008
翌朝。
「皇后陛下、アンダルシアの王子殿下がお越しになっておりますが…いかがいたしましょう?」
侍女のエミリアが、少し戸惑いながらルシェルの様子を伺う。
「わかったわ。じゃあエミリア、急いで支度を手伝ってくれるかしら?」
「はい、皇后陛下」
(こんなに朝早く何事かしら?)
ルシェルは急いで身支度を整え、ゼノンを迎え入れた。
「ルシェル様、ご機嫌いかがですか?よく眠れましたか?」
「ええ。ゼノン様こそ、異国の地で眠れなかったのではないですか?」
「いいえ。私は庭園であなたにお会いできたおかげで、素敵な夢を見ることができました」
ゼノンは優しく微笑んでみせる。
そんなゼノンの様子に、侍女のエミリアは不思議そうな表情だ。
「…と、ところで、こんなに朝早くにどうされましたか?」
「あぁ、これは申し訳ありません。昨日、散策をご一緒いただけるとお約束いただけたので、あまりにも楽しみでいつもより早くに目が覚めたのです。なのでルシェル様さえよろしければこれからご一緒できればと思い……」
ゼノンは少し照れたような仕草を見せつつも、凛々しい顔でルシェルをまっすぐに見つめていた。
「……そうでしたか。では、庭園散策の前に、宮殿内をご案内しましょう」
「ありがとうございます!」
ゼノンの笑顔は、ルシェルの気持ちを明るくしてくれるようだった。
***
宮殿内。
庭園散策はゆっくりしたいとのゼノンの申し出で、ルシェルは先に宮殿内を案内することにした。
宮殿内の最も陽の光の当たる広間には、大きな壁画がある。
「ここは、かつてヴェルディアにいたという精霊たちを描いた壁画なのです。私はこの壁画がとても好きで、よく見に来るのですよ」
「……そうでしたか。とても素敵な壁画ですね」
ゼノンの表情はどこか悲しげで、遠くを見ているようだった。
「ゼノン様?」
ルシェルはゼノンの見たことのない表情に戸惑った。
「……あぁ、申し訳ない。あまりにも素敵な壁画なので、見入っておりました」
(なんだか別のことを考えていたようだったけれど…)
「お気に召したなら何よりです。アンダルシアには今でも精霊がいるのですよね?とても興味深いです」
「…でしたら、ぜひアンダルシアにもいらして下さい。精霊たちも喜ぶでしょう」
「精霊ですか…きっと、この絵画の精霊たちのように美しいのでしょうね」
「ええ、きっとルシェル様もアンダルシアを気にいるはずです」
ゼノンはどこか寂しそうに見えた。
***
一通り、宮殿内の案内を終え、2人は庭園に向かっていた。
「では、一通り宮殿内もご案内できましたので、庭園に向かいましょう」
「はい、楽しみです」
ルシェルとゼノンが庭園へ向かうために中庭に差し掛かった時、イザベルが普段より明るい声で2人を呼び止めた。
「皇后陛下、王子殿下、ご機嫌よう」
「これは、イザベル様。どうも、ゼノン・アンダルシアです」
ゼノンは先ほどの表情とは打って変わって、冷たい表情で淡々とイザベルに挨拶を返した。
「お二人で何をされていたんですか?私はこれから陛下のところに行くのですが、ご一緒にいかがですか?」
イザベルの懐妊がわかってから2ヶ月が過ぎていた。
懐妊してからというもの、イザベルの態度は以前にも増して挑発的になっていた。
「いいえ、結構よ。私は王子殿下に宮殿の案内をしているところだから」
ルシェルは淡々と言い放つ。
「そうですか…それは残念です。…でも、王子殿下はなんだか楽しくなさそうですね?」
「いいえ、とんでもない。私はイザベル様がいらっしゃるまでは、大変楽しんでおりましたよ」
「……え??それはどういう……」
イザベルが驚いた表情でゼノンを見ている。
「そろそろ失礼してもよろしいでしょうか?皇后陛下に宮殿をご案内いただいている最中ですので」
ゼノンはイザベルに一礼すると、ルシェルに手を差し出した。
「では参りましょう、皇后陛下」
そういうと、ゼノンはルシェルの手をひき、イザベルに背を向けて歩き出した。
「ゼノン様、先ほどはありがとうございました」
「何がですか?」
「いえ、私も早くあの場を離れたかったので……」
「なんだ、そんなことですか。私も早くルシェル様と庭園にいきたかっただけですよ。邪魔が入ってはたまりませんからね」
ゼノンは微笑んだ。
(あ.....また優しい笑顔に戻った)
ルシェルは、ゼノンが自分にだけ見せてくれる優しい笑顔や、その表情に優越感を感じた。
「どうしました?」
ゼノンが不思議そうにルシェルの顔を覗き込む。
「.....え?」
(ちょっと…顔が近い…)
「いえ、なんだか楽しそうに見えたので」
ルシェルは咄嗟に自分の頬を触った。
(え、私そんなに顔に出ていたのかしら......)
