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044


ーー大広間の扉の前には、すでにノアの姿があった。


深い紺の礼装に身を包み、肩には金糸で紋章が縫い込まれている。

皇帝としての威厳を欠くことはない。

だが、どこか疲れたような影が、その横顔には残っていた。


ルシェルと視線が合う。

短い沈黙ののち、ノアがわずかに微笑んだ。


「……すごく、綺麗だ」


かつて幾度となく聞いた言葉と同じだった。

だが今は、そのひとことの重さが違って聞こえる。


「ありがとう、ノア」


彼の名を呼ぶと、ノアの目がほんの少しやわらいだ。


「行こう。今日は、君が主役だ」


差し出された腕に、ルシェルはそっと手を添える。

指先に触れる温度は、昔と同じ。なのに、どこか遠い。


***


イザベルは椅子に腰掛け、両手を膝の上で固く組みしめたまま、動かない。


窓の外から、宴の音楽が微かに流れ込んでくる。

笑い声。

グラスの触れ合う澄んだ音。


それらはすべて、自分がその場にいないという事実を、何度も突きつけてきた。


「……本当に、行かれないのですか?」


侍女ユリアナが、おずおずと問いかける。


「皇后陛下のお誕生日の宴です…ご挨拶だけでも……」


「私は招かれていないわ」


イザベルは、笑っているとも泣いているともつかない声で答えた。


「……陛下も、何も仰らなかったもの。呼ばれてもいないのに行けというの?」


ユリアナは言葉を失い、ただ主人の横顔を見つめる。

イザベルの健康的だった頬は少しこけ、赤い瞳の下には薄い影が出来ていた。


「でも……あまりお部屋にばかり籠もっていては……お体に毒です」


「……ユリアナ。今夜は、もう下がっていて」


「ですが――」


「いいの。ひとりになりたいのよ」


強くも弱くもないその言い方に、逆らう余地はなかった。


ユリアナは深く頭を下げ、静かに部屋を辞す。

扉が閉じられ、足音が遠ざかる。


ユリアナが部屋を出るのとほぼ同時に、低く甘やかな声が背後から零れる。


「あなた、いつになったら魅了を使うつもりなの?」


振り返るまでもない。

イザベルはゆっくりと瞳を伏せた。


「モルガン…」


黒い影が、ゆらりと灯の端に揺れた。

闇よりも深い艶を持つ黒髪、紅玉のように光る瞳。


「皇后の晴れ舞台の夜に、自分の部屋でひとりーー。しかも、お腹には皇帝の子。……これほど滑稽で哀れな構図、そうそう見られないわね」


「やめて!」


イザベルはかすれた声で遮る。


「そんなこと、言われなくても分かっているわ」


「分かっていて何もしないのなら、負け犬と同じよ」


モルガンの唇が、愉悦と憐憫をないまぜにして歪む。


「このまま何もしなければ、あなたは初めからいなかったことにされるわ。皇帝は皇后と腕を組んで笑い、その傍らで貴族たちはあなたのことを嘲笑うの」


「……やめてって言ってるでしょう」


「やめないわ」


モルガンは一歩近づいたように見えた。実際には音も重みもないのに、存在だけがぐっと迫る。


「今夜は好機よ、イザベル」


イザベルのまぶたがぴくりと動く。


「……今夜?」


「そうよ。今夜は月が一番輝くーー満月だもの」


モルガンが怪しげに微笑む。


「でも…こんな状況で…どうやって陛下と二人きりになれというの?」


「そうね…この薬草をほんのひとつまみ、水で煎じておいて、宴の席で少しだけ口にしなさい」


「……まさか、自分で毒を飲めと?」


「毒なんて言い方は大袈裟ね、少し頭痛がする程度よ。お腹の子にも影響はないわ。むしろ問題はーー”その後”」


モルガンの瞳が妖しく細められる。


「あなたが倒れれば、宮廷は疑念に満ちる。誰が狙ったのか。誰が得をするのか――人々は勝手に犯人を作り上げてくれるわ。一番疑わしく見えるのは一体誰かしら?」


イザベルの脳裏に、皇后の顔がよぎる。


「あなたただ、苦しんで気を失うふりをすればいいの。あとは勝手に周りが動くわ。皇帝は、あなたの元へ行くはずだからそこで二人きりになれるはず。あなたは唇を噛み、血をにじませて口付けを交わせばいいの」


「……でも、陛下が本当に私のところに来てくださるかどうかなんて、分からないじゃない……」


イザベルは俯いた。

かつてのように、自分だけを見てくれる皇帝ではないことくらい、誰よりも分かっている。


「……もし陛下が、来なかったら?皇后のそばから離れなかったら?全部、無駄になるかもしれないでしょう?」


モルガンは、その怯えをおもしろがるように目を細めた。


「本当にそうかしら?」


「……どういう意味?」


「肝心なのはね、イザベルーー」


モルガンは、彼女の耳元で囁いた。


「今夜を境に、この宮廷からあなたを“いなかったことにする”選択肢を奪うこと」


イザベルの息が、詰まる。


「皇帝に愛されなくてもいい。選ばれなくてもいい。ただ、消せない存在になりなさい」


その言葉は、深く、正確に胸を打った。

腹部の重みを確かめるように、イザベルはゆっくりと立ち上がる。


(そうよ……陛下は私に離宮を用意すると仰った。私のためだと言いながら、本当は宮殿から追い出したいだけよ…)


「モルガン……この薬草は…どのくらい飲めばいいの?」


モルガンの唇が、満足げに曲がった。

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