感じました。どうあってもアメリーを奪おうとする天使に向けた敵意が、彼の意識を蝕んでいきます。

 気付けば斧を手に、駆け出しておりました。

「帰らないなら…還してやる…!」

 夢中で振り抜いたボロ斧は、一瞬にして天使の頭と体を離してしまいました。体は地面へ、頭は空へと向かいます。

 ぼそっと頭の落下する音で、青年は自分のしたことを認識しました。手にはじわりと、肉や骨や血管を引き裂いた感触が広がっています。その手をぐっと握り締め、強く唇を噛み、自分の精神と犯した罪を、しっかりと胸に留めました。

 天使であったふたつの塊を拾い上げた彼は、アメリーが好きであった林檎の木を植えようと掘った穴に、それらを投げ込みました。とてつもなく大きな罪を背負ったものの、彼女を守ることが出来たという喜びが、彼の中に甘く巡って行きました。


 天使を殺めた次の日、彼は空を見て表情を曇らせました。

 カタコンベへ向けて光が射し、その中を昨日とは別の天使が降りてきているのです。青年は斧を手に天使を待ち構え、地面に降りきらない内に斬り殺してしまいました。

 ですがその次の日も、前日、前々日と同じ時間になると神聖な光が射し始めます。人数も、青年と変わらないか歳上くらいの見た目の天使と、子供の見た目をした付人のような天使の二人に増えておりました。彼は鉄の鎖で天使達を絡め捕り、肌の焼ける痛みに苦しむところへ斬り掛かったのでした。

 それからも、毎日同じ時間になると天使達の道が開き、彼はそれを断ち切っています。天使狩りは、すっかり彼の日常となったのでありました。




 ─一方こちらは、天界の、大きな都です。

 神々は気儘なもので、天界、下界、冥界の好ましい場所で、在りたいように在るのです。

 この日、大きな都の立派な宮殿で、様々なものを統べることを好む神々が、円卓会議を開いておりました。

「これまでに、このようなことがあっただろうか」

 一柱の神が、重々しく口を開きました。円卓の周りに立っている天使達がそわそわと落ち着かない様子でそれを見詰めます。

「私は、アメリーという人間の娘の体を下界より連れて来いと命じた。…一月ほど前にな。天使が我ら神の命を未だ遂行し得ない理由が、何かあるのか」

「人間を連れて来るなど馬鹿らしいと理解しているんじゃないのか、空の神よ」

「ふざけている場合では無いぞ星の神。天使達が理解して尚そのように行動しているのであれば問題ではないか」

「そもそも空の神は人間の娘など迎えてどうしようと云うのだ」

「それもそうだぞ、己の都合だけで天使を何人も遣いに出すのは如何なものだろう」

「議題を変えないで頂きたいのだが」

「それで、誰が何を答えたら良いんだ」

 神々には優劣など無く、治める者はおりません。その為いつも会議は気儘なもので、喋りたい者が喋りたいことを喋りたいだけ喋ります。

 これでは会議になどならないようにも思えますが、声に声が重なりざわめく会議室に、コンコンと机を叩く音が響き渡りました。

「神々よ、まずは一つずつ考えよう。何故、天使達が命を遂行し得ないか、これは天使に訊くが早い。何の為に呼んであるのか」

 場を鎮めたのは、言葉の神です。

 この神の言の葉は、流石に他の神々にまで深く響きました。更にその両隣では、音の神と知識の神が深く頷いています。音の神は、会議中の神々による遠慮のない声の波が苦手であり、知識の神は、質問の答えや良案が浮かんでも、それを言葉にすることが苦手でありました。その為いつも、言葉の神にそれぞれ力を貸して会議を進行しているのです。

「ふ、ふむ。…金天使トゥルエルよ、私の命を成し得ない理由が、説明出来るか」

 空の神は居住まいを正し、円卓を囲う天使達の中で一番階級の高い天使に問いました。

 この世界の天使達にも九つの位階があり、下位天使は下界や冥界で使役され、中位天使は天界や冥界の役職に就き、上位天使は下位、中位の天使達を束ねたり、神々の側仕えをしています。

 中位上級の金天使(きんてんし)トゥルエルは一歩踏み出しましたが、困惑した様子で眉を下げます。

「は。実は、命を承けた直後に使いは出したのですが、戻って参りませんでした。それだけでなく、一月ばかり、毎朝使いを送っても一向に戻る気配が無いのです。今朝には、白天使(はくてんし)を送りましたが…」

