第29話 脱出――帝都の夜
闇夜。帝国城塞、その離れの塔。
廊下には灯りが少なく、石壁に揺れる影だけが細く伸びていた。――静かすぎる。
神崎祐司は足音を殺し、扉の前に立つ。耳を寄せる。中の気配を探る。呼吸音――1つ。動きはない。(……いる)
ゆっくりとノブに手をかけ、回す。軋みは最小限。隙間を作り、身体を滑り込ませる。そのまま扉を閉じた。音は立てない。
室内。昼と同じ光景。中央に置かれた椅子。そこにエリシアは座っていた。微動だにせず、生きているのかすら曖昧なほど静かに。
神崎は1歩だけ近づく。呼吸を見る。胸がわずかに上下している。
ポーチから小瓶を取り出す。透明な液体。簡易の覚醒薬と鎮静の調整剤を混ぜたもの。強引に意識を引き戻す代物だが、副作用もある。
だが今はそれしかない。
神崎は片膝をつき、エリシアの顎へ手を添える。
「……少しだけ、我慢してくれ」
反応はない。それでも構わない。口をわずかに開かせ、瓶を傾ける。液体を流し込む。喉が反射的に動く。一滴も無駄にしないよう角度を調整し、すべて飲ませる。瓶を戻す。待つ。
数秒。――変化が出る。指先が微かに震え、呼吸が乱れる。眉がわずかに寄る。やがて瞳がゆっくりと揺れた。焦点が戻りきらないまま、それでも“何か”を探すように動く。
神崎は低く呼びかける。
「……王女さん」
エリシアの視線が止まる。神崎を捉える。ぼやけた視界の奥で、それでも理解している。(……この人は)
虚ろな時間も、完全に意識がなかったわけではない。聞こえていた。見えていた。ただ身体が動かなかっただけだ。その中で、この男だけが自分を“人”として扱っていた。
エリシアの唇がかすかに動く。声にはならない。だが意思は戻り始めている。
神崎はそれを確認し、即座に動く。
「行くぞ」
時間がない。窓際へ移動。外を一瞥。下は闇。巡回の気配はない。
装備からロープを引き出す。太く編み込まれた降下用ロープ。窓枠の内側、石の継ぎ目へフックを噛ませる。引く。ズレない。体重をかける。問題なし。
次にハーネス。自分の腰へ、エリシアの腰へ。締める。固定。緩みを確認。エリシアの身体を引き寄せる。軽い。あまりにも軽い。(……クソ)奥歯を噛むが、表には出さない。結束を二重で確認。完了。
エリシアがかすれた声を出す。
「……どこに……」
呼吸が続かない。それでも問いだけは残る。
神崎は短く答える。
「帝国から脱出する」
1歩、窓へ。冷たい夜風が吹き込む。エリシアの身体がわずかに震える。神崎は腕に力を込める。
「掴まってろ」
躊躇なく、踏み出した。
一瞬、身体が浮く。直後、ロープが張る。衝撃が腕と腰へ走る。握り込み、固定。
降下開始。
靴底を壁へ叩きつける。衝撃を逃がす。反発。次の1歩。壁を蹴る。身体を離す。ロープを滑らせる。再び壁へ。一定のリズム。訓練で染みついた動き。
夜風が顔を打つ。視界が流れる。塔の外壁が高速で過ぎていく。エリシアの身体が揺れる。腕に力を込める。絶対に落とさない。(……あと少し)
地面が迫る。距離を読む。最後の1蹴り。減速。着地。膝で衝撃を吸収。音は最小限。
すぐにロープを外す。エリシアを支え直す。
神崎は影へと滑り込む。振り返らない。
――もう、戻らない。
塔の影。地面へ降りた神崎の足が、静かに石を踏む。
直後――闇の中に、いくつもの気配。