ルシェルは少し恥ずかしくなったが、ゼノンは変わらず優しく微笑んでいた。
そうして話しているうちに、2人は庭園に到着した。
「ルシェル様、その……お辛くはないですか?」
「…何がです?」
「皇帝陛下のことは噂で聞きました。ルシェル様の記憶を無くされた上に側室まで迎えられ…それにご懐妊の件も…」
ゼノンはルシェルの顔色を伺うように話す。
「…そうですか、アンダルシアにまで噂が届くとは、お恥ずかしい限りです。そうですね……辛くないと言えば嘘になりますが…私はこの国の皇后になるべく幼い頃から励んできました。皇后であるということは私にとって生き甲斐なのです。決してノアのためだけに皇后になったわけではないからこど、私は強くいられるのだと思います。それに、こんなことになってもまだ…信じているのですよ。いつかきっと陛下の記憶が戻ると。私たちは幼い頃から共に支え合ってきましたからね…」
「…そうなのですね」
しばらく沈黙が続き、ゼノンが話し始めた。
「私にも昔……いえ以前、とても大切に思っていた人がいたのです。それこそ、この命に変えても守りたいと思うほどに大切な人が。きっと彼女は私のことを覚えていないけれど、それでも例え彼女の記憶の中に私がいなくても……彼女が今幸せに生きているのなら、それでいいと思っています」
ゼノンは哀しげな表情を見せる。その表情に、ルシェルは少し胸が痛んだ。
なぜか、彼の哀しい顔は見たくなかった。
(ゼノン様も辛い経験をしたのね....)
「ゼノン様にも大切に思う方がいたのですね。その方はきっと、ゼノン様にそんなふうに思ってもらえるほど……とても素敵な方なのでしょうね」
「……ええ、そうですね。本当に、とても素敵な人です」
ルシェルは何故か胸が痛んだ。
「......」
「…この花は、本当に美しいですね」
ゼノンは目の前には、ライラックの花が一面に広がっている。
「これはライラックというのですよ」
「ライラック…あなたの瞳の色と同じですね」
「…そうでしょうか」
ルシェルは照れたように返した。
(なんだか前にも言われたような気がするのだけど…誰に言われたのかしら?…ノアだったかしら?)
「ええ、あなたの瞳の色と同じで、とても美しいです。この花がとても好きになりました」
「…そうですか。気に入っていただけて良かったです。では日も暮れてきましたし、そろそろ戻りましょうか?」
「ええ、そうですね。また、ご一緒させてくださいね」
「えぇ、ぜひ」
「ありがとうございます」
ゼノンの微笑みにルシェルは安らぎを感じたのだった。
***
部屋に戻ってからも、ルシェルはゼノンの哀しげな表情を思い出していた。
(遊び人があんな顔をするかしら…?随分と大切に想っている人がいるように見えたけど…)
「あっ、そういえば…」
ルシェルは鏡台の引き出しから、小箱を取り出した。
ゼノンの来訪に合わせて用意した、ハンカチとライラックの花の香りを閉じ込めた小瓶が入ったあの小箱だ。
(今から渡しにいくのは流石に…)
ルシェルはそう思いつつも、再び身支度を整え、客殿へ向かうことにした。
ーーゼノンが滞在している客殿
《コンコンコン》
ルシェルが扉を叩くと、「はい、どなたでしょう?」とゼノンが半裸状態で現れた。
「…」
「あっ…ルシェル様!どうなされたのですか」
(いいから早く服を着て…)
ルシェルが目のやり場に困っていると、「失礼しました!少々お待ちを」とゼノンが部屋に一度戻り、服を羽織って再び扉を開けた。
「あ、あの…ごめんなさい。もうお休みになるところでしたか?」
ルシェルはまだ少し動揺していることを隠すかのように、冷静な表情で聞く。
「いえ、月を眺めておりました。今日の月はいつも以上に美しく見えたもので…」
「そうですか…。あの、実はお渡ししたいものがあって来たのです。ごめんなさい…別に明日でも良かったのですが、せっかくライラックの花を好きになったと仰ってくださったので、できるだけ早くお渡ししたくて」
そういうと、ルシェルはあの小箱をゼノンに手渡した。
「…これは?」
「本当は、ゼノン様が来訪された日にお渡しするはずだったものです。刺繍入りのハンカチとライラックの花の香りの小瓶なのですが、あくまで私個人からの来訪記念の贈り物ですので、気負わずに受け取っていただければと思います」
「…すごく、嬉しいです。ありがとうございます…」
ゼノンは照れたように頬を赤らめ、それからぐっと涙を堪えているように見えた。
(随分大袈裟に喜ぶのね…)
その様子に、釣られてルシェルもなんだか不思議な気持ちになった。
「実は、あの日いただいた薔薇はどうにも香りが好きになれなくて…。あっ、申し訳ありません!でも、このライラックの香りはとても好きです。この小瓶の香りを嗅ぐたびに、ルシェル様のことを思い出しますね」
「…えぇ」
ーーそれからルシェルは、急いで部屋に戻った。
あのままゼノンといたら、これまで寂しかった気持ちを全て彼にぶつけてしまいそうだと思ったからだ。
ノアが記憶をなくしてからの日々。寂しくて、苦しかった。
けれど、皇后としての自分の立場がそれを許さない。
自分には守るべき国と民、そして今は記憶をなくしているが、それでも誰よりも愛するノアがいる。
ルシェルには、自分の中で悲しみを受け止める以外に方法はなかった。
それでもゼノンを見ていると彼に全てを任せて、甘えてしまいたくなるようなそんな瞬間がある。
出会ったばかりなのになぜこんな気持ちになるのか、不思議だった。
(なんだか私らしくないわ…)
ふと、あの銀色の蝶のことが頭をよぎった。