 答えを聞いた神々は眉をひそめます。下界へ人間の迎えに送るのは、通常下位天使で済むはずです。それが、中位天使を送っても遂行の報告が無いと言うのです。

「戻らない…とは、天使達が下界に住み着いているとでも?」

「…わかりません」

 空の神の問いに、金天使は肩を落としました。

 神々は腕を組み、顎に手を当てて唸ります。


 少しの沈黙の後、あることを思い付いた知識の神が、言葉の神の肩を叩きます。言葉の神が音の神の肩を叩き、二柱の神が言葉の神に力を貸しました。

「聞いてくれ給え神々よ」

 言葉の神は小さく手を挙げて語り掛けます。その声は、音の神の力で響き易くなっておりました。

「天界の端には、いつも下界を眺めている神が居る。もしや、何か知っているのではないだろうか」

「おお、そうか。善悪の神が居たな」

 空の神は手を打って頷くと、すぐさま金天使に向き直りました。

「急いで向かおう金天使よ。私も同行しよう」

 宮殿の神々は天使を通じて仕事を進め、自らは不動を望むことが多いのですが、空の神はそれどころではないようです。

「僕らは留まるが、金天使の聞いた声を、こちらにも届くようにしておこう」

 音の神が右手を振り、金天使に力を掛けました。

 それが済むと同時に、空の神は金天使を引き摺るように連れて宮殿を出たのでありました。



 都を出て真っ白な天界を進んで行くと、雲の切れ間に辿り着きます。翼が無ければ下界へ真っ逆さまの危ない場所に、小さな家が建っておりました。

 空の神が扉をノックして開きます。中はたくさんの書物で溢れ返り、誰かが居るような気配はありません。

「留守でしょうか?」

「出掛けるところなど見たことが無いが…善悪の神よ!」

 大きな声で呼び掛けると、どこかから、小さな返事が聞こえます。耳を澄ませまると、どうやら家の裏から聞こえてくるようでした。

 返事を頼りに裏へ回ると、雲の切れ間に腰を掛け、大きな書物に何やら書き込んでいる男性がおりました。

「ここに居たか、善悪の神よ」

「何だ?何の用だ?」

 善悪の神は振り返ることなく問い掛け、またペンを走らせます。それが普通であるらしく、空の神は構わず善悪の神に歩み寄りました。

「ここ一月ほど、下界で異変は無いだろうか?」

「俺は下界なぞ見ちゃいない」

 夢中でペンを走らせながら、善悪の神は時折下界を眺めます。

 金天使は不思議そうに首を傾げましたが、空の神は困った表情で腕を組んで唸りました。

「…実は下界へ向かった天使達が戻って来ないのだ。何か手掛かりだけでも有ればと思ったのだが」

 落胆した空の神の言葉に、善悪の神は「ああ」と声を上げました。

「天使達なら人間に殺されているぞ」

 ぽかんと口を開けた空の神と金天使は、互いに顔を見合わせました。神は嘘など吐かないので、聞いた言葉が間違いではないかと思ったのです。

「…今、何と?」

「だから、下界に降りた天使は墓守の人間の男に殺されたんだと言っているんだ」

「な、何故もっと早くに報告しないのだ!」

 視線だけを向け、「あのなぁ」と呟きながら善悪の神が大きく息を漏らします。

「俺が人間の善行悪行を記録してるのは、そうしたいからだ。弟が俺の記録を使ってるのは、貸してくれと頼んできたからだ。報告の義務なんて無い」

 弟というのは、冥界の罪量りの神のことです。罪量りの神は魂の罪の重さを量り、その行き先を決める仕事をしています。

 兄弟であるから分担して仕事をしているのだと思い込んでいた空の神は、善悪の神の言葉に言い返すことはありません。神々は皆自由に暮らしているので、誰かの行いを悪く言うことなど無いのです。

「確かに、この者はあまりに殺し過ぎている。ここまでの罪を一人で背負うとは、俺も驚いてるよ」

「そうだな…情報を、ありがとう」

 空の神と金天使は、青褪めた顔で雲の切れ間を後にしました。


 宮殿に戻ると、金天使を通じて話を聞いていた神々が沈んだ表情で待ち構えておりました。空の神が席に着いても、誰も口を開きません。

 空の神は円卓の神々を見回すと、大きく息を吸い込みました。

「…聞いていたとは思うが、天使達は、下界で人間に殺められたのだそうだ」

 円卓の周りからは、天使達の嗚咽が聞こえてきます。

 神々も金天使も、遣る瀬ない気持ちに一層肩を落としました。

「金天使よ、一体、どれだけの天使が下界へ降りたのだ」

 風の神が問うと、金天使は一歩進み出て、一度苦しそうに目を伏せてから答えます。

「はい、命を承けてより今日までの三十六日で、子天使(してんし)が五十九、中天使(ちゅうてんし)が二十九、高天使(こうてんし)が六、白天使が一…合計九十五の天使が下界へ降りています」

 神々の間にどよめきが広がります。数にして聞くと、犠牲の多さはあまりに衝撃的でありました。

 何よりも、それだけの数を殺めたのが一人の人間だと云うのです。嘘は吐かない神々ですが、これだけは嘘であればと思わずにいられませんでした。

「…私は、娘の魂の清らかさは上位天使にも値すると考えた。この者こそ、神の仕えに相応しいと…。それが、こんな」

 空の神は頭を抱えて呻きます。

 ただ、天使を一人遣いに出し、娘の体を天界に迎え、その背中に上位天使の証である、七色の光に包まれた白い翼を付けたら済むだけのはずであったのです。

「どうするのだ、空の神よ。これ以上の深追いは同意しかねるが」

 星の神の言葉に、空の神はゆっくりと顔を上げました。

「しかし…ここで手を引いては、天使達の犠牲が全くの無駄になる。犠牲は出さず、命を成す…そんな考えを、どうか共に巡らせてはくれないだろうか」

 神々は揃って視線を反らしました。皆、同じ考えが頭を過っている様子ですが、誰もそれを口に出そうとしません。

 長い沈黙が続きましたが、とうとう風の神が机を叩きました。

「駄目だ駄目だ!いくら考えようとも、その人間を除くより良い案など浮かばない」

 他の神々も、仕方無いといった表情で頷きます。

 空の神も、その方向で話を進めようと口を開きましたが、その時、一柱の神が立ち上がりました。

「少し、少し考え直しましょう」

 そう訴えたのは、愛の女神です。とても悲しそうに、円卓の神々を見回しました。

「私達は神です。神であるのだから、天界を、冥界を、下界を、愛さなければ」

「愛は持っているつもりだが…それでは他にどうしたら良いと言うのだ」

 空の神の問いに、女神は顎に手を遣り、考える素振りを見せました。

「説得を、しましょう。迎えを目的とするのではなく、まずは諭すのです。愛を以て話し合えば、きっと理解も得られましょう」

 そう言った女神は、円卓を囲う天使達の中の一人に、何かを伝えたようでした。その天使は頷いて部屋を出て行きます。

「私の元より遣いを出します。説得に適した者を呼びました」

 少しの間を置いて、部屋の扉がノックされました。女神が入室の許可を出すと、少女の天使が顔を覗かせました。

 その天使を見た途端、空の神が息を飲みます。

「下界の娘ではないか…!」

 空の神の声に驚きつつ、天使は頭を下げました。

「中位中級、銀天使(ぎんてんし)のソーニアと申します」

 彼女に合わせ、翼を包む銀色の光が揺れ動きますが、その姿は下界で眠る少女アメリーにとても良く似ておりました。

 空の神は、彼女であれば説得も可能であるかもしれないと、期待を込めて頷きます。

「うむ、銀天使よ。どうか下界の娘を天界に迎えるよう、墓守を説得して貰いたい。頼んだぞ」

「説得…ですか。承りました」

 銀天使ソーニアは、アメリーや墓守、天使達の間の出来事を知りません。ただ、墓守が娘の死に悲しむ余り魂を送ることが出来ないでいるのだと思い、頷きました。

「墓守を刺激しない為にも、迎えの光は降ろさぬよう」

 星の神の助言にも気を留めず、銀天使ソーニアは早速アメリーの眠る下界へと向かって行ったのでした。




 ─場所は墓地へと戻ります。

 仕事を終えた墓守の青年は、墓石の間を家まで歩いておりました。

 この日は葬儀もなく、お墓の増える知らせも無いので早く終わることが出来ました。仕事道具を片付け、後の時間はアメリーと過ごそうと彼の足は早まります。

 並ぶ十字架の間から、小屋のような自分の家が見えたところで、青年はぴたりと動きを止めました。家の前に人の姿が見えたのです。

 木の陰に体を隠し、様子を伺った青年は、一度すべての荷物を置くと、その中から一つだけをしっかりと手に握りました。

 足音を立てないように気を付けながら、彼は家まで駆け出します。佇む人影、憎むべき敵である天使の背中を目掛け、手にしたボロ斧を思い切り振りかざしました。

「……えっ」

 振り下ろしたボロ斧が天使の首を刈ろうという瞬間、そこで見たその横顔に驚いた青年は、ぎりぎりのところで手を放しました。斧は鈍い音を立て地面に落ちます。

 ソーニアは振り向いたまま、目を見開いて立ち尽くしておりました。人の気配を感じたかと思うと、諭すべき相手が自分に斧を向けていたのです。傷付けられはしなかったものの、冗談であったとしても笑えるものではありません。

