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ーー夜更け。


ゼノンが自室へ戻ると、窓辺のアイレンの花が月を映していた。

ゼノンは花の前に立ち、ためらった末に、そっと指先で花弁に触れた。


(アイレンの花言葉を、彼女は知っているだろうか。いや……知らない方がいいのかもしれないな)


口に出せば、どこかで線が引かれる。

言葉は刃にも盾にもなる。

今の自分に許されているのは、祈りだけ。


ゼノンは、ふと紙を一枚取り出し、思うままに言葉を静かに綴った。


《あなたが笑えば世界が明るくなり、あなたが泣けば世界が暗くなる。

その光と影のすべてが、私にとっては祈りの理由でした。

たとえあなたが私を覚えていなくても、たとえ私があなたの傍らに居られずとも、

私は永遠に、あなたの幸せを願わずにはいられないのです。


あなたが思うよりも遥か昔から、あなただけを想い、あなただけを探し続けてきました。

あの日、庭園で一緒に見たライラックの花は、とても美しかったですね。

私にとっては、あなたと初めて見たライラックの花は、もっと昔に見たものだったけれど、

再び共に見ることができて幸せでした。


今のあなたのそばには皇帝がいる。あなたを守るべきは彼であり、隣に立つべきも彼だ。

わかっているのに、それでもつい望んでしまいます。


――どうか、もう一度だけ、あの頃のように私の名を呼んでほしい。

――どうか、もう一度だけ、あなたの隣であなたを守らせてほしい。

ーーどうか、もう一度だけ、あの頃のように強く抱きしめさせてほしい、と。


あの時、伝えきれなかった言葉が、何百何千と胸の奥に積もっています。

それでも、今あなたが笑っているのならそれでいい。

あなたが幸せならそれでいい。


あなたが生きていれば、それだけでいい。

それこそが、私が今世まで貫いてきたーー

唯一の願いだから。》


署名も封もぜずに、しばらくその紙を見つめ、机の上にそのまま置いた。

彼女に渡すためではなく、自分の胸に刻むために。


その様子を、レイセルが距離を保って見守る。


「その手紙は出されないのですか?」


「……なんだ、居たのか」


「声をかけたのですが、全くお気づきにならなかったので」


「こんな長たらしくて、重い手紙など……彼女には見られたくない。これは、出すべきではない手紙だ」


レイセルは小さく息をつく。


「ならばなぜ書いたのです?」


「……そういう気分だったんだ」


「はぁ、そうですか」


やれやれと言ったようにレイセルは話題を変えた。


「殿下、聖月国のセリス殿下より、今年の“精霊祭”の案内が来ておりました」


「もうそんな時期か。早いな」


「そうですね」


「では、我が国も準備を始めねばな」


「はい。抜かりなく進めます」


「あぁ、頼んだぞ」


ーーレイセルが出ていった後、夜空を流れる薄雲の切れ目から星々が濡れたように光った。

ふいに、銀色の蝶が一匹、ゼノンの元へ現れた。


ゼノンは、しばらく蝶を愛おしそうに見つめ、沈黙し、そっと蝶を指先から空へと解き放った。

翅は月光を受けてきらめきながら、高く、さらに高く舞い上がる。


「……行け。彼女のもとへ」


その声は切なくも、深い愛情に満ちていた。

蝶は振り返るように一度舞い、そして夜空の彼方へと消えていった。


***


ーーヴェルディア帝国、皇帝の執務室。


執務室の窓辺から差し込む春の光が、机上の紙束を柔らかく照らしていた。

ノアは視線を落としたまま、しばし黙していたが、やがて顔を上げる。


「ルシェル」


呼びかけられた名に、彼女は筆を置き、姿勢を正した。


「君の誕生日だが……今年は、大々的に祝いたい」


ルシェルの瞳がわずかに揺れる。


「……誕生日を……なぜ?」


「宮廷を挙げて、盛大な宴を開こうと思う。これまで、君に与えた苦しみを……少しでも償いたいんだ。君が唯一の妻であり、皇后であるということを、皆の前で改めて示したいんだ」


彼の声音は真剣だった。

だがルシェルの心には、簡単に喜べない迷いが広がる。


(……償い。やっぱり、ノアの中ではそれがすべてなのね)


それでも皇后として微笑みを浮かべ、静かに頷いた。


「わかったわ。ノアの思うようにしましょう」


ノアの胸に、安堵と痛みが同時に走った。


ーー皇后居の鏡台の前。


侍女エミリアの手が櫛をすべらせるたびに、白銀の髪が波のように揺れた。

ルシェルは鏡越しに微笑もうとしたが、胸の奥は妙にざわついていた。


(……誕生日を盛大に祝うなんて。陛下は本気で、私を皇后として立て直そうとしているのね)


だが、その背後にある償いという言葉がどうしても胸に刺さっている。


「皇后陛下、ドレスの裾を少し広げますね」


「ええ、お願い」


銀糸が月光を思わせるドレスは、確かに美しい。


「髪飾りはどちらになさいますか?」


「……」


エミリアの一言で、ゼノンからもらった暁蝶の髪飾りのことが頭の中に浮かんだ。

きっとこの先、あの髪飾りをつけることはないのだろう。

一度でいいからあの美しい髪飾りをつけてみたかった。


(私は一体…何を考えてるのかしら…)


「…皇后陛下?お加減が悪いのですか?」


「いいえ、大丈夫よ。ちょっと考え事をしていただけ」


「そうですか…」


「では、髪飾りと首飾りは、皇帝陛下から贈られたものにいたしましょうか?」


「…ええ。そうね、お願い」


「本当にとてもよくお似合いです。さすが皇帝陛下はお目が高いですね」


髪飾りと首飾りは、ノアがルシェルのためにと新調してくれたものだった。


皇帝でなければ決して手に入れることはできないであろう、その高価な宝石のついた首飾りは、ルシェルの首を重く締め付ける首輪のようで、息苦しく感じた。

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