第一夜 死神閣下と執事様
東の地には、鬱蒼と繁る木々に半ば覆われた大きな古城がありました。
そこには百年周期で眠りを繰り返すとても低体温低血圧な死神閣下がいらっしゃいました。
今日は死神閣下が眠りについてから百と一年目、ちょうど眠りから覚める日でした。
「…寒い」
いい加減起きて食事にしなければ、いくら死神閣下と名高い自分でも命に関わりかねない。早急に食事を採らねば。
栄養不足でただでさえ低い自分の体温が死体のそれと変わらないほど冷たくなってきていた。
お腹がとても空いた死神閣下は目覚めて半日経ってからようやくベットから起き上がりました。
お腹が空いたり栄養補給のために食事をとるのは当たり前です。
ただ死神閣下の食事は普通とは違うのでした。
「お恥ずかしい限りですわアレス様」
「いいえそんなことはありません」
気恥ずかしげに俯くまだあどけなさが残る少女に黒紫の髪の美丈夫が優しく微笑みかけた。
「とてもダンスが初めてとは思えません。まるで自由に舞う可憐な蝶のようだ」
「まあお上手」
美しい男の魅力的な笑顔と言葉に少女の白くすべらかな頬が薔薇色に染まった。
「素敵ですわ」
遠くから男を一心に見つめていた娘たちの間から切なげな溜め息がもれた。
ダンスを踊っていた者たちも動きを止め中央で踊る二人を、否、美しく妖しいまでの美貌を誇る男の踊るワルツに我を忘れるほどに見入っていた。
夜会に集まる美しい貴婦人や妙齢の貴婦人、果ては男までも妖しく美しい黒紫の髪の男に心奪われ陶然とした。
男が極上のルビーのような真紅の瞳を伏せがちにするとぞっとするような色気が醸し出された。
真紅の瞳を覗き込んでしまった少女は恍惚とした表情を浮かべた。
まるで血に酔ってしまった時のように――。
少女の熱に浮かされたような潤む瞳を見て男はすっと目を細めた。
美味しそうだ。
心が浮き立つのを感じ男は極上の笑みを浮かべる。 ワルツを踊り終えると、男は人が集まってこない内に少女を伴ってその場を後にし、人気の少ない庭園へと誘った。
月光が優しく降り注ぐなか二人はお互いを見つめ合う。
男が首筋にそっと手を触れると少女は瞳をゆっくりと閉じていった。
いただきます。死神閣下は心のなかで合掌すると思う存分食事を楽しんだ。
死神閣下は美食家だった。人間の生気を糧とする彼は好みにうるさいところがあった。
人間にはオーラつまり魂の色みたいなものがあった。
例えば黒い色のオーラは、苦くて臭くて舌が痺れるような想像を絶する不味さだ。
美味しいのは、本日堪能したピンクのオーラやオレンジのオーラだ。
疲れた時には、赤色のオーラが良く効く。
だが、一度食べたオーラは鮮度が落ちるのか、二度目三度目はあまり美味しくない。
その為同じ人物のオーラを食べることはまずない。 今日食した、あどけなさの残るピンク色のオーラはなかなか美味であったが二度目は無理だろう。
明日もまた死神閣下は新たな美味しいオーラを求めて円舞曲を踊る。
東の地の鬱蒼と繁る森の木々に半ば埋もれた古城には、百年の眠りから覚めた低体温低血圧な死神閣下と男嫌いの執事様が住んでいました。
日課である食事を早くも終えてしまった死神閣下はあてもなくフラリと町を歩いていた。
若い娘の黄色いオーラは可もなく不可もなくという感じだった。
人間の生気を糧とする死神閣下は、人の魂の色、オーラを視認することが出来た。
そんな死神閣下は美食家であったが、長い眠りから覚めてからというもの、閣下の眼鏡に叶う生気の持ち主は一人もいなかった。
「どこかに美味しそうなオーラの持ち主はいないだろうか」
まだ見ぬ極上のオーラを持つ者を求め今日も今日とて町をさ迷い歩く死神閣下。
そんな死神閣下の目の前を美しい青年が横切りました。
「なんて美味しそうな水色のオーラなんだ!」
死神閣下が白皙の美貌に蕩けそうな笑みを浮かべると道行く人々は皆、美しく色気のある男に見入った。 死神閣下の目を奪った青年を除いて。
「君」
死神閣下が声をかけると銀色の長髪を翻し青色の切れ長の瞳の青年が振り返った。
陶器のような白磁の肌に中性的な容貌の美しい青年は険のある視線を歩み寄ってきた美丈夫に向けた。
「私は今、非常に機嫌が悪い。その上、私は男が…特に、顔の良い男と醜い男が大嫌いです。八つ当たりなどしたくありませんのでさっさと失せてください」
既に青年の言葉は八つ当たり気味だったが、死神閣下は気にせずあっさりと謝罪をした。