 どういうつもりかと問おうとした銀天使より先に言葉を発したのは、墓守の方でありました。

「…アメリー?」

 震える小さな問い掛けは、斧を振りかざしていた者のものとは思えません。

 ソーニアは首を横に振り、気を取り直して青年と向かい合いました。

「私は、銀天使のソーニア。貴方と話をするため、愛の女神より遣わされました」

 これまでの天使達は皆高圧的で彼の話に耳を傾けず、アメリーを奪おうとするだけの敵でありました。

 しかしソーニアは優しく微笑み、彼の言葉を待っています。何よりアメリーに似た面影が、彼の心を強く揺さぶりました。

「本当に、アメリーじゃないのか」

「私は天界で生まれ、天界で育っております」

 信じられない思いでしたが、確かにソーニアの髪は銀色をしていて、クリームのようなやわらかい色をしたアメリーのものとは違っています。

 動揺の治まらない青年は心を落ち着けようと、仕事道具を置いてきた木陰へと歩き出します。ソーニアはその後ろを、てくてくと追いて行きました。

「どうされたのです?」

「仕事道具が置き去りなんだ」

 他の道具を置いてまで斧で斬り掛かってきたのだとわかり、ソーニアは頬を膨らませます。

「酷いいたずらをするものです!斧で驚かそうだなんて。本当に怪我をしたらどうするつもりなんですか」

「怪我をするも何も、殺すつもりだった」

 彼の答えに驚いたソーニアは、足を止め表情をひきつらせました。

「じょ、冗談でも言っていいことと悪いことがありますよ…!」

 青年は返事もなく、どんどん離れて行ってしまいます。それが冗談でないという意味なのだと汲み取ったソーニアは、先程より彼と距離を置きながらも後を追いました。

「なぜ、殺そうとしたのですか」

 彼女の問いに、青年は一度振り向きました。その瞳の冷たさに一瞬怯んだソーニアですが、なんとか悲鳴は飲み込みます。

「…天使は、敵だ」

 気付けば、ソーニアは彼のシャツの裾を掴んでおりました。

 驚いた青年は彼女の方を振り向くと、その悲しそうな表情を見て出会った頃のアメリーを思い出しました。すぐに目を反らし、これ以上、天使と大切な人を重ねないように努めます。

「そんな、悪魔のような…。では何故、殺さなかったのです」

 答えることを躊躇い、一度唇を噛んだ青年でしたが、隠しても仕方が無いと肩を竦ませました。

「アメリーに…似ていたから」

 力の緩んだ銀天使の手からするりと抜けると、彼は木陰から仕事道具を拾い上げました。

 思い悩むように俯いて立ち尽くしていたソーニアは、戻ってきた青年と向かい合い苦しそうに顔を上げます。

「そんなに深い愛を持っているのなら…、彼女を、天界へ送ることは出来ないのですか。彼女の魂を、天界の平穏へ導いて差し上げましょう」

 悲しそうに訴える天使を見て眉をひそめた墓守は、一度目を伏せると、返事もなくその横を過ぎて行きました。

「どうして…」

「あんたは、何も聞いてないんだな」

 足を止め、振り返らないまま、彼は低く呟きます。

「アメリーの魂は、天界に居る」

 驚いたソーニアは弾かれたように振り向きました。

「そ…っ!それでは」

 それなら何故、自分は遣わされたのか。そう問おうとして、彼女は言葉を飲み込みます。先程まで少し恐ろしいとも思えた青年の背中が、とても儚く見えたのでした。


 道具を片付けて納屋を出た青年は顔をしかめました。

 外では、家の前に積まれた薪用の丸太に天使がちょこんと腰掛けています。いくらソーニアがアメリーに似ていても、彼女の居る中でカタコンベに向かおうとは思えません。

 大きく溜め息をつくと、彼は丸太へ歩み寄りました。

「彼女の魂はすぐに天界へ送った。けど、葬儀は上げずに、僕は彼女の体を科学者に預けた。彼女…アメリーは今も綺麗なまま、地下墓地で眠っている」

 何のことかと目を丸くしたソーニアでしたが、彼が現状を説明してくれているのだと分かり、嬉しくなりました。言動は素気なく、天使を敵視してはいるものの、悪い人間ではないようです。

「神が狙っているのは、その体だ。天界へ攫って天使に改造しようとしている」

 青年は忌々しそうに空を睨み付けます。ソーニアは怒りの理由が理解出来ずに首を傾げました。

「人間を天使にするなど、私も聞いたことが無いほど珍しいことです。素敵ではありませんか」

 また一つ大きな溜め息をついた青年は、丸太にどっかりと腰掛けました。

「アメリーがそれを望むなら構わない。けど、彼女は言ったんだ。すぐに生まれ変わって元気な体で会いに来るから、自分が死んでも追おうとするなって。神は願いを叶えてくれるのではないのか?神が決めたことは全て正しいと本当に言えるのか?」

 ソーニアは何と言っていいかわからず俯きます。このような人間の言葉を聞くのは初めてのことで、天界に居た時であれば神を悪く言う者は悪であると断言出来たのでしょうが、今では彼の気持ちも理解出来てしまうのでした。

「母は随分前に、病気で命を落とした。アメリーと家族になる約束をしていた。けれど彼女も病気で死んでしまった。何故、神は僕から全てを取り上げようとする。僕が何か悪いことをしたとでも言うのか。死んでしまった彼女に縋ることすら許されないのか!」

 衝撃があったので視線を向けると、彼が丸太に拳をぶつけたようでした。気にしていない様子ですが、血が滲んでいるのがわかります。しかしソーニアは何も言えず、彼の拳に手を伸ばすことも出来ません。自分ではどうすることも出来ないという事実が、彼女の体を縛り付けておりました。

「僕はあんたに何を言われても、アメリーを渡すつもりは無い。奪うと言うなら殺す。アメリーに似たあんたを殺したくはないが…」

 天使を一瞥した青年はぎょっと体を固まらせました。黙ったまま、どう言いくるめようかと悩んでいるのだと思っていたソーニアが、ぼろぼろと涙を零していたのです。

「な、何故泣くんだ。泣いたってアメリーは渡さない」

「いいえ、貴方からは何も奪えません」

 大切なものが奪われる悲しみを、ソーニアは知りません。けれどそれがとても辛いことで、心が強く痛むのだと云うことは教わっています。愛とは悲しみから救う力なのだと女神は言っておりました。

