046
ーー会場の一角にて。
イザベルは、自分だけが少し場違いな場所に立っているような気がしていた。
人々の視線が、刺さるわけでも、露骨に避けるわけでもない曖昧な距離を保って通り過ぎていく。
それがかえって、彼女を孤独にさせる。
(ついこの間まで私のことを煽てていたのに……陛下の態度が変わったからって、みんな皇后のもとに戻るのね)
悔しさと羨望が混ざり、イザベルの胸を締め付ける。
イザベルはそっと腹を撫でた。
(この子だけが、私の居場所……この子を守るためなら、私は……)
「お身体は、大丈夫ですか?私がご参加すべきだとお話ししたばかりに……無理をしていらっしゃったのではないですか?」
ユリアナが、申し訳なさそうに俯く。
彼女の瞳は誠実で、そこに打算は見えない。
「いいえ、大丈夫よ。……少し、疲れただけ。飲み物をくれるかしら?」
「…はい、イザベル様。こちらをどうぞ」
イザベルは微笑み、ユリアナに手渡された杯を傾けた。
液体がゆるやかに揺れ、喉を滑り落ちる。
その瞬間――舌にわずかな違和感が走った。
苦味とも渋みともつかぬ、鉄のような、土のような微かな味。
次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。足元から感覚が抜け、空気が遠ざかっていく。
「……っ」
イザベルの手から杯が滑り落ち、床で鈍い音を立てて割れ、液体が石畳に飛び散った。
周囲が驚きと悲鳴に満ちた。
イザベルは苦しそうな顔をして、その場に倒れ込んだ。
「きゃー!!イザベル様っ!」
「誰か、医師を!」
ユリアナが蒼白になり、イザベルの身体を支える。
(……これで陛下は、また私を見てくれる)
ノアがこちらへ駆け寄ってくる姿が見えた。
彼の声が耳元で響く。
「イザベル!しっかりしろ!」
(……呼んでくれた。……また、私を)
イザベルは気を失った様に見せて、そっと目を閉じた。
***
ーー同じ頃。
会場の別の場所で、ルシェルは親友であるイリアと、その他の貴族令嬢たちと挨拶を交わしていた。
突然、甲高い悲鳴がさざ波のように広がる。
「毒だと……?」
「杯だ、杯に毒が……!」
ざわめきが一気に広間を満たした。
ルシェルはドレスの裾を押さえて人波をかき分ける。
視界の先で、イザベルが床に横たえられ、宮廷医が必死に脈をとっているのが見えた。
ノアはそばに片膝をつき、険しい顔で医師の言葉を待っていた。
「……どういうことなの?」
思わず口を突いて出た言葉は、自分でも驚くほど冷静だった。
ユリアナが錯乱したように首を振っている。
「違います、私ではありません!わたくしは、ただお水をお持ちしただけで……!」
だが周囲の視線は、すでに疑いの色を帯びていた。
「皇后陛下がイザベル様につけた侍女だろう?」
「まさかとは思うが……」
「側室を疎ましく思っていたとしても、おかしくはない……」
囁きが飛び交う。
その一つ一つが、刃となってルシェルの耳に刺さる。
「皆さん、お静かに」
ルシェルは一歩前へ出た。
ドレスの裾がわずかに床を擦る。
「今ここで彼女を非難することは、私が許しません」
その声には、皇后としての威厳があった。
ルシェルの言葉に、会場は一気に静まり返る。
ノアの視線がルシェルに向く。
そこには迷いと、どうしようもない恐怖が浮かんでいる。
「ルシェル……」
彼は立ち上がり、短く息を吐いた。
「ユリアナを拘束しろ。事情を聞く必要がある。……これは、腹の子の命に関わることだ」
ノアは近くに待機していた騎士たちに命じた。
「待ってください、陛下!」
ルシェルの声が鋭くなる。
「ユリアナに限って、そんなことは――」
ノアは一瞬、目を伏せた。
そして、決定的な言葉を口にする。
「……本当に、君ではないんだよな?」
時間が止まったようだった。
「皇帝陛下は皇后陛下をお疑いのようだ…」
「まさか、本当に皇后陛下が?」
「ですが、今日は皇后陛下のための宴ですよ…?」
「皇后陛下に限ってそんなこと……」
会場はざわめき出した。
ルシェルは胸の奥で最後に残っていた何かが静かにひび割れ、崩れていくのを確かに感じていた。
(……結局こうなるのね)
ルシェルは自分が冷静を保てていることに、自分でも驚いていた。
ノアを心から愛していた昔の自分ならば、こうも冷静ではいられなかったはずだ。
そう、昔の自分ならーー。
「皇帝陛下!僭越ながら申し上げますが、今のお言葉はあまりにも……!」
ノアの言葉に耐えかねて、イリアが言葉を発した。
ルシェルはそっとイリアの肩に手をおき、
「大丈夫よ、イリア。ありがとう」と弱々しく微笑みながら言った。
イリアは心配そうに、そっとルシェルの手を握り、後ろに下がろうとした。
ノアが我に帰ったように、慌てた様子で否定する。
「違う!……違うんだ、ルシェル…!!そういう意味では…!!」
「……陛下のお気持ちは……よくわかりました。ですが、ユリアナは犯人ではありません。私が責任を持ちます」
ルシェルは彼の言葉を遮り、ノアに向かって強い言葉を放った。
「私が犯人を見つけるまで、ユリアナを罰することは許しません。良いですか、陛下」
ノアは何も言えなかった。
彼の沈黙は、皇后の申し出への肯定として、周囲に伝わった。
ユリアナは震えながら、両手を胸の前で握りしめている。
「皇后陛下……」と呼びかける声は、掻き消された。
侍従たちが彼女の両腕を取り、連れて行こうとしている。
ルシェルはとっさに手を伸ばしユリアナのてを強く握りしめた。
「大丈夫よ。あなたが犯人でないことは、私が必ず証明してみせるわ。それまで、少しの間待っていて」
ユリアナは涙を流しながら、小さく頷き、ルシェルの手を強く握り返した。
皇后という肩書きは、人を守る盾ではなく、ときに鎖にもなる。
ルシェルはその事実を、今さらながら突きつけられていた。
ノアは目を閉じ、僅かに顔をそらす。
宴は、もはや誕生日を祝う席ではなくなっていた。
この夜を境に、ルシェルはもう二度と、ノアとは元に戻れないことを悟った。