「それは失礼をした。すまない」
死神閣下は自分が充分に美しい事を自覚していた。 稀代の彫刻家が精魂込めて作った容貌は女性的な訳ではなく彫りが深く整った顔立ちは男性としての魅力と色気に溢れていた。
「君の水色の生気があまりにも美味しそうだったゆえ」
「何を訳の分からないことを。大体なんです水色とは。赤や青ならともかく」
魅惑の低音に聞き惚れる事無く青年は不快げに眉を潜めた。
生気と言われて想像するのは、普通なら燃えるような赤や瑞々しく清らかな青だろう。
穏やかに微笑んでいた美しすぎる男は、不機嫌な青年の言葉に真紅の目を見開いた。ガシッと青年の肩を抑え熱弁を奮う。
「何を言う!清涼な気配に満ちた穢れなきオーラではないか!澄んだまるで余人が踏み入ることのない秘境の湖のようではないか!これほど生命力溢れた美しく見事な生気は何千年と生きているが初めてだ!!」
男は白く冷たい美貌を覗き込むようにしてうっとりと語る。接触による不快感を感じることなく青年は怒りを突き抜けて呆れた。
「分かった。誉め言葉として受け取ろう。――いい加減手を退けてくれ」軽い脱力感を覚え青年の言葉遣いが多少乱雑になった。手套越しに伝わる男の熱が酷く冷たく少し心がざわめいた。
「掛け値なしに誉め言葉なんだが。――すまない冷たかったか。特異体質なせいか、低体温低血圧でな。食事をすれば、少しは暖まるんだが…」
先程のオーラは食事とも言えない粗末な物だった。夜までの繋ぎに過ぎない。
「そうかではさっさと食事にすればいい。私は用があるのでこれで」
そっけなく答えると青年は、腰まである見事な銀糸を翻し躊躇いのない足取りで立ち去った。
「さようなら水色の君」
聞く者を陶酔させずには居られない低い美声を残し死神閣下も雑踏の中へと踊り出した。
「どうなさいましたのブラッドレイ様」
物思いに耽っていた死神閣下は不安げな顔のレディに蕩けるような笑みを向けた。
「何でもないのです。ただ貴女があまりにも可憐なので暫し時を忘れてしまいました」
ターンのために背中に手を添えられた子女は頬を染め俯いた。
「まあ、ブラッドレイ様たらお上手ですわね」
「俯いては行けませんよ。ワルツは優雅に気高く踊らなくては。私は感じたことを素直に伝えているだけ。美しい貴婦人を褒めない者など男の風上にもおけませんから」
「ブラッドレイ様…」
この世のものとは思えないほどの美しい男に巧みにリードされ緑のドレスを身に纏った子女はうっとりと身を委ねた。
彼女だけではなく、ホールで踊っているもの達ですら、男の可憐なステップに見惚れ、一片の歪みもない妖しく輝く血のような極上の瞳に酔いしれた。
幾人もの心を奪っておきながら死神閣下の心は遠い所にあった。
ほんの一時言葉を交わしただけだと言うのに数日前に出会った水色のオーラの青年が頭から離れなかった。
ふとした瞬間に光を閉じ込めたような深い青色の冴え冴えとした眼差しが鮮烈に蘇る。
彼にあって以来ますます人々の生気が色褪せ、気が進まないまま食事をすると味気なく物足りなかった。
死神閣下はこれ迄女性の生気しか吸っていなかったが、主義を覆してでも彼の水色のオーラを食してみたかった。
同性であっても握手位なら構わないだろう。
その程度ではおやつにすらならないが、例え雀の涙ほど微少であっても一度だけでも味わってみたい。
曲が終わり移り変わると身を離し閣下は子女を近くの男性に委ね壁際まで下がった。
「ワインは如何でしょう」 喧騒に紛れることのない涼しげなよく通る声を耳にし、閣下は驚きを露にした。
声の方に視線をやると広間の明かりを纏った銀糸に自然と感嘆の息が漏れた。美しいものに性別は関係ない。
「こんな濁ったワインが飲めるか!――ほうよくみるとなかなか整った顔立ちではないか。詫びに今宵付き合うがよい」
顔を大きくしかめていた中年の男は給仕の顔を目にした途端、臆面もなく喜色を浮かべた。
中年の男が銀色の長髪へと手を伸ばすと、青年は、素早く身を引き嘲笑した。
「どうやら赤ワインは高級すぎてお口に合わないようですね。失礼致しました。アルコールがそれほど強くないロゼワインを御出しするべきでした」
「なっ」
給仕の暴言と冷ややかな見下す視線に上品とは到底言えない男の赤ら顔が歪み気色ばんだ。
「それと夜伽を申し付ける前に一度ご自身の御尊顔を確認なさると要らぬ恥を掻かずにお済みになるかと。少なくとも私には自虐趣味はございませんので貴公のお相手は致しかねます」