 彼は深く愛する者を奪われる恐怖から、天使に敵意を抱き、神に疑問を持っているのです。そんな彼を、愛の女神の教えを守るソーニアが責められるはずはありませんでした。

 傍らでは、そんな涙を零すソーニアを見て、青年が安心しておりました。自らの手でアメリーに似た少女を殺める必要が無くなったのです。少しだけ警戒心が解けていくのを感じながら、彼は素気なくポケットからハンカチを取り出して渡しました。

「わかってくれるなら良い。このまま、帰ってくれないか」

 涙を拭ってハンカチを握り締め、ソーニアは俯きます。これ以上の説得は出来ないものの、頷くことも出来ません。

「神の命を成さなければ、天界へ帰ることは出来ません。神への反逆、堕天の意志と見做されるのです」

 天使達にも掟があるのだと知り、青年は唇を噛みました。このまま天界へ帰す術が無いかと思考を巡らせます。

「なら…匿ってもらうのはどうだろう。僕があんたを殺しかけたという理由で、助けを待つんだ。この先に小さな古い教会がある。白猫の亡霊が喰らいに来ると噂はあるが、天使なら大丈夫だろ」

 それならと頷きかけたソーニアは、はっと気付いてふるふると首を振りました。

「確かにそれなら私は助かるかも知れません。けれど、きっと代わりの天使がやって来ますよ。何の解決にもならないじゃないですか」

「殺すから心配ない」

 言い切らない内に腕を掴まれ、青年は驚きました。

 仲間を殺すと言われて怒っているのかと思いきや、彼女は心配そうに青年の血の滲む手を見詰めています。

「貴方は簡単に言いますが、天使を殺めると云うことがどれだけの罪かわかっているのですか?もっと自分を大切にしてください。気持ちだけでなく、体も、魂も」

 彼女を見ている内に胸が締め付けられるような感覚に陥り、青年は目を伏せながら大きく息を吸い込みました。

「あんたは知らないかもしれないが、僕はもう、数え切れない程の天使を殺してる。どれだけ大きくても重くても、この罪は背負い続けるつもりだ」

「…そんな、それでは…もう」

 ソーニアは理解しました。神々が自分を遣わせた、その理由。

 このままでは、青年を除くより方法が無いのだと。説得し、折れてもらうのが、彼への最後の救いなのだと。

 涙を拭っていたハンカチをしっかりと握り、彼女は何かを決意した表情で立ち上がりました。

「私は、ここから神へ祈ります。貴方と彼女が、共に過ごせるようにと。神々であればきっと、聞き入れて下さるでしょう」

 その場で跪き、両手を組んで空を見詰めたソーニアは、太陽の光を浴びて翼を銀色に煌めかせ、風を浴びて白い衣を靡かせ、とても美しく見えました。

 青年は見惚れておりましたが、彼女にとって大切なことを思い出しました。

「それは、あんたが神に背くことになるんじゃないのか」

 振り向いた銀天使は優しく微笑み、彼が心配していることを嬉しく思いました。

「それでも、天界へ戻って話も出来ないまま捕らえられるより可能性はあります」

「…何故、そこまでしてくれる?」

 一瞬、目を見開いて驚いたような表情を見せたソーニアは、すぐにまた、明るい笑顔を浮かべます。

「私は愛の女神の眷属ですよ。この世界の全てを、愛する為に在るのです。貴方のことも、彼女のことも。だから私は、愛する貴方のその深い愛を守ります」

 銀天使は天界に向けて、墓守と娘の平穏を祈ります。

 瞬間、弾かれたように雲が散り、青い空に太陽のような眩しい光が現れました。


 現れた光は徐々に墓地へと向かって来ているようでありました。段々と眩しさを増すその光が何であるのか尋ねようとした青年ですが、ソーニアの引きつった表情から伝わる緊張で声を掛けることが出来ません。

 近付く光の中に人の影が見えてきた頃、ソーニアは低く頭を下げました。しかし彼は真似ることをせず、腕をかざして光を遮りつつ、その影を睨み付けます。

 少し見上げる程の高さで動きを止めた光は、眩しさを弱めていきました。現れたのは、強仕(きょうし)に達しているであろうかと云う見た目の男性で、墓守と天使の二人を険しい表情で見下ろしておりました。

「…銀天使よ」

「はい、空の神」

 低く唸る威圧的なその男こそ神なのだとわかり、青年は更に鋭く睨み付けます。しかし空の神の眼中に彼の怒りなど無く、ただ冷たい色の瞳を銀天使へと向けておりました。

 ソーニアは全身にじっとりとした嫌な汗を浮かべ、空の神の言葉を待ちます。彼女でも、神が自ら下界に姿を現すとは想定しておりませんでした。自分と同じ中位中級から上位までの天使が仲介するであろうと踏んでいたのです。

 何か嫌な予感めいた心地の悪さが、彼女の中を駆け巡って行きました。

「銀天使よ。願いは、聞いた。貴様は正気か」

 二度目の呼び掛けをした空の神は、呆れたような、失望しているような声音で問いました。

 体が小さく震えるのを押さえ付けながら、ソーニアは強く神を見据えて頷きます。

「はい、正気です。私は彼等の幸せを、心より願っております」

「そうか…」

 残念そうに目を伏せた空の神は、ソーニアに向けて手をかざしました。彼女の体が地面から浮かび上がったかと思うと、痙攣したように大きく体を反らします。

「嫌っあぁあああ!」

「愛の女神の賭けは失敗だ。どうも思考が人間側に偏り、他の天使より劣る者だと、もしや人間の説得には向いているのではと言っていた。それすら出来ず大罪人に毒されるとあらば、堕天させても問題あるまい。なに、少し古い手ではあるが、この翼を剥がす痛みに耐えればすぐに人間になる。耐えられねば消滅するだけだがな」

 空の神は淡々と語りますが、ソーニアは痛みと自らの絶叫とでそれどころではありません。しかし、彼女の反応の代わりに動く姿がありました。

「消滅とは…どう云うことだ」

 ソーニアの前に立ち、神を睨み付ける墓守は、その瞳を憎悪で燃やしています。空の神は微動だにせず、ただ「ふん」と鼻を鳴らしました。

「思い上がるなよ、人間。天使を殺める力を持つ程度で神に背くなど愚の極み。この天使が堕ちようが魂共々消えてしまおうが、次に消すは貴様であるぞ」

 神の言う消滅とは、魂の死。つまり冥界へ逝くことも天界へ逝くことも、輪廻することも無く存在そのものが消えてしまうと云うことでした。そのような力を使われては、青年には何も、対抗する術はありません。

