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042


ーーイザベルの寝室。


「だから言ったでしょう?全ては、魅了の効果だったって」


モルガンが呆れた様子で、イザベルに声をかける。


「もうわかったから……放っておいて!!」


イザベルはベッドに顔を伏せ、涙ながらにモルガンに声を上げた。


「困ったものね。でも、まあ、わかったわ。あなたにも時間が必要だものねーー」


モルガンはそう言い残すとすっと消えていった。

そして、その日からイザベルは再び寝室に篭るようになった。


***


ーー南へ向かう街道は、春の風に砂塵を巻き上げながら、青い空の下で遠くまで伸びていた。


背後からは護衛騎士たちの馬蹄が一定の拍で続き、御者の掛け声がときおり風に砕けて消えた。


「殿下、峠を越えれば、今夜の野営地です」


レイセルが並びかけ、小声で告げる。


「あぁ、わかった」


ゼノンは短く返事をし、視線だけを夕焼けに帯び始めた稜線へ向けた。


(——望んではいけない。彼女の前では、もう何も。俺は俺の場所で、彼女の幸せを祈ればいいーー)


胸の内でそう繰り返し、ゼノンは馬腹を軽く蹴った。


六日間の移動の末、アンダルシア王都・白亜の城壁が見え始めると、随行の旗が一斉にはためく。

門をくぐった一行に国民の祝声が上がると、城塞の高みにある王宮の鐘が、高らかに数度鳴った。


「王子殿下のお帰りだ!」

「殿下、おかえりなさいませ!」

「殿下ー!!」

「お待ちしておりましたーー!」


ゼノンは国民に微笑みながら、ゆっくりと王城へと入っていった。


王宮に入るとすぐに、ゼノンは遠征用の外套を脱ぎ、父王の寝所へ足を踏み入れた。

窓から差し込む光に、年老いた王の白髪が浮かび上がる。


「父上」とゼノンは深く頭を垂れる。


すると、寝所で横になっていたアンダルシア国王がゆっくりと起き上がり、

元気な息子の姿を見て、そっと微笑んだ。


「戻ってきたのだな」


声は以前よりも幾分掠れていたが、その眼差しはなお鋭く、かつ慈しみに満ちていた。


「はい、ただいま戻りました」


王は軽く咳き込み、ゼノンが慌てて水を差し出す。


「父上、どうかご無理をなさらず……」


「……大げさだな。もしや、少し体調を崩しただけでお前を呼び戻したこと……気にしているのか?」


国王はいたずらに微笑む。

ゼノンは静かにうつむいた。


「……あの時は、本当に驚きました。父上に何かあったらと思うと、私は……」


王は「ハハ」と笑い、頬に刻まれた皺が深まる。


「親子とは厄介なものだな。私が倒れれば、お前が心を痛め……私が元気だといえば、今度はお前が過ぎた心配をする」


「……そうですね」


言葉を詰まらせるゼノンに、王は静かに手を伸ばした。


「ゼノン、お前はもう十分に強い。心も体もな。私が最も誇らしく思うのは、お前が他者を思いやる心を持っていることだ。お前はきっと民に愛される、良き王になるだろう」


ゼノンは目を伏せ、かすかに唇を噛んだ。


「ヴェルディア帝国はどうだった?」


「ええ、とても良い国でしたよ。精霊は居なくとも、人々は明るく活発で。それに…」


王はその沈黙を見透かすように微笑む。


「ようやく……想い人を見つけたのだな?」


ゼノンの胸がわずかに疼いた。


「……はい。ですが……私は……その人とは、結ばれることはないようです」


ゼノンは無理に笑顔を作って見せた。

王の眼差しは優しく、それでいて力強かった。


「それでもよいではないか。愛は誰かを縛るものではなく、互いの力へと変わるものだ。……私も若い頃、お前の母上と結ばれるまでに、数多くの障害を越えた。……ゼノンよ、己の心を否定するな。たとえ遠くにいても、結ばれることがなくともーーその強く優しい想いが、必ずお前の道を明るく照らすだろう」


