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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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001 終わりの始まり

あの時交わした約束を、私は今でも覚えている。


愛しいあなたの笑顔、絡めた小指、誓いの言葉。


全て私にとって大切な宝物。


***


法廷は、奇妙なほど静まり返っていた。

磨き上げられた大理石の床には高窓から射す淡い光が落ちているというのに、

その明るさはあまりにも冷たく、まるでこの宮殿にかつて幸福が存在したことなどなかったかのようだった。


深紅の絨毯の上に、ルシェル・アストレアは立っていた。

白銀の髪は一糸乱れず結い上げられ、ライラック色の瞳はまっすぐ前を見据えている。

ヴェルディア帝国の皇后にふさわしい、気高さと品位に満ちた佇まいだった。

美しく結い上げられた髪も、隙なく整えられた礼装も、

最後まで皇后としての威厳を失うまいとする、彼女の矜持そのものだった。

けれど、その胸の内にあるものまで見抜ける者は、この場にはいない。

その細い肩に、どれほどの痛みと想いが積もっているのか。きっと誰も想像できないだろう。


ルシェルの正面には、夫である皇帝ノア・ヴェルディアが座していた。

その傍らには、イザベルが控えている。

腹にそっと手を添え、いたわるように撫でるその姿は、まるで自分こそが次の皇后であると周囲に言い聞かせているようで、ルシェルにはひどく白々しく見えた。

いかにも虫も殺せぬような儚げな面影。だが、それが仮初の姿にすぎないことを、ルシェルは知っていた。


列席した貴族たちも、誰一人として口を開かなかった。

ここにいるのは、この国の主要貴族たちばかりだ。

皆、表情こそ抑えているが、この場が尋常ならざるものであることをよく理解していた。


――離婚の儀。


それは皇帝と皇后の婚姻が、法に則って正式に断たれる瞬間だった。

高窓から差し込む朝の光の中で、ノアが口を開いた。


「ヴェルディア帝国皇帝、ノア・ヴェルディアの名をもって、ルシェル・アストレアを皇后の座より廃する」


淡々とした声だった。

そこにはもう、かつて彼女だけに向けられていた優しい眼差しはない。

名を呼ぶ時の穏やかな声音も、陽だまりのように包み込んでくれる温もりも、何ひとつなかった。

その事実を認めることは、心を鈍い刃で抉られるような痛みを伴った。

それでもルシェルは、睫毛ひとつ震わせずに立っていた。


ここで崩れるわけにはいかない。

皇后として生きてきた最後の誇りまで失うことだけは、どうしても許せなかった。

どうしてこんなことになったのだろうーー。

その問いに答えられる者は、誰もいない。

ただ、幾つもの偶然が重なった末の不幸だった。そう思うしかなかった。


「……わかりました」


自分の声が、驚くほど静かに響いた。


この日が来るまで、何度も考えた。

もしかしたら、最後の最後で、かつての彼が戻ってくるのではないか。

ほんの一瞬でも、あの頃の優しいノアが、自分を見てくれるのではないか。

だが、その期待はあまりにも淡く、そして脆かった。

それも当然だ。

いまのノアにとって、ルシェルはもう、愛すべき相手ではないのだからーー。


ともに過ごした日々も。

交わした誓いも。

指先に残るぬくもりも。

二人だけで分かち合った幸福も、全てーー彼の中では、過去のものになってしまった。

その胸にはただ、イザベルへの愛だけが植えつけられている。


(あなたは本当に……これまで私のことを愛していたの?)


そんな問いがふと、ルシェルの胸に浮かぶ。


(その愛は、本物だった?)