 血が滲むほど唇を噛み締め、血が流れるほど拳を握り締めた青年は一歩踏み出しました。

「…彼女を…、アメリーを渡す」

「は?」

 目を見開いた空の神は、その表情を徐々に歪め、実に愉快だと言いたげな笑顔を浮かべます。

「臆したか?今更命乞いとは何とも滑稽なものだ。所詮、人間の愛などその程度であろうな」

「僕のっ、僕のことはどうでもいい。今すぐその手を下ろしてくれ」

 青年の叫びを鼻で笑い、神は冷たく目を細めました。

「百にも近いだけの天使を殺めておきながら、この愚か者を助けると?ふん、まあ良い。劣っていようとも、消えて無くなるよりましか。処分は天界で下すとしよう」

 神が手を下げると、天使の体は地面へ降り立ちました。呼吸を荒げ、咳き込みながら、彼女はその場に崩れます。

 少しだけ安心した青年は、約束通りに地下墓地へと歩き出しました。

「…お願い、します…っ、私の…魂は、構わない…!代わりに、二人を…」

 ソーニアは微かな力で体を支え、縋り付くように神を見上げました。空の神は呆れて肩を竦めます。

「庇われておいて何を言うか。どこまでも使えぬ…」

 視線を青年へと移せば、もう随分と離れた場所まで進んでおりました。

「や…やめて!貴方の愛は…!私なんかの為に捨てて良いものじゃない!お願い!…もどって……」

 銀天使の掠れた叫び声が青年に届くことはありません。今すぐ引き留めに駆け出したくとも言う事を聞かない体が恨めしく、そんな自分が情けなく、彼女は蹲って涙を流します。

 砂利を踏む足音に顔を上げると、青年が少女の体を抱いて神を見上げておりました。

 深い緑色のドレスを身に纏い、淡いクリーム色の髪を靡かせるその少女は、肌の色こそ青白くとも美しく可憐でありました。

「やはり、上位天使に相応しい魂を持つだけはある。すぐに光の神の許へ連れて行かねば」

 神が両手を上げると、少女アメリーの体が青年の腕から浮き上がり、ふわりと神の腕の中へ収まりました。

「なぜ…何故です…。二人の時間を、ただ百年ほど待てば、誰も悲しまないというのに…」

「神が人間を待てと言うか。愚かしい」

 くるりと背を向け、飛び立とうとした空の神は、思い出したように振り向きます。

「気が変わったぞ、人間。貴様を消さぬことにする。その方が、愚かな行いをよく反省するだろう。孤独と云う、罰だ。しかし、その命の尽きた時、魂が残ることはない」

 満足気に笑顔を浮かべ、神は天へと戻って行きます。きらきらとした美しい光が、その姿を優しく包んでおりました。



 神が消えていくのを放心して眺めていたソーニアは、何とか上半身を起こしました。まだ翼の付け根が酷く痛み、全身が燃えるように熱くなっていますが、それを上回る心の痛みが彼女の意識を攫って行きます。

「どうして…どうして、私なんかを…助けたのです」

 悲しみと、喪失感と、神への憎悪が渦巻く心の中に、助けられた喜びが潜んでいることに彼女は気付いておりました。その現実を直視できず、強く目を瞑り、唇を噛み締めます。

 青年はそんな彼女の手を取り、優しく微笑みました。

「消されたく、なかったんだ。君は今の僕の、ただ一人の味方だから」

 顔を上げた彼女の瞳から、涙が溢れます。

「そんな…、私は…二人を守れなかったのに。貴方の優しさに、助けられただけなのに」

「僕の愛を認めてくれたのは、君しかいない。彼女は天界へ行ってしまったけれど、僕の愛は、君のお陰でまだしっかりと残ってる」

 袖で彼女の涙を拭うと、青年は自分の胸に手を当てて優しく目を閉じました。ソーニアの手を取り立ち上がると、彼は神とアメリーの消えた空を仰ぎます。ソーニアは彼の手を強く握り返し、自分の中の愛と向かい合いました。

「さあ、天界へ。アメリーを、宜しく頼む」

 送り出すように手を離し、青年は納屋の方へ歩き出します。

 ソーニアは空を仰ぎ、強く目を閉じてから彼の方へ振り返りました。

「私はきっと、降格になるでしょう。主に、下界で遣われることになると思います。…また、会いに来ても、いいですか」

「それは…出来ない」

 声だけの否定でありましたが、彼女は信じられずに駆け出します。

「私が、天使だからですか?そんなことは、もう関係ないのです!貴方の愛が、私は…私は…!」

 納屋の隣で、青年は膝立ちになり、微笑んでおりました。彼の表情には、拒絶の色はありません。

 ただ、彼は静かに、斧を握り締めておりました。

「消されてしまえたら良かったのに、神はどこまでも僕が憎いらしい。…僕はそれ以上に憎んでいるけど。でも、君に礼が言えるだけ、良かったのかもな。…ありがとう、ソーニア。君はどうか、彼女の傍に」

「やめて…っ!」

 ソーニアが手を伸ばすその前で、青年は自らの首に後ろから刃を押し当て、思い切り押し出しました。

 膝の前にドサドサと、斧と首とが転がると、体がぐらりと傾いてうつ伏せに倒れます。

「…嘘…こんな、こんなこと…。どうして…どうして!」

 駆け寄って行く彼女の足下で、彼の体は灰となり、少しずつ崩れ去っていきます。風が吹けば舞い上がり、掴むことも出来ません。

 落ちた首は消え去り、体も爪先から迫り上がり、胃の辺りまでが無くなっていました。

 更に体は崩れ、胸元まで灰となった時、そこから小さな光が、ふわりと浮き出てきました。ソーニアはすぐに手を伸ばし、光を包みます。

「…お願い…行かないで……」

 小さく乞う彼女の手の中で、小さな光、青年の魂に黒い火が灯り、焼き尽くしていきます。火は魂が尽きると共に消え去り、彼女の手の中には、何も残っておりませんでした。

 涙が溢れ、強く唇を噛んだソーニアは、地面に爪を立てて肩を震わせました。

「…神、神、神、神…。何が、神…!赦さない…絶対に、赦さない!」

 唸る彼女の指先に、コツンと何かが触れました。視線を向けると、青年の残したボロ斧が、錆を浮かせて転がっています。

 ゆっくりと手を伸ばし、木の柄を握り締めたソーニアは、ゆらりと立ち上がると空を睨み付けました。

「…赦さない」

 斧を手にした銀天使は、地面を蹴り、天界へ向けて大きく羽ばたき出したのでありました。




 ―天界へ戻った空の神は、アメリーの体を光の神へと預け、ソーニアの処遇を神々と話し合おうと会議室へ向かっておりました。

 廊下は壁も窓も無く、装飾的な柱が並び、気持ちの良い風が吹き抜けます。宮殿の真ん中辺りにあり、都の様子がとても良く見えました。

 一仕事終えた達成感に気分良く伸びをして、神は空へ手をかざします。すると雲は瞬く間に流れて行き、空は青さを増して爽やかで清々しい景色に変わりました。

 満足気に空を見渡していた神は、その中に小さな影を見つけました。上下に動きながら進むその影は、羽ばたいている天使のもののようです。

 突風のような勢いで空を翔る天使は、空の神の居る廊下へと一直線に向かって来ます。危険を感じた神が飛び退くと、丁度それまで立っていた場所へ銀天使のソーニアが飛び降りました。