視線を走らせる。荷馬車が1台。黒布で覆われ、灯りはない。その周囲に数人の影。武装している。だが――敵意はない。
神崎は1歩だけ前に出る。
そのとき、ひとりがゆっくりと歩み寄ってきた。
ローブを深く被った人物。顔は見えない。足取りは静かで無駄がない。
神崎の前で足を止める。
一拍。
そして――フードが外される。
現れたのは、少女。エリシアと同年代ほど。だがその雰囲気はまるで違う。瞳は鋭く、迷いがない。
纏うのはドレスではない。皇帝と同系統の、戦場を意識した鎧装束。腰には剣。ただ立っているだけで、周囲の空気を支配する。
帝国第一皇女――フィアナ・フォン・アルバストロ。
彼女は視線をエリシアへ向ける。一瞬だけ感情が揺れる。だがすぐに消え、冷静な顔に戻る。
神崎へ視線を移し、距離を詰める。
「……ここまで順調ですわね」
神崎は短く答える。
「問題ない」
フィアナは小さく頷く。
「荷馬車を用意しました。これで帝都からお逃げなさい」
神崎はフィアナを見る。
「……いいのか」
短い問い。
フィアナはわずかに目を細め、そのまま静かに口を開く。
「――こちらから接触させていただきました。」
「皇女の名で動けば、いくらでも情報は入ります」
「あなたがこの塔へ通っていることも、すぐに分かりましたわ」
一拍。
「そして――何をしようとしているのかも」
神崎は否定しない。
フィアナはエリシアへ視線を向ける。
「今の帝国は……おかしい」
空気が張り詰める。
「御父上は、もはや私達の言葉に耳を傾けません」
「次々と他国へ侵略を仕掛けている」
「元より帝国は軍事国家です。ですが――無意味に戦を仕掛ける国ではなかった」
一拍。
「変わったのは、2年前。統聖教という宗教を国教としてからです」
「教義は“秩序”と“支配”。人間こそが正しき存在とし、それ以外を下に置く思想」
神崎は黙って聞く。
フィアナは続ける。
「……そして、極めつけが勇者召喚です」
「このエリシア王女を媒介に、何度も繰り返されている」
「消耗するのは呼び出される者だけではありません。“繋ぐ側”も確実に削られている」
神崎の視線がエリシアへ落ちる。
フィアナは断言する。
「このままでは――この子は壊れる」
静寂。
フィアナはエリシアを見つめたまま、わずかに目を細める。
「……昔、一度だけ。この子と会ったことがありますの」
「まだ互いに幼い頃。王族同士の交流の場で」
「ほんの短い時間でしたが――よく覚えています」
「誰に対しても分け隔てなく接する子でした。身分も、立場も関係なく」
声がほんの少しだけ柔らぐ。
「……あの時と、何も変わっていない」
だが。
「変わってしまったのは、周りです」
フィアナは一度、目を閉じる。
そして再び開いたときには、いつもの冷静な表情に戻っていた。
「……だから」
「見過ごせません」
帝都の外縁へ向かう道。
荷馬車は音を殺すように進んでいた。車輪の軋みすら抑えられ、馬も訓練された個体だ。無駄な動きはない。
街は、静まり返っていた。
夜更け。本来なら人通りは少ない時間帯だ。
だが――
(……おかしい)
御者台に座るフィアナの視線が細くなる。
静かすぎる。物音がない。
人の気配が、まったくない。
窓の向こう、建物の隙間、路地の奥。
どこにも“生活の痕跡”がない。
(……消えている?)