窓の外では、夕陽が城壁を黄金に染めていた。


ゼノンは父の手を強く握り、その温もりを胸に刻む。

彼の心にあるのは、国を背負う覚悟と、遠い宮殿に残してきた愛しい女性への変わらぬ祈りだった。


***


報告を終えたレイセルが一歩退き、ためらいがちに続ける。


「昨夜は、また眠れませんでしたか?」


ゼノンは否とも肯とも言わず、羽根ペンの先で紙縁を叩いた。


「……ただ、色々と思うことがあってな。気がついたら夜が明けていただけだ」


「殿下、それを世間では”眠れていない”と申します」


軽口で緊張を和らげようとする侍従の笑みは温かい。

ゼノンは片眉を上げ、立ち上がる。


「…よし、朝稽古だ。体を動かせば、余計な考えなくなるだろう」


ーー王宮内の鍛錬場。


石畳の広い鍛錬場は、午後の日差しが斜めに差し込んでいた。


ゼノンは外套を脱ぎ、手に取った木剣を軽くあおる。


護衛候補の若い騎士たちが列をつくり、憧憬の色を隠しもしない。


「さぁ、始めよう」


ゼノンの一声が合図となり、足さばきの練習が始まる。


砂が舞い、靴底が砂利をかむ微かな音すら、ゼノンは拾い上げては指摘する。


「はッ!」


ゼノンの踏み込みは無駄がない。


守りに回った相手の木剣が弾かれ、地面を滑った。

周囲で見守る若い騎士たちがどよめく。


「殿下の剣は、海に似ておりますな。引いては寄せ、寄せては引く。間合いが全く読めませぬ」

「いや、殿下の剣はまさに閃光ですよ。あまりの速さに、剣筋が読めないのです」

「閃光のように素早いのに、力強さもある…本当に殿下には敵いません」


騎士たちは苦笑混じりに言う。

ゼノンは肩で息をし、額の汗を袖で拭った。


「そういえば、殿下はヴェルディアの武闘大会に出場されたとか!」


若い騎士が声を上げると、周囲の騎士たちが一斉に身を乗り出した。


「…おい、お前か?」


ゼノンはレイセルを訝しげに見る。


「…言ってはいけませんでしたか?良いではないですか。負けたわけでもあるまいし」


「お前なぁ…」


「殿下はそういったことはお嫌いなのに珍しいですね!」

「確かに!殿下は普段、ご自分の強さを隠しておられますよね!」

「殿下は当然、優勝されたのでしょう!?」

「当たり前だろ!殿下は、我が国随一の剣の達人なんだぞ!」


普段、どんな国事でも己の腕を誇ることのないゼノンが、あえて武闘大会に出た――。

その理由を知りたくて、騎士たちの眼差しは少年のような好奇心に光っていた。


「……」


(俺はただ──栄光あるギンバイカの花冠を、彼女に渡したかっただけだが……)


ゼノンは諦めたように口を開いた。


「……武闘大会は、剣を通じた友好の場だ。アンダルシアを代表するものとして、顔を見せぬわけにもいかなかったのだ。まあ、勝ちはしたが、なかなかにいい勝負だったぞ。グレヴァル王国のルクレル将軍と剣を交えたがーーあれは、実に見事な剣士だった。ぜひ、また手合わせ願いたいものだ」


「殿下が他人を褒めるなんて!」

「よほどの腕だったのでしょうね!」

「さすがは殿下、アンダルシアの実力を見せつけるいい機会でしたね!」

「あー、殿下のご活躍を直接見たかったのに!」


騎士達は目を輝かせて、ゼノンの話を聞いている。


「……ああ。あれほど豪快に剣を振るう者は、そうはいない。彼の剣を、お前たちにも見せてやりたいものだ」


ゼノンはルクレルの豪快な物言いや笑い方を思い出し苦笑した。

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