「なっ、何を考えている!下界へ降りて飛び方まで忘れて来たと言うか!」

 神の怒声に、ソーニアはゆっくりと振り返ります。ゆらりとしたその動きは、美しくも妖しいものでありました。

「早く…戻らねばと思ったのです。早く、済ませねばと」

 空の神は怪訝な表情で彼女を見詰めますが、おおかた自分の天使としての欠落を自覚し、罰を受けて更生しようと考えているのだと思い至り、冷めた笑顔を浮かべました。

「天界へ戻ったとあらば他の神々へも報告せねばなるまい。反省するも良いことだが、まずは円卓だ」

 神はまた会議室へと進み出しますが、ソーニアが後を追う気配がありません。読めない行動を取る彼女に、神は苛立ちを覚えました。

「…貴様、何を考えている?」

「私が反省しているなどと…どこまでも己に都合の良い愚か者だ、と」

「何だと…?」

 銀天使の正面に立ち、神は怒りを含んだ瞳で彼女を睨み付けました。

 ソーニアは怯む様子もなく、冷たい笑みを浮かべます。

「欲望を隠さず、上手くいかなければ弱い者へ当たり、目下の意見は聞こえぬ振り…。人の子より幼い。罪人より愚かな。私が何を反省する?反省すべきはそちらの方だ。愛の偉大さを知れ。命の重さを知れ。恥を知れ。私の苦しみを、彼の痛みを、孤独を、悲しみを知れ。だが知っても遅い。私は赦さない、絶対に赦さない…!」

 彼女の叫びを聞いた神の額には青筋が浮かんでおりました。

 わなわなと震える大きな手が、彼女の細い首を掴みます。

「天使風情が面白いことをほざく…赦さなければ、何だと言うんだ」

 表情を崩すことなく、ソーニアは腕を振り抜きました。

 一瞬、何が起こったのかわからず固まる神ですが、視線で追った彼女の手にはボロ斧が握られ、自分の喉からは滝のように赤い滴が溢れています。

 よろよろと後退る神の胸元へ、彼女は躊躇うことなく手を伸ばしました。伸ばした右手は体に触れることなく、するすると奥へ進みます。

 口をぱくぱくさせて喘ぐ神の胸元から勢い良く引き抜かれた右手には、明るく輝く光がありました。

「銀天使にも、魂に触れるだけの権限はある。それは神々決めたこと。けれど、まさか神の魂へも簡単に触れられるなんて…」

「…っ、よせ……!」

 右手に力を込めていくと、神は胸をおさえて呻き出しました。潰れてしまうかというところで、魂から青い光が波のように溢れ出し、彼女の中へと染み込んでいきます。

 溢れる力に目を見開いたソーニアは、斧を手にした左手を空へと掲げてみました。途端に、それまで青く透き通っていた空は血液のような深紅に染まり、禍々しいまでの黒い雲が生まれだしました。

「あ…ああ……」

「これで、貴方にはもう価値など無い。左様なら。愚かで、哀れな男」

 ソーニアが右手を握り締めると、空の神であった男の体はじりじりと燃え尽きていきました。廊下を吹き抜ける風がその灰を攫って駆けて行きます。

「…やりました。愛の為に天使を殺めた貴方の為に、天使の私は…神を、殺しました」

 赤い赤い空へと呟くと、辺りが騒がしくなっていることに気付きました。振り返ってみると、数人の天使を連れた風の神が向かって来ています。

 一歩も動くことなく見据えながら、彼女は神を待ちました。

「…貴様だけか?」

 風の神はソーニアから距離を取り、慎重に訊ねました。

 彼女は余裕のあるゆったりとした動きで頷いて見せます。

「ええ、そうですが」

「空の神が共に居たはずだが?風が見ていたんだ、嘘は通用しない。…答えろ。空の神は何処だ。この空はどう云うことだ。あの、灰は…何だ」

 睨み付ける視線の先で、彼女はくすくすと肩を揺らします。

「随分と怖がりでいらっしゃいますね。答えは簡単、空の神なら目の前に居りますよ」

 風の神が息を飲むその瞬間を逃さず、ソーニアは思い切り地面を蹴りました。

 足を斬りつけられた神は背後へ倒れ、周りの天使達が急いで取り囲みます。

「遅いっ!」

 天使達が反撃する間も無く、ソーニアが斧を繰り出しました。ジュッと焦げる音をさせながらぽろぽろと首が転がります。

 動かない足を引きずりながら会議室へと這う風の神へ、斧を担いだソーニアがゆったりとした動きで歩み寄ります。斧の柄で背中を押さえて神の動きを止めると、彼女は肩甲骨の間の辺りへ手を伸ばしました。

 空の神の時と同じように手は奥まで進んで行き、魂を掴むと勢い良く引き抜きます。明るく輝く魂に力を込めていくと、緑色の光が波のように溢れ出し、彼女へと流れていきました。

「風の力…良いものですね。世界がよく見える」

 風を纏ったソーニアは、残りの魂を握り潰し、自らの風で神であった灰を散らしてしまいました。


 空と風の神と化したソーニアは、会議室の扉を睨み付けます。彼女の風は円卓で空の神と風の神を待つ神々の姿を見ておりました。

 軽く地面を蹴った彼女は、風の力で先程より速く、廊下を滑るように飛んで行きます。

 風を使って扉を勢い良く開くと、それに気を取られた神々の中から、まずは知識の神の魂へ手を伸ばしました。

 迷うことなく魂を奪い取り、握り潰してしまった彼女を神々は信じられない思いで見詰めます。

「ぎ、銀天使が、何故…」

 星の神が呟くと、床へ手の平を向けて灰を散らしていたソーニアがくるりと振り返りました。その翼は、上位天使の七色の光とは違う、青と緑と橙色の強い輝きに包まれていました。

「あら、お察しの悪い方ですね。私は天使ではありません。空と、風と、知識の神ですよ」

 言い終えると同時に、円卓を中心に強烈な風が神々を襲いました。

 壁に叩き付けられ、更に吹き付ける風によって床に降りることも出来ません。

 何とか反撃しようと、音の神が声を上げます。耳を刺すような大きさと体を揺らすほどの音の波で、ソーニアも耳を覆い後退りましたが、神を憎む彼女はすぐさま斧を投げ付けました。

