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041


ーー夜の帳が降りた宮殿。


ルシェルは静かに自室へ戻った。

ふと机の上に目をやった時、そこには紫色の花が、花瓶に一輪だけ挿されていた。


(…これは…アイレンかしら?)


「エミリア、この花はどうしたの?あなたが、花をこんなふうに一輪だけ飾るなんて、珍しいわね」


思わず呼びかけると、控えていた侍女が静かに頭を垂れた。


「……実は……、アンダルシアの王子殿下に頼まれました。どうしても、この部屋に飾ってほしいと……」


ルシェルの胸が締め付けられる。


「それと……お手紙も……お預かりしております」


白い封筒が差し出された。

震える指で受け取り、封を切る。


ーーそこには、短い、しかし心を抉るような文字が並んでいた。


《アイレンは、アンダルシアで古くから愛される花です。どうか、あなたがいつも笑っていられますように。私はいつもどんな時でも、あなたの幸福を祈り続けます。 ”あなたの騎士 ゼノン・アンダルシア”》


視界が滲んだ。

手紙の文字がぼやけ、花弁が揺れる。


(……この花の花言葉を……彼は知っているのかしら……)


アイレンの花言葉は――”幸せになってください”。


いいや、彼が知らぬはずはない。

知っていて、敢えて置いていったのだ。


「……ずるい人」


声にならない声が、涙と共に零れ落ちる。

ルシェルは花を胸に抱きしめ、ただ静かに嗚咽した。


***


ーー眩いほどの光に包まれた美しい花畑に、一人佇む女性。


風に揺れるその髪も、ライラック色の瞳も、まるで自分を見ているようだ。


「……お初にお目にかかります」


かすかな声が耳に届く。

振り向いた先にひざまずく一人の騎士がいた。

その顔は霞に覆われ、やはりどうしても見えない。


「これは、私の一番好きな花だから」


女性が騎士に言う。

差し出された花を、騎士が両手で受け取る。


二人は何か話しているが、よく聞きとれない。


風が吹き、花びらが舞い上がる。

彼の声と、自分によく似た女性の笑みーーそこまでは鮮明だったのに。


次の瞬間、景色が歪んでいく。

花の野は炎に染まり、空は赤く裂け、轟音が押し寄せた。


「……あなたのそばで生きていたかった」


かすかに届いた声。


そして、自分によく似た女性を抱き抱えながら、涙する騎士の涙を見た瞬間ーー胸が強烈に締め付けられ、夢は暗転した。


ーールシェルは浅い息と共に目を覚ました。


頬には涙の痕が残っている。

机の上の花瓶に、アイレンの花が静かに咲いていた。


「……どうして、こんな夢を……」


夢と言い切るにはあまりにも鮮明すぎる夢だった。

寝台を降り、薄いガウンを羽織って窓辺へ向かう。


外では鳥たちが朝を告げるように鳴き交わし、宮殿の庭に敷かれた露が淡く光を放っていた。

だが、その光景よりも彼女の目を捉えたのは机の上に置かれた一輪のアイレンの花。

昨夜、涙を流しながら見つめたそれが、夜を越えても変わらず瑞々しく咲いている。


(しっかりしなくては…)


今は皇后としての務めを果たすべき時だ。

広間ではすでに諸侯が集まり、皇帝ノアと並んで政務に臨む必要がある。


「皇后陛下」


扉の外から侍女エミリアの声がする。


「今日の執務は、報告が中心とのことです。お支度を」


「ええ」


ルシェルは深く息を吸い、頷いた。


(私は皇后よ。揺らいではいけない……)


けれど心の奥で、ゼノンの手紙の言葉が反芻されていた。


《アイレンは、アンダルシアで古くから愛される花です。どうか、あなたがいつも笑っていられますように。私はいつもどんな時でも、あなたの幸福を祈り続けます。 ”あなたの騎士 ゼノン・アンダルシア”》


***


同じ頃、執務室ではノアが書簡に目を通していた。

だが目の前の文字は頭に入らず、机上に積まれた紙が霞んで見える。


(……王子のルシェルに対するあの視線……)


皇后を見つめる眼差しを思い出すと、胸の奥が痛んだ。

自分の記憶が戻り、皇后への想いを取り戻した今でも、その痛みは消えない。


(ルシェルを苦しめたのは…俺だ。あの王子がいたからこそ、彼女は支えられた……)


心の中には、嫉妬と劣等感。

皇帝としての自分よりも、男としての自分が小さく感じられる瞬間だった。


ノアは深く息を吐き、机の上に拳を置いた。


(……今度こそ、俺が彼女を守る)


「カイン、イザベルを呼んでくれ」


「はい、陛下」


しばらくするとカインがイザベルを連れて戻ってきた。


「陛下!お呼びですか?」


久々にノアに呼ばれたことがよほど嬉しいのか、イザベルはとても明るい笑顔でやってきた。


「……イザベル。座ってくれ」


ノアの声音は淡々としており、かつて彼女に優しく向けられた熱はそこにない。

イザベルはすぐに悟る。

これは、喜ばしい話ではないと。


「……陛下、お話とは……?」


イザベルは少し潤んだ赤い瞳で、ノアを不安げに見つめる。

ノアはしばらく沈黙し、机の上に置かれた書簡を指先で押さえる。


「お前のために、新たに離宮を用意しているところだ。帝都から少し離れた場所に建てさせている。空気も澄んでいて、静かな場所だ。お前が出産する頃には完成する予定だから、出産後はそちらで過ごすといい」


「……離宮……?」


イザベルは目を見開き、声を震わせる。


「ここでの暮らしは、心穏やかではないだろう?お前が今後ルシェルと顔を合わせることも、互いにとって良いことではない。お前のためにも、離宮に移るのが最善だ」


ノアは淡々と告げる。

イザベルは必死に言葉を探す。


「……それは……私がここにいるのが……邪魔だということですか……?」


ノアの瞳が一瞬だけ揺れる。


「邪魔だからではない。お前が安心して暮らせるようにだ。わかってくれ、イザベル」


「こんなの……私が知っている陛下ではありません!私が知ってる陛下は……こんな酷いことを私にいったりしません!」


「…あぁ、だから何度もいっているだろう。お前が知っている俺は、本当の俺ではなかったんだ」


「……っ、あんまりです……」


イザベルの頬を涙が伝い落ちた。


その姿を見てなお、ノアは決して決断を覆さなかった。


イザベルは皇帝の執務室を飛び出し、涙ながらに急足で寝室へと戻った。

寝室に戻るまでの間、記憶は朧げだった。

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