決戦! ホテル・ニューオータニ(三十と一夜の短篇第2回)
まづ、なぜそういう運びになったのかを語らなければなるまい。
マツコ・デラックスの番組に、往年の大食い戦士たちが出ていた。小林尊。赤坂尊子。新井和響。マイケル高橋。ジャイアント白田。
あの当時の私はTVチャンピオンや、狂熱のようにあふれかえった丸パクリの番組をよく観ていた。当時の私は、赤坂さんが嫌いだった。インターバルにしなくてもいい間食をして、そんなパフォーマンスの末に負ける……たいしたことねえな、というのが当時の率直な感想だった。だが、それがとんでもない浅薄な思いこみであったと知る。いまでもたまにやっている大食い王選手権は、男女を分けている。二十年ちかくまえは、男も女もいっしょくただった。赤坂さんはそのなかで、奮戦していたのだ。真の意味で、ウーマン・リヴの闘士であったのかもしれない。
妻は私と同年だが、私ほど大食い番組を観ていたわけではない。私とて、大食い番組のマニアだったわけではない。金太郎飴めいた大食い番組の乱立はまちがいなく、ひとつの時代であった。私たちは時代を共有しているのだ。
「わたし、ケーキなら大食いいける」
妻が不意に言うその類のセリフは、何度か聞いている。私はそれを信じない。妻がちょくちょく吐く胃袋についての大言壮語は、内実をともなっていなかったからだ。口ほどにもない。焼肉やビュッフェやバイキングに行くまえにこの類の大言を吐き、吐き気を催す惨敗を喫するのである。開始三十分ほどで胃がもたれ、それ以上は受けつけなくなる。
「ケーキなら得意分野」と妻は力説するが、胃もたれしている青写真しか見えない。つい先日も焼肉の食べ放題に行って、ダウンしていたではないか。その事実を指摘すると、妻はムキになる。「子どものころはケーキちゃんと呼ばれていた」云々と、わけのわからない根拠をまくしたてる。
「口ほどにもないことはわかってるから」
とからかえば、火に油が注がれた。「では証明してやる」とばかりに、ケーキバイキングで勝負する運びとなったのだ。ケーキバイキングで、ケーキを多く胃に収めたほうの勝ち。負けたほうが自腹で清算する、単純明快なルール。自腹というのは、なけなしのこづかいから出すということ。家計は痛まないが、どちらかの懐が傷つく。
私は承諾する。100パーセント、私の負けはないと確信したからだ。その確信は妻も同じであるらしく、「どうせ食べるなら、おいしいケーキを食べたい」とのたまう。高価なケーキ、埼玉から東京へ。三千円から四千円もするホテルビュッフェ。
「やめといたほうがいいんじゃない」
純粋な老婆心から、私は言った。勝つつもりでいる妻が、なんだかかわいそうになってきたからだ。妻の懐が痛んだところで、私になんの得もない。家計は私の稼ぎだが、私の財布ではない。妻の管理するところである。私が損をしなければ、それでよいのだ。だが妻は、強硬な姿勢を崩さない。まるで蒙古に挑む北条時宗、神風なんて吹くはずはないのに。
決戦の場はホテル・ニューオータニ、ガーデンラウンジ三千七百円に決まった。ほかに行きたいビュッフェがあったようだが、そこの予約は取れなかった。ガーデンラウンジであれば予約は不要で、開店まえからならべばよい。日時はその週の土曜、朝十一時から。焼肉食べ放題の惨敗から、ちょうど一週間である。
決戦二日まえ。妻は実家へ帰った。同じ埼玉県内でも、妻の実家のほうがニューオータニへも最寄り駅へも近い。実家で飼っているアメリカン・ファジーロップを愛でて、鋭気を養いたいのだろう。
不在を埋めるために用意された食事リストを見て、私は愕然とする。前日の夕食、ビーフシチューとライス。当日の朝食、ビーフシチューとライス。二日ぶんの米、約三合。