「まあ」
「クスクス、嫌だわ」
「見苦しいことこの上ないですな」
歯を剥き出し怒りに真っ赤になった男に周囲から失笑がとんだ。
貴族とは思えない醜態をさらす男とは対照的に給仕の青年は、静かでそれでいて冷ややかであるのに何処か優雅さを感じさせる物腰だった。着ているものは普通の給仕服であるのに彼が着こなすと一級品にも劣らなかった。
「くっ首だ!よくも儂に恥を掻かせおって。お前など首だ。お前のような卑しく品性に欠けるものを雇うなど夜会の主催主の品位を疑うわ!!」
己の立場を弁えぬ男の暴言に周囲の人間の怒りに火がつく。
「んまっ――」
「極上のワインを一つくれないか」
貴婦人が金切り声をあげようとした瞬間、響いた豊かな美声に広間は静まり返った。
怒りに我を忘れかけていた中年男ですら聞き惚れるほどの低く魅力的な声にけれど青年は、軽く眉をあげるだけだった。
「香り高くほどよい温度だ。貴方もどうです。赤ワインは肉料理にとても合う」 給仕から受け取ったワインに軽く口づけ光に透かす仕草がなんとも堂に入っており、グラスを差し出されていることにも気が付かず中年男は呆けたように長身の美丈夫を見つめた。
「どうやら御気分が優れない様子。今宵は休まれては如何か」
男が苦笑すると周囲から切な気なため息が漏れた。 深紅の双眸に見入られたかのようなぎこちない足取りで中年が去ると広間に再びざわめきが戻った。
ちらちらと死神閣下と給仕の青年に視線が集まるが、美貌の二人を遠巻きにし、近付く者はいなかった。
「給仕だったのか」
「いえ、先日勤め先を首になったので」
男の美貌にたじろぐことなく青年が普通に接してくれることが閣下はこの上なく嬉しく、顔が綻ぶのを感じた。
「なんでまた。何でも器用にこなしそうな感じだが」
「所謂痴情の縺れと言うものです。勤め先の奥様に貴方が誘ったのにひどいわなどと訳の分からない事を言われ刃物まで持ち出され、取り押さえたところ旦那様が帰宅され追い出されというわけです」
「それはまた災難だったな。まあ天災だと思えばそれほど腹もたたないと思うぞ」
青年の境遇を死神閣下はしみじみと気の毒に思った。此だけの美貌を女性が放っておくわけがない。
身分の高い女性は得てして夢見がちな人が多い。
そんな人は得てして、中性的で品位の感じられる青年を前にして、仕事と好意を混同し、するべき事をしているだけだというのにこの人は私に好意を持っているに違いないと思い込み、自分に都合のいいようにしか言葉を受け付けず理解しない。
そんな人ばかりではないが、独りよがりな女性が多いこともまた事実だった。 閣下の声音に心からの労りを感じとったのか青年の冷ややかな雰囲気が緩んだ。
「明日からまた職探しです」
食探しと聞こえたのは気のせいだろうかと首を傾げつつ、閣下は思い切って青年にお願いした。
「いきなりで、不躾だが貴殿の水色のオーラを味見させて欲しい」
「何なんです一体。意味が分かりません」
「ワタシは人間と違い食物を摂取しない。その代わりに人々の生気つまりオーラを分けてもらうことで生きている。私を死神閣下と呼ぶ者もいる」
「人間ではないと?荒唐無稽と言いたいところですがあなたの存在は人外と言われた方が確かに納得できます。それで私に生気を提供しろと」
いつぞやのようにだんだんと青年の口調がぞんざいになっていったが閣下は少しも気にしていないようだ。
「ああ。駄目だろうか。ただでとは言わない。条件をつけてもらって構わん」
「そうですね…」
青年は考え込むようにトレーを持ってない方の手を顎に添えるとしげしげと死神閣下を眺めた。
「その身なりからして城の一つや二つお持ちでしょう?衣食住保障で執事として雇っていただけるなら手を打ちましょう」
「城と言っても百年近く放置したままだから廃墟と言っても差し支えないほどの有り様だ。使用人もいない故、執事の仕事など何もないぞ。それより庭師にならないか?城が半ば以上木々に埋もれ、このままでは森と同化してしまう」
「嫌です。手が荒れてしまう」
青年がにべも無く断り、踵を返そうとしたので、閣下はこの上なく焦りあっさりと降伏した。
「分かった執事で構わない。いや頼む。我が城の執事に」
「ではお引き受けします」
素直な閣下に青年は初めて笑みを見せた。
こうして東の森の古城には特異体質な死神閣下と男嫌いの執事様が暮らすことになりました。