036
ルシェルは書簡を閉じ、深く息をついた。
「……ノアは……イザベルに何をどう話すつもりなのかしら?」
ノアと向き合うべきと分かりながらも、胸の奥で別の影――
ゼノンの眼差しが、どうしても消えてくれなかった。
「皇后陛下、大丈夫ですか?」
エミリアが心配そうに声をかける。
「ええ、大丈夫よ。いつもあなたに心配をかけてばかりね」
「いいえ、そんなことは…」
「ありがとう。今日は早めに休むわ」
「はい、それがよろしいですね!」
エミリアは微笑んだ。
それから数日もすると、ノアの体調も良くなり、宮殿内は落ち着きを取り戻していた。
そして、宮殿内では”皇帝夫妻の和解”という噂が広がりつつあった。
謁見の間でノアが政務に臨むとき、必ずその隣に皇后ルシェルが立ち、補佐の言葉を添えている。
その姿は凛として優美で、側近や臣下たちには「かつての二人が戻ったかのようだ」と口を揃えた。
イザベルは、ノアと話をしたあの夜から部屋に篭っている。
そして、しばらく滞在していた各国の使節団も、ようやく帰国の準備を始めていた。
***
ーー皇帝の執務室。
「陛下、お話がーー」
ノアは少し寂しそうに微笑んで、首を横に振る。
「君から“陛下”と呼ばれるのは、なんだか距離を感じるな」
「……そうね。じゃあ…ノア、今少しだけ時間をもらってもいいかしら?」
「ああ、どうした?」
「実は、璃州国との交易について相談があるの。使節団を迎える前に、あなたが交易の際には私の父を頼るのはどうかと言ったことを覚えてる?」
「……あぁ、覚えている。あの時は本当にすまなかった。君の気持ちも考えずに……」
ノアが謝るのも仕方ない、とルシェルは思った。
アストレア公爵は、まるで彼女を皇后にするためだけに育て上げたような人だった。
アストレア家は、代々この国に皇后を輩出してきた、由緒正しい家柄。
その誇りと威厳は大きな力となる一方で、娘に課せられる重圧は計り知れない。
幼い頃から厳格に育てられたルシェルにとって、公爵は畏敬の対象であると同時に、
恐怖そのものでもあった。父親の笑顔を最後に見たのはいつだっただろうかーー。
もしあの時、ノアに記憶があったなら――きっと、彼はあんな言葉を投げかけはしなかっただろう。
なぜなら、二人が初めて出会ったあの日ーーまだ幼かったルシェルは、涙で言葉を詰まらせながら、
父の厳しさと恐ろしさを彼に打ち明けていたのだから。
その記憶を思い返すほどに、今ここで謝るノアの姿が、切なくも痛ましく映った。
「……いいのよ。それでなのだけれどーー」
彼女はノアを真っ直ぐに見据える。
「父に手紙を送ったら、《アストレア公爵家として璃州国との交易を全面的に支援する》と返事をいただいたの。これなら宮廷を通さずに“商業取引”として進められるから、政治的なしがらみも少ないはずよ。璃州国は工芸や加工に長けているけれど、資源自体が不足しているわ。だから、こちらの鉄や銀を輸出して、その代わりに茶葉や絹を輸入したらどうかと思ったの。そうすれば、お互いに不足を補い合える。これまで私が個人的に仕入れていた茶葉も、今後は宮殿全体で扱えるようにしたいの。……どうかしら?」
ノアはしばし沈黙し、やがて深く息を吐いた。
「……なるほど。資源と技術の取引か。確かに、皇室ではなくアストレア家を仲介とすればーー角も立たないな」
ノアは、しばらく考え込んでから続けた。
「わかった。君の思うようにしたらいい。璃州国との交易の件は、君に一任しよう」
「ありがとう、ノア。では、私の方で交易について、璃州国と話を進めるわね」
「……あぁ、頼む」
ノアは何か言いたげだ。
「ノア、どうかしたの?」
ルシェルの問いかけに、ノアは聞きづらそうにしながら、そっと口を開いた。
「……璃州国の藍 永燈と随分親しくしているそうだな。それだけじゃなく、アンダルシアの王子の件もそうだが……君はもう少し、他国の使節と距離をとるべきだと思う……」
(……なるほど、そういうことね。でもーー)
「そのことに関しては、私の自由にさせてもらうわ。彼らは、私の大切な友人なの。辛い時、彼らにどれだけ支えられたかーー。だから、この件に関しては、あなたに何か言われる筋合いはないわ」
ルシェルのまっすぐな瞳に、ノアは怯んだように俯いた。
「……そうだな、余計な発言だった。すまない……ルシェル」
つい先日まで自分に冷たく接していたノアが、急に昔のノアに戻ったからといって、
これまでのことを無かったことにできるわけじゃない。できるはずがない。
記憶をなくしたことも、イザベルのことを大切にしていたことも、
事故のせいであって、ノアが悪いわけじゃないとわかっていても、
自分の中に蠢く負の感情を抑えることが難しかった。
今目の前にいるノアは、果たして以前と同じ人物なのだろうかーー
そんな考えすら頭をよぎり、息が苦しくなった。
「…じゃあ、私はこれで」
ルシェルは平静を保ちつつ、逃げるように執務室を後にした。