私の朝食はいつも、コンフレークとさだめられている。私はそれを是としていない。あれは食事ではなく作業だ。「好き嫌いが多いから」「健康のため」と、私にコンフレを強要する。いっさいの愉悦もなく体内に取りこむものが健康によいとは、とても思われない。昨今はグラノーラだのオートミールだのといった西洋かぶれのものが出まわり、そんなものまで食わされる。オートミールなんて、食べるグロテスクとでも言うべきものだ。妻に泣きを入れて、オートミールだけは勘弁してもらった。あれを毎朝のように口に入れて平然としている西洋人というのはじつに、苦行僧めいている。
決戦の日の朝にかぎって、油とカロリーの充足。その意図するところは明白である。戦いの始まるまえに、こちらの胃に錘をかける。諸葛孔明ばりの奸計。私が横山光輝版の司馬仲達なら、「げえ」と呻いているところだ。だが私は、本物の仲達を志向する。それ以上の計略を搾りだして、この状況を打破するのだ。
「二食両得の計」以外に、途はない。二食ぶんにセパレートされたビーフシチューと米を、前日の夕食として平らげる。廃棄するという選択肢は、最初からなかった。食べ物を粗末にしてはいけない。これまでにないような大量の夕飯を気絶しいしい、どうにか食べつくした。本戦よりも苦しい戦いをどうにか制し、当日の戦略的状況を整えた。
いざ、永田町へ。バスを逃したので、駅まで十分ほど歩く。昨夜のダメージはまったくのこっていない。快調に、飢えとともにある。
想定より早く出たつもりであったが、時間はぎりぎりであった。ホテル・ニューオータニ。ミミズが這うような筆記体でそう書かれているだけなのでほんの一瞬、そこがほんとうにニューオータニかどうか迷った。従業員にガーデンラウンジの場所を訊ねて到着すると、妻はさきに着いて長蛇の列のまんなかあたりにいた。うしろのひとに「すいません」と頭をさげ、列に割りこむ。
地上六階からの眺望はすばらしい。全面ガラス張りの窓から、美しい日本庭園を臨む。ぜひとも窓際の席を取りたいと思った。私たちのあたりでちょうど、窓際は埋まってしまった。しかたなく、窓近くの端の席をえらぶ。
デザートはガーデンラウンジの売りのひとつであって、ガーデンラウンジはそれだけではない。豊富なサンドウィッチと、付随する軽食類。当初の取りきめ。まづはサンドウィッチを一周してから、ケーキの大食い勝負へ入る。ケーキだけではやはり、もったいない。せっかく来たのだから。
一口サイズに切りわけられた多種多様なサンドウィッチをそれぞれ一個づつ、皿に盛って席にもどる。ローストビーフ。ポークカツ。ビーフステーキ。シュリンプアボカド。タマゴサラダ。エッグベネディクト。エトセトラ、エトセトラ。
うまい。パン自体は、それほどでもない。はさまれている具材が絶品である。特にポークカツとビーフステーキ。ほどよい脂身の旨さ、「脂」から「月」を除いて「旨い」となす。これまでに食べてきたどんなサンドウィッチよりも「サンドウィッチ」、肥えていない舌を辱しめる。
「胃もたれが……」
皿のうえのサンドウィッチとエッグベネディクトを平らげるまえに、弱気が妻の口を衝いた。開始三十分も経っていない。予想よりも早い常套句に、私はほくそえむ。いや、待て……私は自制する。これは私を油断させる意図によってなされた、妻の奸計ではないのか。勝負はここからである。午後二時までに、多くのデザートを胃袋に収めたほうの勝ちだ。
ショートケーキ。チョコレートケーキ。チーズケーキ。カップケーキ三種。クレームブリュレ。オレンジゼリー。メロンゼリー。コーヒーゼリー。みつ豆。フルーツヨーグルト。フレンチトースト。バニラアイス。オレンジシャーベット。フルーツサンド。
一口サイズにわけられたこれらの種類は、たしかに多い。行きつけの日帰り温泉のビュッフェ(千五百八十円)のデザートの種類よりも。妻につきしたがい、デザートを一周する。どれも美味である。なかでも特に、チーズケーキとクレームブリュレは絶品である。まるでジュースのようなゼリーは高級、バニラアイスは濃厚な口あたり。みつ豆とフレンチトーストとフルーツサンドは、いたって普通。カップケーキ三種とフルーツヨーグルトには食指が動かなかった。
