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047


――夜半。


皇城の回廊は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

月の淡い光が石床に長い影を落とす。


その影の中を、ノアは一人、歩いていた。


足音は抑えられている。

だが歩調は一定で、迷いがないように見えて、その胸の奥では、何度も同じ問いが反芻されていた。


(本当にイザベルの元に行くべきなのか?今すぐルシェルの元に戻って、先ほどの件は、誤解だと弁解すべきなのでは?)


自分に何度問いかけても、答えはもう出ていた。

皇帝として。そして、父として。優先すべきはーー。


「陛下、こちらです」


控えていた侍従が小声で告げ、扉の前で立ち止まった。

ノアは一度だけ深く息を吐き、頷く。


「下がれ。しばらく、誰も通すな」


「はっ」


扉が静かに開かれ、また閉じられる。

その音はひどく小さかったが、イザベルにははっきりと聞こえた。


室内は薄暗く、薬草の香りがかすかに漂っていた。

ベッドの上で、イザベルは横たわっている。

顔色は悪く、唇には血の気がない。

腹部を覆う布の下で、小さな命が静かに息づいている。


「……陛下」


かすれた声で、イザベルが名を呼ぶ。

ノアは一瞬、立ち止まり、そして、ゆっくりと歩み寄る。


「具合はどうだ」


それは、極めて事務的な問いだった。

だが、イザベルはそれでも胸の奥が震えるのを止められなかった。


「……まだ、少し……気持ち悪いです……」


「そうか…。だが、医師の話では、命に別状はないそうだ。お腹の子も無事だから安心しろ」


「……よかったです」


しばらく沈黙が落ちる。

蝋燭の火が、かすかに揺れた。


ノアは寝台の傍に立ったまま、イザベルから視線を外している。

自分と目を合わせないようにしている――それが、イザベルには、はっきりと分かった。


(……やっぱり)


胸の奥で、何かが湧き上がってくる。


(陛下は、もう……)


イザベルは、ゆっくりと目を伏せて、決心する。


「陛下……ご迷惑をおかけして…申し訳ありません」


「謝る必要はない。お前も、お腹の子も無事でよかった」


「……陛下」


イザベルは、わずかに身を起こした。

布の下で腹部が動き、ノアの視線が一瞬だけそこへ向く。


(……今よ。早くしなさいーー)


モルガンの声が、耳の奥で囁いた。

イザベルは、自分の唇を強く噛んだ。


「……陛下」


「なんだ」


「少しだけ……後少しでいいんです……近くに、来ていただけませんか…?」


ノアは、躊躇した。

だが、しばらく考えてから、寝台に一歩近づく。


「……これ以上は」


「お願いです、陛下」


その声は、弱く、切実だった。


「少しだけ……手を……」


ノアは、しばらくイザベルを見つめた。

そして、ゆっくりと手を差し出す。


その瞬間ーー

イザベルは、その手を強く引いた。


「……っ」


驚いたようにノアが息を呑む。


そしてイザベルの方へ倒れ込むような形になった。

イザベルは、ノアを引き寄せ、顔を近づけた。


「……陛下。愛しています」


そっと低く囁き、イザベルの唇が、ノアの唇に触れた。


それは、ほんの一瞬だった。

だが――部屋にまで届くほど満ちた月の光、魔女の血、口付けーーすべてが重なった。

言葉にならない何かが、確かに結ばれた。


ノアの身体が、わずかに強張る。


「……っ」


彼の瞳が、一瞬揺れ、焦点を失う。

イザベルは、そっと唇を離した。


「……陛下?」


ノアは、何も答えない。

ただ、ゆっくりと瞬きをする。


「……今日はもう休め」


その声は、先ほどと同じだった。

だが――どこか、違う。


「しばらく、静養しろ。必要なものは、すべて手配する」


ノアの視線は、もう迷っていないように見えた。

そして、その奥にあった“何か”が、消えているようだった。


これは、愛だろうか?それとも、魅了のせいだろうか?

ーー分からない。


だが、イザベルはすぐに理解した。


(きっと、成功したんだわ)


「……ありがとうございます、陛下」


涙が滲む。それは喜びではなかった。

ノアは、それに気づかない。

イザベルの胸の奥で、何かが“確かに”動いた。


(……あ)


モルガンの言葉は、正しかった。


『本人にとっては、違わない』


ノアは立ち上がり、扉へ向かう。


「……陛下」


イザベルが、もう一度呼び止める。


「……今日は……ここに……、私のそばに、いてくださいませんか……?」


その問いに、ノアは一瞬だけ迷った。

だが、なぜ迷ったのか自分では理解できなかった。

そして、答えはすでに決まっている。


「ああ。もちろん、今夜はお前と共にいる」


静かで優しい声。

彼の中の”最優先”が、再び静かに書き換えられた瞬間だった。


闇の中で、モルガンが微笑む気配だけがあった。

ーーこうして、彼らの世界は再び歪み始めた。

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