039
ーー静まり返った夜。
イザベルは寝台の端に腰を下ろし、両手を強く握りしめている。
胸の奥が、ずっとざわついていた。理由は分かっている。
皇帝が、もう自分を見ていないからだ。
そのときーー灯の影が、ゆらりと歪んだ。
黒い影が揺れ、モルガンが現れる。
艶やかな黒髪が闇に溶け、赤い瞳が燐光のようにイザベルを見下ろした。
「かわいそうに」
イザベルの涙に濡れた頬を、長い指がそっとなぞる。
モルガンは微笑んだ。その笑みは、慈悲と残酷さが同時に宿っている。
「まず、落ち着きなさい。あなたが一番混乱しているのは……“理由”が分からないからでしょう?」
イザベルは息を呑む。
「皇帝は、突然変わった。あなたを遠ざけ、皇后に目を向け始めた。でも――あなたは、何もしていない」
「……ええ……」
「だから、納得できない。そうよね?」
「…モルガン……私は……どうすればいいの?」
掠れた声が室内に溶ける。
「条件は、三つよ。月の光、それから魔女の血と口付け」
「…月の光?魔女の血と口付け?一体何のこと?」
モルガンの声は低く甘やかに、耳を溶かすように響く。
「“魔女の魅了”よ。月明かりの下で、あなたの血を捧げ、皇帝に口付けする。そうすれば――あなたは、再び皇帝の心を得られるわ」
「魅了……?再び……?一体何を言っているの……?」
「ええ」
モルガンの赤い瞳が、妖しく細められる。
「イザベル。あなたはね、もう一度、皇帝に魅了をかける必要があるの」
「……もう一度……?」
「ええ。あなたは――すでに一度、魅了を使っているでしょう?」
「……え?」
イザベルが、はっと顔を上げる。
「待って、本当に……何を、言ってるの……?」
モルガンは、愉しげに微笑んだ。
「あの日の崖の下でのことーーあなた、覚えているでしょう?皇帝が崖から落ちてきて、あなたは彼に必死に駆け寄った。その時、あなたは岩角で指を切り、血を流しながら彼を抱き起こした」
「……それがなんなの?」
「息をしていなかった彼に、あなたは口付けをした。彼を救うために――必死で」
イザベルの喉が、ひくりと鳴る。
「……あれは……ただ……」
「ええ、わかっているわ。あなたはただ、目の前の彼を助けようとしただけ。皇帝が、皇后に関する記憶だけを失っていたのは単なる事故の後遺症よ。あなたがしたことじゃないわ。それは確かよ」
――そこだけは、あえて断言する。
イザベルが“安心”できる材料を先に渡し、次の毒を飲ませるために。
「……じゃあ……じゃあ、どうして……陛下は私を……」
モルガンは唇を細めた。
「魅了はね、本来、記憶を奪う術じゃない」
「相手にとって“最も大切な存在”に霧をかけて、代わりの存在をそこに置く術よ。守るとき、選ぶとき、迷ったとき――心が無意識に立ち戻る“最優先の席”を、すり替えるの」
イザベルは、息を詰めた。
「でも、あの時の陛下は……」
モルガンは続ける。
「事故のせいで、皇后という“最も大切な存在”の輪郭が、ひどく曖昧になっていた。席そのものが、空きかけていた状態だったの」
「……」
「そこに、血と口付けが重なった。魅了の条件のうち、二つが揃った」
モルガンは、くすりと笑う。
「だから、霧は自然とその空席に流れ込んだ。皇帝は、あなたを“最も大切な存在”だと思い込んだの。愛していると、本人が信じ込めるほどに」
イザベルは、言葉を失った。
「理由のないざわめき、懐かしい面影……」
モルガンは囁く。
「皇帝が皇后を夢に見たり、理由もなく心を乱したのは、事故で失った記憶が戻ろうとしていたから。本来の主が、席に戻ろうとしていたのよ」
イザベルの胸が、苦しくなる。
モルガンは、残酷なほど静かに言った。
イザベルの喉が、ひくりと鳴る。
「……じゃあ……陛下と過ごした時間は……」
モルガンは、わずかに首を傾けた。
「皇帝があなたを”最も大切な存在”だと思い込んでいた時間ね」
その言葉は、静かに、しかし確実に突き刺さった。
「あなたが愛されていると信じていた時間。それは――魅了が招いた結果よ」
「……そんな……。じゃあ…陛下は私のことを愛していたんじゃなくて…私が魅了を使っていただけだというの……?そんなはずないわ…!そんなの……デタラメよ!」
「信じたくない?信じたくないのならこのままでいるといいわ。あなたが今の状況を受け入れられるのならね」
モルガンの声は、優しい。だがどこか棘があった。
「…まさか…そんなはず…」
「皇帝の心が、再び皇后へ戻っていくのを、指を咥えて見ていればいい」
イザベルの胸に、恐怖が膨れ上がる。
しばらく沈黙したあと、イザベルは意を決して言葉を発した。
「……じゃあ…どうすれば陛下は……もう一度、私のことを……愛してくれるの?」
モルガンは待ってましたとばかりに、微笑んだ。
「さっき言ったように、条件は、三つよ。月の光、それから魔女の血と口付け。あの日の魅了は、未完成だった。だから、条件を揃えればいいのよ」
「……確か、二つは揃っていたのよね……?」
「そうよ。あの日は、月の光だけが足りなかった」
モルガンの声が、低く落ちる。
「血と口付けは、最も大切な存在に霧をかける条件。月の光は、霧を“固定する条件”なの」
「……」
イザベルは、ゆっくりと理解していく。
「条件が揃わなかったから……」
モルガンは頷いた。
「そうよ。だから霧は、時間の経過と共に薄れていき、皇后の記憶を取り戻すのと同時に魅了が解けてしまった」
イザベルの脳裏に、皇帝の変化が浮かぶ。
「……それで……陛下は変わってしまったのね……」
「そうよ。まあ、変わったと言うより、本来の皇帝に戻っただけなのだけど」
モルガンは薄く笑みを浮かべながら、楽しげに告げる。
しばしの沈黙の後、イザベルは震える声で尋ねた。
「……魅了が…完成したら…どうなるの……?」
モルガンは、一瞬だけ目を細めた。
赤い瞳が、静かに光る。
「皇帝にとって、あなたが最も大切な存在となり、それが変わることはなくなるわ。あなたが皇帝の寵愛を一身に受けることになるでしょうね。守るとき、選ぶとき、迷ったときーー心が無意識にあなたの元に向かうようになる。ーーそれが、魅了の完成よ」
イザベルの胸が、強く脈打つ。
イザベルの指先が、腹部を無意識に撫でた。
モルガンは不敵に微笑む。
イザベルの胸が、どくんと強く打った。
「……それは……愛と、何が違うの……?」
「違わないわ。あなたにとってはね」
イザベルは唇を噛みしめた。
「いい?イザベル。今度こそ、皇帝をあなたのものにするのよ」
(……魅了は本当の愛じゃない……。でも、皇后は何もかも持っている……。私は……たとえ偽物でも…陛下の愛を失えばもう何も残らない……。このまま何もせずにいたら、この子もいつか奪われてしまうかも……)
イザベルの瞳に、恐怖と決意の炎が揺れた。
(失いたくない……。この子も……陛下も……絶対に……)
彼女は小さく頷いた。
モルガンの唇が満足げに歪む。
「そうよ。それでいいのよ、イザベル」