二週めを取りに行き、ふと思ってしまった。これはきつい、と。のこり二時間あまりを、この数種でローテーションしつづけるのは。種類はけっして、少ないわけではない。胃にはまったく異状はないが、早くも飽きが来てしまった。サンドウィッチやシーフードドリアやらを食べたいが、そうも行かない。この勝負において、食事類はノーカウントであるからだ。あくまでデザートの勝負。「いいんだよ、サンドウィッチとか取ってきても」と、妻のような悪魔の囁き。絶対に、負けるわけには行かない。
妻が取ってきた量にあわせて、私も持ってくる。妻が先攻、私が後攻という形が取れた。相手の出かたにあわせられる後攻のほうが、有利である。ラップのMCバトルでも、後攻が有利とされている。何巡かめで、私は勝負に出る。妻が取ってきた量よりも一個、多く取ってくる。このターンのリードを確保しつつ、妻よりもさきにそれを平らげる。ゆさぶりをかける。つぎを取りには行かない。妻がこのターンのデザートを食べおわるまで、本をひらいてゆっくりと待つ。この時間が重要。妻は焦って場のデザートを消費し、私は悠々と回復する。これをくりかえせば、私の勝ちである。
澁澤龍彦の『華やかな食卓誌』の、「グリモの午餐会」のくだりを読みはじめて読みおわる。食事会を芝居のように、観客を入れて鑑賞させたという。私たちのこの勝負は、この場では誰も見ていない。見られていたりしたら、むしろ恥ずかしい。この筆を執ったのも、この勝負が小説としての鑑賞に堪えうると考えたからである。ありがとうと、心のなかで妻に言う。こうして小説にしてネットに晒していることは、墓場まで持っていくつもりであるが。
「トイレに行ってくる」
ようやく妻がそのターンを終え、席を立つ。ずいぶんと長い。「イタリア狂想曲」「クレオパトラとデ・ゼッサント」「龍肝鳳髄と文人の食譜」を読みおえたときに、ようやくもどってきた。オレンジゼリー。オレンジゼリー。メロンゼリー。ジュースのように胃にやさしかろうその三品が、妻の皿に載せられている。
逃げに入っている。しかも、胃にやさしいそれに手をつけない。胃もたれに、ボコボコにされている。ファイティングスタイルは保っているが、立っているのもやっとのボクサー。ニューオータニの祭典で、食べ放題悪夢の再現。すかさず、私は追い討ちをかける。クレームブリュレ。チーズケーキ。バニラアイス。それらを瞬殺し、リードを保つ。
私にはまだまだ余裕がある。この勝負を終えたあとに、サンドウィッチをもう一度たのしむくらいの。最初からわかりきっていた。私はむなしくなってきた。勝者の孤独とか、そんなこととは無縁である。せっかくのホテルビュッフェなのに、勝負にかまけて満喫していない。妻がギブアップするようすはないが、持ってきたゼリーに手をつけない。ああ、シーフードドリア食べたいな。時間はどんどんすぎてゆく。そこで私は切りだした。
「勝負やめにして、家計からってことにしない?」
前述したように、妻の財布が痛んだところで私に一文の得もない。要は、私が損をしなければいい。ここでこうして勝負に固執することは、あきらかな損失であるはずだ。このときの妻のはにかんだような、照れたような表情。私は一生、忘れないだろう。
「しょうがないな。私がわるうございましたって謝ったら、家計からってことにしてあげるよ。ほら、サンドウィッチとか食べたいんでしょ?」
「逆らってすいません。私がわるうございました」
私は名を棄て、実を取った。勝負は私の負けという態で、妻が慈悲をしめしたという形。内実は逆なのであるが。試合に勝って勝負に負けたのでは、話にならない。試合に負けても、勝負には勝たなければならない。
ポークカツとステーキのサンド、シーフードドリアを取ってくる。これを食べたところで、私の限界が来てしまった。これ以上食べたら、リバースしてしまいそうだ。リバースしてしまったら、ほんとうの意味での負けになってしまう。投了である。
惜しらむは徹頭徹尾、ガーデンラウンジを堪能できなかったこと。もうくだらない勝負はすまいと帰りの電車で、私と妻は確認しあったのであった。