038
ルシェルはその夜、なかなか寝付けずにいた。
エミリアが用意したハーブティーを飲み、しばらく天蓋越しに灯が揺れるのを眺めていたが、
やがてゆっくりと眠りについた。
ーー美しい花々が咲き誇ってる。
神殿のような場所に、光り輝く銀色の蝶たちが舞っている。
そして、目の前にひざまずく騎士の影がひとつ——顔は見えない。
ただ、低く澄んだ声だけが胸に刺さる。
《この花は…あなたの瞳の色と同じですね》
《…あなたはこの花よりもずっと美しいです》
《…私はこれからもあなたのおそばにいます》
顔は相変わらず霞んで見えない。
けれど、その言葉は甘く、そして切なかった。
胸の奥に懐かしい痛みが広がり、ルシェルは夢の中で涙を堪えた。
ーー翌朝。
(また同じ夢だわ…でも前に見た時よりなんだかもっとはっきりしていたような…)
途切れ途切れに場面が見えたが、どの場面でも騎士らしき男の顔はどこか靄がかかって見えなかった。
だが夢の中の彼を見ていると、ゼノンと話している時のような…温かな気持ちになったことだけはわかった。
***
ーーアンダルシア王国の使節団がいる、客殿の一室。
ゼノンは荷造りを進めながら、侍従のレイセルと話している。
「国に戻ることを決められたのですね」
「……ああ。彼女をこれ以上惑わせるべきではないからな」
ゼノンはいつになく気落ちしているように見えた。
「殿下らしくないですね」
「俺らしくない…か。確かにそうだな…。だが、皇帝も記憶を取り戻したようだし、彼女に昨日はっきり言われたんだ。『これからも皇帝を支えていく』とな」
「なるほど…それでそんなふうに沈んでいるわけですか」
「ああ、そうだな。その通りだ……」
ゼノンは無理に微笑んだ。
「……まあ、これでよろしかったのではないですか?殿下は、想像もできないほどに長い間……苦しんでこられたではないですか。殿下自身の幸せのために、生きるべき時が来たということなのでしょう」
「……そうだな。お前のいう通り、私も前に進まなければならないのかもしれない。だが、俺はこの国を離れても、彼女を見守り続けるよ。彼女のために生きることこそが……俺の生きる理由なのだから。彼女に出会えたことで、俺は願いを半分は叶えられた。あとは、彼女の幸せを見届けられれば……それで十分だ」
「……」
レイセルは、そんなことを言いながらも、悲しげなゼノンをもどかしそうに見つめていた。
***
ーーイザベルの寝所にて。
「……イザベル」
低く抑えた声で、ノアがイザベルを呼ぶ。
ベッドに横たわっていたイザベルは、しばらく返事をせず、ようやく顔をのぞかせた。
赤い瞳は泣き腫らした痕跡を隠せず、頬はやせ細っている。
「陛下……」
かすれた声。
ノアは寝台の傍らに進み出て、医師に視線を送る。
宮廷医が脈をとり、体温を測り、静かに報告する。
ユリアナはイザベルのそばで心配そうに控えている。
「……お体は弱っておられますが、母子ともに命に別状はありません。ただ、精神的な疲労が大きく、休養と栄養が必要です。ストレスは与えないように気をつけてくださいませ」
ノアは頷き、イザベルの肩に手を置いた。
「数日、寝込んでいたと聞いた。……心配したぞ。体は大丈夫か?」
イザベルの瞳が揺れる。
「お前とこの子を守るのは、俺の務めだ」
「本当に……私と、この子を……守ってくださるのですか……?」
その問いはかすかな震えと、すがりつく必死さを帯びていた。
「……当然だ。俺は……お前に救われた恩を忘れはしない。子供も必ず守ると前にも言っただろう」
言葉は真摯だったが、その奥にある皇后への想いをイザベルも感じ取っていた。
宮廷医は静かに下がり、ユリアナも部屋を辞して二人きりになる。
イザベルは唇を噛み、涙をこらえる。
「……なら、どうして……どうして、すぐに私のところに来てくださらなかったのですか?」
「すまない。執務に追われていたのだ」
「そんなの言い訳です!!陛下は私のことなんて、心配じゃなかったんでしょう!?」
「イザベル……」
彼の沈黙が、イザベルの胸に鋭く突き刺さる。
「お腹にいるのは、陛下の子なのに……私を愛していると言ったのは……あの時、抱きしめてくださったのは……あれは……、あれは全て幻だったのですか?」
イザベルの頬に熱い涙が伝う。
「……私は、陛下に愛されているのだと思っていました。出会った……あの時から……陛下と私は……運命だと……」
ノアは目を伏せ、息を吐いた。
彼女の赤い瞳に、絶望と怒り、そして捨てられる恐怖が混じり合って燃え上がる。
「……すまない」
「謝らないでください!」
イザベルは顔を上げ、赤い瞳から大粒の涙を落とした。
「謝られる方が、よほど惨めです……!」
その叫びに、ノアの胸も痛んだ。
だが彼が口にできる言葉は限られていた。
「……俺には、ルシェルがいる。だが、それでもお前と子を見捨てたりはしない。必ず守る。……それが俺にできる唯一の償いだ」
イザベルの肩が震え、嗚咽が洩れる。
「……償い、なんて……私はそんな言葉が欲しかったんじゃない……」
ノアはしばらく彼女を見つめ、やがて立ち上がった。
「……体を休めろ。必要なものは何でも伝えるといい」
彼は振り返らずに扉へ向かう。
その背中を、イザベルは掴みたい衝動に駆られながらも、手を伸ばすことができなかった。
扉が閉じ、静寂が戻る。
残されたイザベルはベッドの上で身を縮め、声にならない嗚咽を繰り返した。




