048
――夜明け前。
宮殿内は、まだ眠っているようでいて、確実にざわついていた。
昨夜の宴で起きた“事件”は、すでに宮殿中を巡っている。
「……陛下、少しお休みを」
カインの低い声が、静かな寝室に響いた。
「必要ない」
ノアは短く答えた。
寝台の脇に座り、イザベルの寝顔を見下ろしたまま、彼女から視線を外さない。
医師はすでに下がり、室内には二人きり――いや、正確には三人分の存在があった。
眠るイザベルと、腹の子、そして、どこか様子がおかしい皇帝ノア。
「容体は安定しています。今は、陛下がここにいらっしゃる必要は……」
「ある」
カインの言葉を遮るように、ノアは言った。
その声音は穏やかだった。
だが、決定事項を告げる声音でもあった。
「私は彼女のそばにいなくてはいけない」
(……?)
その言い回しに、カインは言いようのないひっかかりを覚えた。
昨夜までは、ノアは確かに迷っていた。
イザベルのもとへ行くべきか、皇后のもとへ戻るべきか。
皇帝としてーー父親としての責務と、夫としての後悔の間で揺れていたはずだ。
だが今は、迷いが一切ない。
それが、カインを戸惑わせていた。
「陛下、……皇后陛下は、イザベル様の侍女の件で、動かれるそうです」
カインはノアの反応を確かめるために、敢えて皇后の話を出す。
ノアの視線が、一瞬だけ揺れた。
だが、それは“動揺”というより、
何かが起きていることを思い出した程度の反応だった。
「……そうか」
それだけだった。
カインの胸に、不安がよぎる。
(陛下は、皇后陛下のことを、気にされていないのか……?)
いや、そんなことはあり得ない。
「陛下」
カインは、声を整えて、もう一度話す。
「此度の件は、宮殿全体を揺るがす問題です。皇后陛下のお立場も――」
「分かっている」
ノアは静かに言った。
カインは、それ以上、何も言えなかった。
***
皇后の私室には、まだ灯りが残っていた。
カーテン越しに差し込む薄青い光が、部屋の輪郭を静かに浮かび上がらせている。
ルシェルは椅子に腰掛けたまま、手元のカップに口をつけていなかった。
湯気はとっくに消え、香りだけがかすかに残っている。
「皇后陛下……少しでも、お休みになった方が……」
エミリアが、不安げに呼びかける。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
ルシェルは視線を上げずに答えた。
疲労は確かにある。だが、眠れる状態ではなかった。
エミリアは一歩近づき、ためらいがちに口を開く。
「ユリアナの件ですが……」
その名に、ルシェルの指が微かに動いた。
「彼女は今、別室に……拘束、というほどではありませんが、監視の下に置かれています」
「ええ。そうなるでしょうね」
「彼女が疑われるのは、立場上、避けられない」
一拍置いて、続ける。
「けれど……私は、そこに納得がいかないの」
エミリアが顔を上げる。
「ユリアナは、薬師の家系で育った子よ」
それは事実として、淡々と告げられた。
「薬を“作る側”の人間はね、自分が関わる飲み物や薬草に対して、必要以上に慎重になるものよ」
エミリアは、何も言わずに聞いている。
「器の状態、湯の色、沈殿、香りの変化……何も起きていないことを確認する癖が、身についているはず」
ルシェルは静かに言葉を選んだ。
「ユリアナなら、“異変がない”ことを、無意識にでも確かめるはずなの」
「……それが、なかったと?」
「いいえ」
ルシェルは、そこで首を振った。
「“確かめる必要がなかった”ように見えるの」
エミリアは息を呑んだ。
「彼女は、イザベルに飲み物を渡すとき、少しも警戒していなかった……」
言葉を切る。
「エミリア」
「はい」
「ユリアナは、飲み物を用意する過程に、どこまで関わっていたの?」
「……杯と水は、あらかじめ、給仕台に用意されていたものです。ユリアナは、それを取って、イザベル様にお渡ししただけ、と……」
その瞬間、ルシェルの中で、いくつかの点が、一本の線で繋がった。
「彼女は、“中身を変えられる状況”にいなかった。つまり、給仕台に置かれた時点で問題があったか、
――あるいは」
ルシェルは、言葉を続けなかった。
だが、エミリアには、はっきりと伝わっていた。
第三の可能性だ。
イザベルが、“用意されたように見せかけたもの”を自ら口にした……という可能性ーー。
「昨夜、イザベルが倒れた直後……床に落ちた杯の中身は、どうなっていたかしら」
エミリアは一瞬考え、答える。
「ほとんど、こぼれていました。割れた器に付着していた程度で……」
「そう」
ルシェルは、小さく頷いた。
それは偶然にも見える。
だが、検証される余地が、最初から消えていたとも言える。
だが、様々な思考の端で、別のことがルシェルの中で引っかかっていた。
「エミリア」
「はい」
「陛下は、今どちらに?」
「……イザベル様の寝室でございます……」
その答えに、ルシェルは目を伏せた。
「そう……。陛下がイザベルのもとにいらっしゃるのは、当然のことよ。イザベルと……お腹の子の、命が関わっているんだもの」
「……でも」
ほんの一瞬、唇が揺れた。
「“当然”として受け入れられない自分も、確かにいるの」
エミリアは何も言えなかった。
その矛盾を、否定する資格はない。
ルシェルはゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
夜明け前の空は薄く白み、庭園の花々が普段よりも華やかに見えた。