違和感が確信へ変わる。
「……止めなさい」
低く告げる。御者が手綱を引く。
馬が止まる。
その瞬間――
「――そのままでいい」
声。
横の闇からだった。
空気が凍る。
護衛たちが即座に散開する。
円を描くように位置を取り――
中心は、荷馬車。守るべき対象はひとつ。
エリシアが乗る荷台。
武器が抜かれる。
視線が闇へ集中する。影が、動いた。
石壁から剥がれるように、一人の男が姿を現す。
迷彩服。無駄のない立ち姿。
松岡勝
その場に立つだけで、空気の支配権が塗り替わる。
神崎の目が細くなる。
(……やっぱり来たか)
松岡はゆっくりと歩み寄る。
足音は小さい。
だが確実に距離を詰めてくる。
進路を遮る位置。
護衛は動かない。陣形は崩さない。
松岡の足が止まる。
数メートル。
互いの間に、緊張だけが張り詰める。
そして――
松岡が口を開いた。
「こんな時間に、そんな大荷物を抱えてどこへ行く」
一拍。
視線が、フィアナへ移る。
「――フィアナ皇女」
静かな声。
逃げ道を塞ぐ言葉だった。
フィアナは御者台からゆっくりと立ち上がる。
動揺はない。
「……夜の散歩ですわ」
即答。
表情も崩さない。
松岡はわずかに口元を歪める。
「それにしては、準備がいい」
視線が荷馬車へ落ちる。
一瞬だけ。
奥を“見る”気配を読む。
「……中身は何だ?」
神崎の手が、わずかに動く。
低い声。
それだけで、空気が押し潰される。
護衛の1人が耐えきれず踏み出す。
「貴様――」
次の瞬間。音が消えた。
松岡が動く。
一歩。
それだけで距離が消える。
手刀が喉元へ叩き込まれる。鈍い音。
護衛が崩れ落ちる。
一切の無駄がない。
残りの護衛が一斉に構える。
だが、陣形は崩さない。
あくまで――
荷馬車を守る配置。
神崎は歯を食いしばる。
(……別格だ)
松岡は倒れた兵に目もくれない。
視線は、荷馬車へ向いたまま。
そのまま、口を開く。
「……このまま逃げて、どうなる」
静かな声。
だが、確実に届く距離で投げられた言葉だった。
神崎の指先が、わずかに止まる。
松岡は続ける。
「外へ出たところで終わりだ」
一歩、踏み出す。
「帝国の外に出れば安全だとでも思っているのか?」
「追うぞ」
断言。
感情はない。ただの事実。
フィアナの視線がわずかに揺れる。
松岡の言葉は、現実だった。
「帝国の戦力は、お前が知っているはずだ」
神崎の喉が、わずかに動く。
否定できない。
「逃げ切れる距離じゃない」
さらに一歩。圧が増す。
「その状態の王女を抱えて、どこまで持つ」
松岡の視線が、荷馬車の奥を射抜く。
「途中で潰れる」
言い切る。
逃げ道を、理屈で塞ぐ。沈黙。
神崎は答えない。
だが、止まってもいない。
松岡がわずかに目を細める。
「……それでも行くか」
短い問い。
選択を突きつける。
沈黙。
神崎は一度だけ、目を閉じる。
そして――馬車の外に飛び出す。
迷いはなかった。
「……それでも行く」
低く、はっきりと言い切る。
一歩も引かない。
荷馬車の前に立つ位置は、そのまま。
松岡は、その答えを聞いて――
わずかに口元を歪めた。笑った。
「……そうか」
短く吐く。
そのまま、視線を神崎から外す。
興味が失せたように。そして――
「行け」
一言。
空気が止まる。
神崎の目がわずかに揺れる。
「……は?」
理解が追いつかない。
松岡は続ける。
「見逃してやる」
淡々とした声。冗談ではない。本気だ。
フィアナの瞳が鋭く細まる。
(……何を考えている)
神崎は動かない。
罠の可能性を捨てきれない。
松岡は肩をわずかにすくめる。
「今で十分だ」
それだけ言う。
そして、視線を荷馬車へ向ける。
「これ以上は要らない」
意味を含んだ言葉。
