009
部屋に戻ってからも、ルシェルはゼノンの哀しげな表情を思い出していた。
(遊び人があんな顔をするかしら…?随分と大切に想っている人がいるように見えたけど……まあ、でも私には関係のないことよね……)
「あっ、そういえば……」
ルシェルは鏡台の引き出しから、小箱を取り出した。
ゼノンの来訪に合わせて用意した、ハンカチとライラックの花の香りを閉じ込めた小瓶が入ったあの小箱だ。
(今から渡しにいくのは……流石に失礼かしら……?)
ルシェルはそう思いつつも、再び身支度を整え、ゼノンが滞在している客殿へ向かうことにした。
ーー客殿にて。
《コンコンコン》
ルシェルが扉を叩くと、「はい、どなたでしょう?」とゼノンが半裸状態で現れた。
「………!?」
「あっ……ルシェル様!?どうなされたのですか?」
(いいから……早く服を着てちょうだい……)
ルシェルが目のやり場に困っていると、「これは、失礼しました!少々お待ちを」と
ゼノンが部屋に一度戻り、服を羽織って再び扉を開けた。
「……あ、あの……ごめんなさい。もうお休みになるところでしたか?でしたら明日、出直しますので……」
ルシェルはまだ少し動揺していることを隠すかのように、冷静な表情で聞く。
「いえいえ!まだ休んでなどおりませんよ。月を眺めていたのです。今夜の月は、いつも以上に美しく見えたものですから」
「そうですか……。確かに、今夜の月は美しいですね」
ルシェルは、月を眺めるゼノンの横顔を見て、なぜか言いようのない愛おしさを感じた。
「あの……よければ中でお茶でもいかがですか?」
ルシェルは一瞬迷ったが、こんなに遅い時間に他国の皇太子のもとを訪れただけでも怪しいのに、
部屋にまで入るわけにはいかないと思った。
「あ……いえ……すぐに済みますので……」
「そうですか……」
ゼノンは少し残念そうな顔をしている。
「あの、実は……お渡ししたいものがあって来たのです。ごめんなさい………別に明日でも良かったのですが、せっかくライラックの花を好きになったと仰ってくださったので………できるだけ早くお渡ししたくて」
そういうと、ルシェルはあの小箱をゼノンに手渡した。
「……これは?」
「本当は、ゼノン様が来訪された日に、お渡しするはずだったものです。刺繍入りのハンカチと、ライラックの花の香りを閉じ込めた小瓶なのですが……あくまで私個人からの来訪記念の贈り物ですので、気負わずに受け取っていただければと思います。たいしたものではなくて申し訳ありません……」
「いいえ、本当に……すごく……すごく、嬉しいです……。ありがとうございます……」
ゼノンは照れたように頬を赤らめ、それから、ぐっと涙を堪えているように見えた。
(随分大袈裟に喜ぶのね………渡しに来てよかったわ)
その様子に、釣られてルシェルもなんだか不思議な気持ちになった。
「本当に……今までもらったどんな贈り物より嬉しいです。ハンカチの刺繍も美しいですし、ライラックの香りもとても気に入りました。この香りを嗅ぐたびに、ルシェル様のことを思い出しますね。本当にありがとうございます」
「……えぇ。そこまで喜んでいただけるとは思いませんでした。気に入っていただけたのなら、よかったです。では、私の用はこれだけなので……。失礼します」
「ええ。いい夢を見てくださいね。おやすみなさい、ルシェル様」
「ゼノン様も、どうかいい夢を。おやすみなさい」
ーーそれからルシェルは、急いで部屋に戻った。
あのままゼノンといたら、これまで寂しかった気持ちを全て彼にぶつけてしまいそうだと思ったからだ。
ノアが記憶をなくしてからの日々。寂しくて、苦しかった。
けれど、皇后としての自分の立場がそれを許さない。
自分には守るべき国と民、そして今は記憶をなくしているが、それでも誰よりも愛するノアがいる。
ルシェルには、自分の中で悲しみを受け止める以外に方法はなかった。
それでもゼノンを見ていると彼に全てを任せて、甘えてしまいたくなるようなそんな瞬間がある。
出会ったばかりなのになぜこんな気持ちになるのか、不思議だった。
(なんだか……私らしくないわ……)
ふと、あの銀色の蝶のことが頭をよぎった。
***
ゼノンがヴェルディア帝国に滞在してからというもの、ルシェルが夜の庭園に行く回数が減っていた。
理由は二つある。
一つ目は、ゼノンの滞在によって、皇后としての務めが増えていたこと。
そしてもう一つは、あの"銀色の蝶"が姿を現さなくなったからだ。
かつて毎夜のように訪れていた、あの静謐な場所。
花が咲き、星が揺れ、そして――銀色の蝶が舞う、あの庭が……あの庭だけが……ルシェルにとっての支えであったのにーー。
「……来てくれないのね、今夜も」
小さく呟いても、返事はない。
あの蝶…あの優しく、儚く、美しい光の化身は、ゼノンが来てから一度も姿を見せていなかった。
(まるで、私の心を見透かしたように……)
ルシェルは、頭の中でゼノンのことを思い浮かべていた。
そうして蝶に会えないまま、その夜も過ぎていった。




