生、と、ふたつの獣
ならば命を、人が、生きるという、その、最も偉大な仕事の内に、添えられるだけの言葉を、果たして、添えてきたのか。むしろ、それは、言葉を必要としていたか。あの、瑞々しさ、何の働きかけ、ゆえでもない、己の内部からの、激しいほとばしり。その流れを受けて、言葉はばらばらに、砕け散ったのでは、なかったか。それを、おお、詩人達、退廃の、詩人達よ、お前達は、四散する言葉に、しがみつき、もはや、意味を、放棄したのだ。言葉の、あの、命、そのものを。
この、無意味な、対峙、お前の、目の前の、ひとつの命に、一体、どれだけのものが、必要と言うのか。お前は見るだろう。命が連れた、ふたつの獣を。ひとつは赤く、天まで焦がすほどの、たぎる炎、それは、存在を打ち消す、心の大槍。人が、人で、あるための、己の核をくわえ、そして、情念に燃えている。その、激しさを、お前はきっと、侮蔑する。もうひとつは青く、泣き叫ぶ声が、人を、前に、進ませる。それは忘却、そして、思い出、お前はそこに、ともすれば、人が、どのように、生まれてくるのか、その、真実を、見つけるだろう。だが、そこには、お前にとっても、例外なく、至上の忘却が、待っている。お前が、心のあるふりをして、生に近付く時、一体、お前は、生の何に、触れられるというのか。向き合うため、と言うのか。だが、お前が、生の前で言葉を使う時、それは、逃げるため、では、ないのか。そうなのだ、もはや、ばらばらの、褪せた言葉達、その落ち葉に、隠れるように、ああ、退廃の詩人達、命が、どこからやってきたのか、それすらも、忘れてしまったのか。
生まれる、と言う。だが、自分を生むのは、自分ではないのか。あらゆるものが、響き渡っていた、あの、隠された洞窟から、人は、やってくる。それなのに、ああ、命に、言葉を添えようなどと――見つめたまえ、命は、そう、言葉、そのものではないか。お前が受け取るもの、そして、激流の、痛いほどの圧力、飛沫、飛び散る光、それらを感じたならば、お前はもう、言葉を、探さなくてもよいのだ。