神崎の眉がわずかに寄る。
松岡は続ける。
「5人目を見た」
一拍。
「戦場の人間じゃない」
断言。
「使えないとは言わんが……即戦力にはならない」
フィアナの視線が揺れる。
松岡の分析は正確だった。
「王女も、もう限界だ」
冷たく言い切る。
荷馬車の奥を見据える。
「これ以上、召喚を繰り返しても――」
一瞬、言葉を切る。
「まともに使える保証がない」
沈黙。
重い現実だけが残る。
松岡は一歩、下がる。完全に道を開ける。
「なら」
静かに言う。
「今いる戦力で整えた方が早い」
合理。
それだけだった。
神崎は、松岡を見る。何も変わらない。
昔の面影は、どこにもない。
だが――
「……チッ」
小さく舌打ちする。
「行くぞ」
短く言う。
御者が手綱を打つ。荷馬車が動き出す。
神崎は最後まで視線を外さない。
松岡も、追わない。ただ、立っている。
やがて――
荷馬車は闇へ消える。
静寂。
松岡はひとり、そこに残った。
視線だけが、遠ざかる闇を見ている。
「……さて」
小さく呟く。
「次だ」
荷馬車は闇の中を進み続ける。
帝都の外壁が、やがて視界に浮かび上がる。
巨大な城門。
夜間は閉ざされているはずのそれは――
静かに、開いていた。
事前に手が回されている。
フィアナの力だ。
荷馬車は減速することなく、そのまま門を抜ける。
空気が、わずかに変わる。
その瞬間――
「……ここまでですわ」
御者台のフィアナが、静かに告げた。
手綱を引く。荷馬車が止まる。
神崎の視線が上がる。
「……何だと」
フィアナは振り返る。その表情に迷いはない。
「私はここまでです」
言い切る。
「この先は、あなた達だけで行きなさい」
神崎の眉が寄る。
「ふざけるな。ここまで来て――」
「残ります」
遮るように言う。
声は静か。
だが、絶対に揺らがない。
「帝都には、まだやるべきことがある」
一歩、荷馬車から降りる。地面に立つ。
その姿は、すでに“皇女”だった。
「ここで私まで抜ければ、内部は完全に閉じます」
視線を帝都へ向ける。
「それでは意味がない」
短く息を吐く。
「中から崩さなければ、止まりません」
神崎は言葉を失う。
理解してしまったからだ。
この女は――
最初から、戻るつもりだった。
フィアナはエリシアへ視線を向ける。
一瞬だけ。
ほんのわずかに。表情が緩む。
「……次に会うときは」
言葉を切る。
そして――
「まともな場所で会いましょう」
それだけ言う。
神崎へ視線を戻す。
「時間がありません、お行きなさい」
命令ではない。
だが、従わせるだけの重さがあった。
神崎は数秒、動かない。
そして――
「……死ぬなよ」
短く言う。
フィアナはわずかに笑った。
「ええ」
それだけで十分だった。
神崎が御者へ合図する。
荷馬車が動き出す。
フィアナは、その場に残る。
帝都の門が、ゆっくりと閉じていく。
闇が、それを飲み込む。
完全に閉じる直前――
帝都の内へ、戻っていく。
――
神崎は振り返らない。視線を前へ戻す。
「……行くぞ」
低く告げる。
馬が地を蹴る。
荷馬車が夜の森を走り出す。
揺れる車内。
エリシアの身体がわずかに揺れる。
神崎は懐から取り出す。
折り畳まれた紙。
フィアナから渡された地図。
それを開く。
月明かりの下、簡易的に描かれた経路。
検問の配置、巡回の間隔、抜け道。
そして――
最終地点。
神崎の目が細くなる。
「……レグナルト連邦」
小さく呟く。
帝国に匹敵する大国。
だが、どの勢力にも属さない“中立”を掲げる国。
だからこそ――まだ、届く。
「……そこまで持たせる」
誰に言うでもなく、呟く。
荷馬車は速度を上げる。闇を切り裂くように。
帝都を背に――