 斧は音の神の首をすっぱりと落とし、壁に刺さりました。

「…騒がしいのは、嫌いです」

 吐き捨てるように呟いて、彼女は床に転がった音の神の体から抜け出そうとする魂を捕らえます。それが数分後の自分達の姿なのだと、神々は絶望するしかありませんでした。


 愛の女神はバルコニーの柵に縋り、恐怖に震えておりました。

 背後の会議室では、他の神々が次々と倒れ、魂を奪われています。風の音や悲鳴はどんどん小さくなり、とうとう静寂が広がりました。

 強く目を閉じた女神の耳に、ゆっくりと近付く一つの足音が聞こえてきました。足音は女神の背後で止まり、少しの沈黙が続きます。

「女神様、私を遣わせて頂いて、ありがとうございます。お陰で、これだけの力を得ることが出来ました」

 聞こえた声は密やかで澄んでいますが、心に刺さる冷たさを感じました。女神は風の力で会議室から押しやられていたのです。

 女神はソーニアについて、誰よりも愛を深く追い求める余り天使としての責務を忘れがちであるが故に、他より遅れを取っているのだと認識しておりました。

 下界からの彼女の祈りを聞いた時には、やはり駄目であったかと云う気持ちと共に、それでこそのソーニアなのだと云う思いもあったのです。

 まさか、こんなにも残酷で哀しい結末になろうとは、悔やみ切れるものではありません。

「何故です、ソーニア。貴女は広く深い愛を持っていたはずなのに…」

「やめてください。貴女から愛だなどと云う言葉は聞きたくありません」

 蔑んだ瞳で、ソーニアは女神に斧を向けました。

 言葉の神の力も加わり、今の彼女に向けて言葉を挟むことは難しくなっておりました。

「私にとっての愛の神は、もう消えてしまったのです。誰よりも深く、優しく、哀しい愛を持った方でした。…殺したのは、私が信じていた神々です。私を無能と内心で嘲っていた、神なのです」

 「違う」と叫びたくも、女神は首を振るのがやっとでした。

 驚きと悲しみで胸が詰まり、頬を涙が伝います。

「貴女は…無能なんかじゃありません。誰も嘲ってなど、そんなこと…」

 その先を紡ごうとする女神ですが、上手く言葉が出てきません。訳もわからず混乱する姿に、ソーニアは深く肩を落としました。

「誰も嘲ってなどいない、そう言いたいのですか?言えるはずは無いでしょう。神は、嘘など吐かないのですから」

 あの背中への痛みの中で空の神が言っていたことを、ソーニアは朧気ながらも覚えていました。思考が人間に偏り、他の天使より劣ると女神が言っていた、と。言葉は違えど、空の神がそのように受け取ったのであれば同じことです。空の神も嘘を吐かない、だから女神の言葉は、嘘になる。

「貴女の持つ、その多くの愛は…ご自分に向けられているのです。無自覚かも知れませんが」

 愛を持つことを説き、世界を愛し、世界に愛される。その女神が本当に愛していたのは、自分自身でありました。

 神々が墓守の青年を除くことしか考えられなかった時、それは女神が愛を説くにふさわしい場面であっただけ。劣った天使を愛し、遣わすポーズが出来ると云うだけ。

 下界で銀天使がどんなに祈っても、助けを出せば神々の愛を損なう。神の愛を損なえば誇りが傷付く。だから、青年の愛は守られた、銀天使は深い愛情を知ることが出来たと納得する。

「自己愛も、立派な愛なのでしょう。けれど私は…赦さない」

 素早く手を伸ばしたソーニアは、女神の魂を掴むと、手を引き抜かないまま力を込めました。

「熱っ!い、嫌あぁ!消えたくない…っ、この私が…あなたなんかに…!」

「…これまで、ありがとうございました。銀天使であった時の私は…、貴女を愛しておりました」

 女神の力が流れて来るのを感じたソーニアは、残りの魂を握り潰しました。思い切り腕を引き抜くと、一瞬にして女神の体が崩れ散りました。


 会議室に居た全ての神の力を手にしたソーニアは、光の神とアメリーの居る屋上へ視線を向けました。

 そちらへ向かおうと一歩踏み出しますが、ぴたりと足を止め、バルコニーの方を振り返りました。

「彼女の元へ行きたいのに…邪魔が過ぎる」

 呟く彼女の視線の先には、たくさんの天使や神が武器を持ち、宮殿へ向かい来る姿がありました。天界の者だけでなく、冥界の神々の姿もあります。

 バルコニーで両手を広げた彼女は、凶悪なまでの笑顔を浮かべて叫びました。

「神殺しはここに居る!殺して欲しい者から来い…っ!」




 ―宮殿の屋上では、光の神がカウチに優雅に腰掛け、青い空を眺めておりました。

 天界はまるで深海のように静まり返り、先ほどまで何時間と続いていた大戦が幻であったかと思われました。

 紅茶の入ったカップを置き、神は空を眺めたまま、優しい笑みを浮かべました。

「全て、終わったのですね?」

 屋上へ気配もなく降り立っていた相手が言葉を返す前に「ふむふむ」と頷いた神は、空中からカップを取り出して紅茶を注ぎます。

「こんなことが起こるなんて、考えたこともありませんでしたよ。悲しいな、私はあの、人寄りの銀天使が好きだったんですけどね」

 差し出した紅茶を受け取られないことも気に留めず、神は笑顔で振り返り、相手の顔を覗き込みました。

「天使でもなければ、神にも見えませんね。そうだな…闇、そのものと云ったような」

 傷だらけで、自らの血とその何倍もの返り血で衣を赤黒く染め、様々な色の神の力を吸収し続け、もはや漆黒にも見えるほどの翼を持ったその相手は、光以外の全ての力を司る神でありました。

 一歩光の神に歩み寄り、漆黒の神となったソーニアは億劫そうに口を開きました。

「私がどう見えるかなんてどうでもいい。彼女を、渡して」

 彼女の視線の先には、カウチとは別のシンプルなベッドがあり、そこには虹色の光を放つ翼を持ったクリーム色の髪の、自分に良く似た少女、アメリーが横たわっておりました。

 空の神の手に渡った時よりも顔色が明るくなり、胸もしっかりと上下して、呼吸をしているのがわかります。

「嫌とは言わないけれど、この子と共にどうしていくのかを、教えてもらいたいですな。天使はもう、この子だけだ。…いや、生物はもう、私達だけなのでしょう?」

 大戦の中で、ソーニアは星を落とし、風を吹かせ、雷を放ち、大地を割りました。彼女の味方が世界であるのと共に、敵は神であり、世界でもありました。

 一人生き残ったと同時に世界は平和と化し、彼女がいかに力を上手く制御出来ているのかが光の神には良くわかりました。もしかすると、大戦が始まる前の世界よりも平和で穏やかであるかもしれません。

