008
翌日、朝からゼノンがルシェルの部屋を訪れる。
「皇后陛下、ゼノン・アンダルシア皇太子殿下がお越しになっておりますが.......いかがいたしますか?」
侍女のエミリアが少し戸惑いながら様子を伺う。
「わかったわ。じゃあエミリア、急いで支度を手伝ってくれる?」
「かしこまりました」
(こんなに朝早く何かしら)
ルシェルは身支度を整えるとゼノンを迎え入れた。
「ルシェル様、ご機嫌いかがですか?」
「ええ、ゼノン様こそ昨夜はよく眠れましたか?」
「私はあなたにお会いできたおかげで素敵な夢を見ることができましたよ」
ゼノンは優しく微笑んでみせる。
「ところで、こんなに朝早くにいかがなさいましたか?」
「申し訳ありません。昨日散策をご一緒いただけるとお約束いただけたので、楽しみで......いつもより早くに目が覚めたのです。なのでルシェル様さえよろしければこれからご一緒できればと思い.....」
ゼノンは少し照れたような仕草を見せつつも、凛々しい顔でルシェルをまっすぐに見つめていた。
「そうでしたか。では朝食を食べてから宮殿内もご案内しましょう」
「そうですね、そうしましょう。ありがとうございます!」
ゼノンは楽しそうに答える。
ルシェルはゼノンが普段見せる表情と自分の前でだけ見せる表情に少し戸惑っていた。
***
「では、ゼノン様こちらへ」
朝食も済ませて、ルシェルは宮殿内を案内し始めた。
ある程度案内を終えた頃、ルシェルは昨夜のゼノンの申し出を思い出した。
「昨日の庭園にも行かれますか?お花がお好きなようでしたし、昨夜庭園散策のお相手をしてくださると言っていたので」
「よろしいのですか?」
「ええ、もちろんです。あの美しい花たちも、私にしか見てもらえないなんて可哀想ですもの」
ルシェルは少し俯いて悲しい表情を見せたが、すぐに話し始めた。
「では、一通り宮殿内もご案内できましたので、庭園に向かいましょう」
「はい!」
ルシェルとゼノンが庭園へ向かうために中庭に差し掛かった時、「皇后陛下、皇太子殿下、ご機嫌よう!」とイザベルがいつもより明るい声で2人を呼び止めた。
「イザベル様、ご機嫌いかがですか。お初にお目にかかります」
ゼノンは先ほどの表情とは打って変わって、冷たい表情で挨拶を返した。
「お二人で何をされていたんですか?私はこれから陛下のところに行くのですが、ご一緒にいかがですか?」
イザベルの懐妊がわかってから2ヶ月が過ぎていた。
懐妊してからというもの、イザベルの態度は以前にも増して挑発的になった。
「いいえ、結構よ。私は皇太子殿下に宮殿の案内をしているところだから」
ルシェルは冷たくい言い放つ。
「そうですか、それは残念です。でも皇太子殿下はなんだか楽しくなさそうですね」
「いいえ、私はイザベル様がいらっしゃるまでは大変楽しんでおりましたよ。そろそろ失礼してもよろしいでしょうか?まだ、皇后陛下にご案内いただいている最中なので」
ゼノンはルシェルに手を差し出し、「では参りましょう」とイザベルに背を向けた。
「ゼノン様、先ほどはありがとうございました」
「何がですか?」
「いえ、私も早くあの場を離れたかったので」
「そんなことですか。私も早くルシェル様と庭園にいきたかっただけですよ」
(.....また優しい笑顔に戻った)
ルシェルは自分にだけ見せてくれるゼノンの表情に優越感を感じ始めていた。
「どうしました?」
「.....え?」
「いえ、なんだか楽しそうに見えたので」
(え、私そんなに顔に出ていたのかしら......)
ルシェルはなんだか少し恥ずかしくなったが、ゼノンは変わらず優しく微笑んでいた。
ーー話しているうちに庭園に到着した。
「ルシェル様、辛くはないですか?」
「何がです?」
「皇帝陛下のことは噂で聞きました。ルシェル様の記憶を無くされた上に、側室まで迎えられ、それに懐妊の件も....」
「そうですね.......辛くないと言えば嘘になりますね。ですが、私はこの国の皇后として陛下を支えていかなくてはなりません。それに、こんなことになってもいまだに信じているのですよ。いつかきっと陛下の記憶が戻るって......私たちは幼い頃から共に歩んできましたからね」
「そうですか.....」
しばらく沈黙が続き、ゼノンが話し始めた。
「私にも以前、とても大切に思っていた人がいたのです。その人はきっと私のことを覚えていないだろうけど、それでも私は例え彼女の記憶の中に私がいなくても、その人が笑顔で過ごせているのならそれでいいと思ってました」
ゼノンは哀しげな表情を見せる。ゼノンの悲しげな表情に、ルシェルは少し胸が痛んだ。
(ゼノン様も辛い経験をしたことがあるのかしら....?)
「ゼノン様にも大切に思う方がいるのですね。その方はきっとゼノン様にそんなふうに思ってもらえるほど素敵な方なのでしょうね」
「そうですね、とても素敵な人です」
「......」
「ところで、これはなんていう花ですか?」
ゼノンは目の前の花を指差した。
「これはライラックというのですよ」
「ライラック.....あなたの瞳の色と同じですね」
「そうでしょうか....」
ルシェルは照れたように返した。
(なんだか昔もこんなことを言われたような気がするのだけど.....誰に言われたのかしら。ノアだったかしら?)
「ええ、あなたの瞳の色と同じでとても綺麗です。この花が好きになりました」
「そうですか.....。では日も暮れてきましたし、そろそろ戻りましょうか.....」
「ええ、そうですね。またぜひご一緒させてくださいね」
「はい。もちろんです」
「ありがとうございます!」
ゼノンの微笑みにルシェルは久しぶりに安らぎを感じたのだった。