045
二人が大広間に入ると、楽師たちの演奏が一段と高まり、従者が高らかに声を上げる。
「ヴェルディア帝国 皇帝陛下、並びに皇后陛下、ご入場!」
扉が開かれた瞬間、まばゆい光が雪崩れ込んだ。
無数の燭台とシャンデリアが煌めき、色とりどりのドレスと軍服が波打つ。
貴族たちは一斉に頭を垂れ、ざわめきが一瞬にして静寂へと変わる。
ルシェルはノアと並んで歩みを進めた。
石床に響く踵の音が、妙に大きく聞こえる。
「ご機嫌麗しゅうございます、皇后陛下」
「陛下におかれましては、益々ご健勝のことと……」
道の両側で貴族たちが次々に恭しく頭を下げる。
その中には、以前ルシェルの地位を陰で揶揄していた者たちの姿もあった。
(……そうよね。今日は、私が皇后としての地位を、見せつける日でもあるのだから)
高位貴族の老侯爵が、厚い声で祝辞を述べる。
「この度の御生誕を祝し、帝国のさらなる繁栄と、皇后陛下のご健勝を心よりお祈り申し上げます」
「ありがとう。皆様のおかげで、こうして日々務めを果たせています。今後とも、どうか力をお貸しください」
ルシェルは柔らかな笑みを浮かべ、丁寧に答えた。
その一つ一つのやり取りを、ノアは横目で見つめている。
「今日、この国の皇后であり、我が愛しき妻ルシェルの誕生日を、皆と共に祝えることを嬉しく思う。彼女は幼い頃から宮廷を支え、今もなお、この帝国の光であり続けている。――どうか、その未来が穏やかであるよう、皆の変わらぬ支えを願いたい」
祝声が渦を巻き、杯が一斉に掲げられる。
琥珀色の酒が揺れ、光を弾いた。
「皇后陛下に、祝福を!」
「ヴェルディア帝国に、栄光を!」
ルシェルも杯を口に運び、喉を潤す。
程よい甘さと鋭さが舌に残る。
音楽がゆるやかな舞曲へと変わり、舞踏の時間が始まった。
「ルシェル、踊ってくれるか?」
ノアが手を差し出す。
その表情には、少しだけ昔の少年の面影が宿っていた。
「ええ」
ルシェルは頷き、彼の手を取る。
二人は輪の中心へと進み、静かに踊り出した。
ノアの腕が腰に回り、もう一方の手が彼女の手を包む。
動きは自然で、長年身体が覚えた形が勝手に再現される。
幼い頃はよくノアの足を踏んで困らせたものだ。
ルシェルはまるで走馬灯でもみているかのように、ノアとのこれまでの日々を思い返していた。
旋律に合わせて、二人は静かに舞い始める。
ドレスの裾が弧を描き、ルシェルの銀髪が光を掬う。周囲から、感嘆の吐息が漏れた。
「やはり、お似合いだ……」
「これでこそ、ヴェルディアの皇帝陛下、皇后陛下だ……」
そんな声が遠くに聞こえる。
「……窮屈じゃないか?」
不意にノアが口を開く。
「何が?」
「……全て俺の自己満足に過ぎない気がしてな」
ルシェルは一瞬目を見開き、そしてゆっくりと首を振った。
「……ノアが私のために考えてくれたことだもの。もちろん、嬉しいわ。……あなたの気持ちは、伝わったからーー」
ノアの胸に、少しだけ救いが灯る。
「……そうか、そう言ってもらえてよかった」
だが胸の奥には、別の影が静かに揺れていた。
(もし、今ゼノン様がここにいたなら、彼はどんな顔で微笑んでくれたかしら)
ふと、視界の端で何かがきらりと光った。
高い窓の隙間から、一匹の銀色の蝶が舞い込んでくる。
(……え?)
蝶は騒めきに怯えることもなく、ゆっくりと円を描きながら、まるで誰かを探すように視線の高さを変えた。
やがて、天蓋の上で一度だけ翅を強くふるわせ、光を散らす。
その光が、一瞬だけルシェルの頬を照らした。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(あの子……やっと来てくれたのね。でも、今までは夜の庭園にしか現れなかったのに…どうしてこんなところにいるのかしら?)
ルシェルは、いつからかあの蝶は、ゼノン様の精霊なのではないかと思い始めていた。
なぜいつもあの蝶を見ると、彼を思い出すからーー。
近頃、よく夢に出てきたのも確か銀色の蝶だった。
(あの蝶は一体……)
手は確かにノアの手を握っているのに、心だけが違う場所に引き寄せられていく。
ノアの視線が、一瞬だけ彼女を凝視した。
ルシェルの瞳がかすかに揺れるのを、彼は見逃さなかった。
「……ルシェル?」
「なに?」
「……いや。なんでもない」
心配そうに覗き込もうとする彼から、ルシェルはふっと視線を逸らした。
その仕草に、自分でもわずかな罪悪感を覚える。
銀の蝶は、天井近くで輪を描き、やがて音もなくどこかへ消えた。
今ここでゼノンのことを考えるのは、何かが決定的に変わってしまう気がして、ルシェルは唇を噛んだ。
ルシェルの視線がふと背後に向かう。
彼女の目は、会場の少し離れた場所で控える女の姿を捉えた。
視線の先にいたのはイザベルだ。
彼女は淡い色のドレスに身を包み、腹部の膨らみをゆるやかな布で覆っている。
彼女のそばにはユリアナが付き添い、時おり水差しを受け取って杯に注いでいる。
イザベルは無理に笑顔を作ってみせているが、その頬はややこけ、目の下にはうっすらと影がある。
(あんなに無邪気で明るかった子が…やっぱりノアに何か言われたのね…)
ルシェルの胸に、小さな痛みが走る。
ルシェルは、イザベルを憎んでいるわけではない。
どうしようもない怒りや嫉妬が渦巻いた時期もあったが、それ以上にイザベルの不安そうな瞳は、いつも”弱かった頃の自分”を映しているように思えていた。
(あの子も……誰かに必要とされたかっただけなのかもしれない……)
過去の自分とイザベルのことを考えていたルシェルは、不意に足が滑り、体のバランスを崩した。
咄嗟にノアが彼女の体を支える。その手はとても力強かった。
「大丈夫か?」
ノアが少し驚いたようにルシェルを見つめた。
「ええ……大丈夫。ちょっと、足がもつれただけよ」
ルシェルはノアの手をそっと払いのけ、いつものように微笑んだ――少なくとも、そう見えただろう。