 それでも、大戦によって生物達は皆命を落としていきました。気候が穏やかで平和であろうとも、これまでの暮らしが出来るはずもありません。

「彼女の町は残してある。私の力で、人々は何も気付いていない。私達は、そこで暮らす。私達の愛を守った、彼の望みだから」

 ソーニアの答えに深く頷くと、光の神は悲しそうに顔を上げました。

「貴女はそれでも良いのでしょう。それでもこの子は…理解出来るでしょうか。人を天使にするには、人であった記憶を一つ残らず、消してしまう決まりなのです」

 目を見開いたソーニアの手からボロ斧が滑り落ち、カランと音を立てました。

 幸せそうに寝ているアメリーへ二、三歩歩み寄り、彼女は崩れ落ちました。

「覚えて…いない…?彼が、守った愛を…何も?それなら、彼は…私は…!神!神共は一体、どこまで!」

 瞬く間に空が炎の色に変わり、地鳴りが響き出しました。

 その中でも光の神は、周りを穏やかな表情で見回します。

「壊しますか、世界を」

「無論!」

 炎の空から星が降り、地面を砕きます。地面が割れて地中から、真っ赤なマグマが溢れだします。

 波は荒れ、大地を飲み、何も無くなった世界を、徐々に闇が包みはじめました。

 闇は大地や海や空だけでなく、どんどんと広がっていきます。

「とうとう、世界がなくなるのですね。それでは、これを」

 穏やかな光の神は、自らの中へ手を伸ばし、その中の光をソーニアへ差し出しました。

 まさか進んで魂を渡されるとは思っておらず、彼女は神を見詰めます。

「…無、とは、どんなものでしょうね。これまで私であったものが、次の瞬間には何も無くなる。無である自覚すら出来ないのでしょうか。実に興味深い…」

「怖くは、ないの?」

「永く在りましたからね。永く無くなるだけでしょう」

 にっこりと微笑み、神はソーニアの手を取ると、自らの魂を握らせました。

 とても強い光が彼女に流れていくのを輝いた瞳で見詰めてから、握手をするように、残りの魂を潰します。

「貴女の愛は永遠なのでしょう。貴女の憎しみも。私は少しでも、貴女が穏やかで在るよう、祈りましょう」

 最期まで笑顔のまま、光の神は風に散っていきました。

 大きな喪失感と虚無感に、ソーニアは闇を見上げ、ゆっくりと目を閉じました。


 ベッドで眠るアメリーは、変わらず幸せそうに寝息をたてておりました。

 彼女の前に立ち、ソーニアは優しく手を伸ばします。

「アメリー、起きて」

 肩を揺すられたアメリーは、ゆっくりと目を開き何度か瞬きをすると、首を傾げながら辺りを見回しました。

 神の力によって身を整えたソーニアを見つけると、人としての記憶の代わりに授けられた天使としての知識が溢れ出しました。

「あ、貴女が…神様ですか?」

 小さく尋ねられた声に首を振ると、ソーニアは悲しい笑みを浮かべ、ベッドの前に膝を付きました。

「私は神でも、天使でも無い。ソーニアと呼んで。…実は貴女に、神から言伝があるの」

 アメリーの手を取り立ち上がると、ソーニアは闇へ踏み出しました。ベッドの他には何も無く、二人は闇の上に立ち、闇を見詰め、闇に触れておりました。

「世界は、神は死んでしまった。この闇から世界を創り、新たな神になって欲しいと云うのが、神の願い。その為の力は預かってる」

 ソーニアは自らの魂へと手を伸ばし、そっと取り出しました。

 とても強い様々な色の光で煌めき、自分には相応しいもので無かったのだと自嘲の笑みがこぼれます。

 差し出された光にアメリーがおずおずと手を伸ばすと、強い光は彼女へと流れ、元の小さな銀色の光のみが残りました。

 清しい気持ちで光を握り潰そうとしたソーニアですが、目の前から伸びた手がそれを止めました。

「消えてしまうことは、ないと思うけれど」

「いいえ、私の役目はこれで終わり。だから私も消えたいの。いや違う、私は消えなくちゃいけない」

 苦しそうなソーニアの両手を、アメリーは優しく包みます。

「ここには闇の他に、誰も居ない。だから貴女が消えなきゃいけないなんて言う人も居ないよ。居るのは私、貴女に居て欲しいと思う、私だけ」

 彼女の優しさが温かく、ソーニアの心は揺らぎます。それでも、自分の罪や憎しみがどこまでも深く心に絡み付いていることも、痛いほど理解していました。

 アメリーの作る新しい世界に自分は要らない、ソーニアの心は、そう叫んでいます。

「…それなら、私は…姿を変えたい。前の世界を、神を弔う碑に」

 呟いた言葉を、目を閉じて心で繰り返してみました。前の世界、神を弔う碑になる、それは憎しみや悲しみ、深い愛を抱えながら、永い時間をただ刻むと云うこと。

 消える他での道は、やはりそれが一番相応しいのだと思いました。

「うん、前の世界も神も、貴女が覚えていてくれたら寂しくないね。素敵だと思う」

「違う、これはただの自己満足。消えたものは、本当にもう、何処にも無いから。私がどれだけ祈っても、もう届かない。同じものを作っても、形が同じなだけで違うものだから、だから私は…」

 涙を堪えるソーニアを、アメリーがそっと抱き締めました。

 ソーニアが堪えていると云うのに、アメリーはしゃくりあげながら号泣しています。

「これは貴女への言葉だよ。世界も神も、寂しくないと思うから…私がそう信じるから。だから、私に貴女を赦させて。少しは自分を…赦してあげて」

 涙を溢しながら、ソーニアは嬉しくなって微笑みました。

「本当に貴女は…どこまでも綺麗。ありがとう、アメリー。私も、彼も…貴女をずっと、愛してる」

 アメリーから離れ、ソーニアはゆっくりと回りながら、その姿を変えていきます。

 彼女は十字架の形をした碑へと変わり、そこには「銀天使を救った愛の神 銀天使に壊された世界へ捧ぐ」と刻まれておりました。

「苦しかったんだね…。消えないでくれてありがとう。どうか安らかに」

 碑に触れて涙を流しながら微笑んだ新しい女神は、素晴らしい世界を作ることを心に誓ったのでありました。




 ─木漏れ日の揺れる暖かい森には、たくさんの動物達が暮らしておりました。

 綺麗な緑と澄んだ空気、煌めく小川。その森は愛の森と呼ばれ、人々の憩いの場にもなっておりました。

 名前の由来は遠い昔から残る碑で、世界の生まれた日からそこに在るのだと言い伝えられています。

 今でも、時に女神が現れては、碑の隣にある泉に足を浸しながら、何処で覚えたかもわからないと云う鎮魂歌(レクイエム)を唄います。それを聴いた人々も、碑の前では鎮魂歌を口ずさむようになりました。

 そうしていると、何故かとても愛しい気持ちが湧き出して、切ないような、暖かいような、不思議な感覚になるのです。

 平和で穏やかな世界があるのは碑のお陰なのだと、人々は感謝をして慕います。

 女神様を、碑を、そして、愛の神と銀天使様を。






(終)

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