040
ーー宮殿前の大広場にて。
春の風が、まだ冷たさを含んで吹き抜け、旗が翻る。
石畳の上に整列するのは、各国の使節団と、見送りに出たヴェルディア帝国の貴族たちだ。
「璃州国の使節は、随分と礼儀正しかったな。皇后陛下と親しげに話していたが……」
「まさか、交易が本当に実現するのか?」
「アストレア公爵家が仲介するらしいぞ。今回の交易は、皇后陛下の采配だそうだ」
「聖月国のセリス殿下は、何とも掴みどころがないお方だ」
「神聖な雰囲気に包まれていて、こちらまで目を逸らしたくなるほどだな……」
「……アンダルシアの王子殿下を見ただろう?皇后陛下を見つめる時の……あの眼差しをーー」
「おい、口を慎め!皇帝陛下に聞こえでもしたら……命取りだぞ」
貴族たちのざわめきの中には、さまざまな思惑があるようだった。
見送りに立つ人々の列の中に、イザベルの姿もあった。
真新しい豪華なドレスを着ていたが、彼女の頬はまだ青ざめている。
赤い瞳は俯いたままで、誰とも目を合わせようとしなかった。
(……誰も、私を見ていない……)
皇后の隣に立つノアの姿は、まるで初めて会った人間かのようにどこか遠く、
もう届かない場所のもののように感じられた。
***
重厚な鎧に身を包んだ将士たちが馬列を整え、旗が風をはためかせていた。
ルクレル将軍は最後に皇后のもとへ進み出て、胸に拳を当てる。
「ヴェルディア帝国の太陽、陛下の御世に、このような盛大な祭に参加できたことを誇りに思います」
豪快な笑みの奥に、戦場を幾度も潜り抜けた男の誇りが宿る。
ノアとルシェルは深く頷いた。
その背が去るのを見届け、ルシェルは胸の奥にほんの少しの寂しさを覚えた。
彼の豪放さは、この国に不足している力強さを映しているように思えた。
「いやはや!武闘大会での手合わせ、あれほど胸が熱くなった戦いは初めてだったぞ!また剣を交える日を楽しみにしているぞ!我が友よ!」
そう言ってゼノンの背を豪快に叩く。
その背に陽光が射し、北方の獣のような威厳を纏って去っていった。
*
荷馬車が整えられ、璃州国の使節団が一斉に頭を垂れる。
藍は長衣の袖を揺らし、静かにルシェルへ一歩進み出た。
「短い間でしたが……貴国との縁は生涯忘れません。これから続く交易においても、末永くよろしくお願いいたします」
その言葉に、列の後ろからヴェルディアの貴族が小声で囁く。
「璃州国の正使が、皇后陛下にあれほどの敬意を……」
「やはり皇后陛下の人徳というべきか」
ルシェルは静かに微笑み、藍へと応じる。
言葉など必要ないというように、二人は互いに微笑を交わした。
*
セリスは薄い衣の裾を揺らしながら、ゼノンと肩を並べていた。
「あなたがこの国に残らぬとは……少し意外でした」
「……これ以上、彼女を惑わせるべきではない。それに、皇帝も記憶を取り戻したそうだ」
ゼノンの低い声に、セリスは柔らかく目を細めた。
「それでも、あなたの心はまだ彼女にある。違いますか?」
「……当然だ。気の遠くなるほどに長い間……彼女を待ち続けていたのだからな」
ゼノンの哀愁漂うその表情は、とても十八の青年には見えなかった。
「それでも、やはりーー彼女の幸せが、俺にとっては何より重要なことだ。彼女が俺を求めぬ限り、俺から彼女に無理強いすることなどできないし、決してしないつもりだ」
セリスは視線を遠くの空へと向ける。
「月は満ち欠けを繰り返します。人間も同じです。変わらぬものなどどこにもない。きっとこれからまた、いろいろなことが変わっていくでしょう」
ゼノンは一瞬だけ言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。
「なんだ、慰めのつもりか?」
「いいえ。あなたが皇后陛下に何も話さなかったのもまた、最良の結末を迎えるためには必要なことだったのでしょう。私はそう信じています。自分よりも他人を大切にする……そんな優しいあなたには、幸せになってほしいのですよ」
セリスはもどかしそうに、どこか悲しげに微笑んだ。
「君は本当に……根っからの大司教様だな」
ゼノンは微笑む。
そしてセリスの元を離れ、人々の視線の中、ゼノンはゆっくりと歩みを進める。
ざわめきの中、ゼノンは一歩進み出て、ノアとルシェルの前に立った。
周囲の貴族たちが息を呑む。
「何だか空気が重いな…」
「皇后陛下にあれほど真摯な眼差しを……」
「国に帰るということは……やはり、あれはただの噂だったんだろうか?」
ルシェルは言葉を探しながらも、結局、微かな声しか出せなかった。
「……どうか、お元気で」
その短い言葉に、ゼノンの瞳がわずかに揺れた。
だが彼はすぐに口元に淡い微笑を刻み、深く一礼する。
ノアはそのやり取りを見つめていた。
心の奥に、小さな痛みが走る。
(……この眼差し)
吹き抜ける風が馬の鬣を揺らし、出立の合図が鳴る。
ゼノンは背を向け、堂々とした足取りで馬に跨がった。
花弁が舞い、彼の姿は使節団とともに城門の向こうへと消えていく。
ーー広場に残されたルシェルは、胸の奥に痛みを抱えたまま、ただ静かにその背を見送った。