だが、そんな問いを抱くことも、今となってはもう無意味だった。


「ノア……いえ、皇帝陛下」


一瞬だけ、ノアの瞳が動いたように見えた。

それでも彼女は、言葉を止めなかった。


「これまであなたと共に過ごせたこと、心から感謝しております。

どうかお元気で。それから……どうぞ、お幸せに」


別れの言葉は、驚くほど穏やかに口をついて出た。

ルシェルはただ一礼し、背を向ける。


――その時だった。


出口へ向かおうとした彼女の前に、一人の青年が現れた。

ルシェルは足を止める。


見間違いかと思った。

けれど違った。

彼はまっすぐ、ルシェルだけを見ていた。

ーー信じられなかった。

なぜ彼が、今ここにいるのか。

二人はしばし、言葉もなく見つめ合う。

そして青年が、静かに口を開いた。


「皇后陛下……いえ、ルシェル・アストレア様」


若々しくも力のこもったその声に、一同は声の主を確かめた。

そこに立っていたのは、隣国アンダルシア王国の王子、ゼノン・アンダルシアだった。


一瞬にして法廷の空気が変わる。

先ほどまでの静寂が嘘のように、貴族たちがざわめき出した。


「……なぜ、彼がここに?」

「皇后陛下を……いや、元皇后をアンダルシアに……?一体、どういうことだ?」

「では、あの噂は本当だったのか?」

「やはり、皇后陛下は――」


けれど、周囲のざわめく声も、二人には届いていないようだった。

ルシェルは潤んだ瞳で、ゼノンを真っ直ぐに見つめている。


「私と共に、アンダルシア王国へ来てくださいませんか」


彼女はただ、目の前の青年を見ていた。

潤んだ瞳のまま、信じられないというように。


「……どうして」


ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。

ゼノンは、そんな彼女に優しく微笑み返す。

その微笑みはひどく穏やかで、けれど、その奥には決して折れぬ強さがあった。


「ルシェル・アストレア様」


ゼノンは、周囲の空気に呑まれぬまま、はっきりと言った。


「私の妻にーー。いいえ、アンダルシアの王妃になってくださいませんか?」


その言葉が大広間に響いた瞬間、空気が凍った。


「王妃だとーー?」

「なぜ王妃なんだ?」

「彼は王子だろう?」


貴族たちのざわめきは一度止まり、誰もが息を呑む。

あまりにも真っ直ぐで、あまりにも大胆な求婚だった。


ゼノンの瞳には、ためらいがなかった。

ただ一人、ルシェルだけを見つめている。

そしてルシェルもまた、その視線を受け止めた瞬間、冷え切っていた胸の奥に熱が灯るのを感じた。


「アンダルシアの王子、これは一体どういうことだ」


ノアがゼノンを訝しげに見る。

イザベルもまた、隣であからさまに眉を顰めている。

二人のその表情を見た時、ルシェルは不思議と少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

ようやく息ができた気がしたのだ。


ゼノンはノアに視線を向けることなく、ルシェルを見たまま言葉を続ける。


「言葉の通りです」


その声には、一切の揺らぎもない。


「そして、もう一つ。この場で申し上げねばならぬことがあります」


わずかに間を置き、彼は告げた。


「先日、私ゼノン・アンダルシアは、前王よりアンダルシアの王位を継承いたしました。

よって、今の私は王子ではなく、現アンダルシア国王です」


ゼノンの言葉に、再びざわめきが起きる。


「なっ……!」

「では、アンダルシア国王自ら来たというのか」

「他国の元皇后を王妃にするつもりだと?」

「王自ら、こんな場に現れるなど……!」

「まさかヴェルディアへ宣戦でも――」


法廷に、不安と興奮の声が一斉に広がった。

それでもゼノンは動じなかった。

視線を逸らさず、ただルシェルだけを見つめている。


「私があなたを守ります」


その声は低く、深く、確かな熱を帯びていた。


「永遠にーー」


その言葉を聞いた瞬間、ルシェルの中で、これまで必死に押し留めていたものが堰を切った。

涙が、ひとしずく頬を伝う。


ああ、自分は本当に、ここまで耐えていたのだとルシェルは思った。

もう誰にも、何も求めまいと、すべてを終わらせるつもりでいたのだと。

それなのに、目の前のこの人は、こんなにも真っ直ぐに手を差し伸べてくれる。

ルシェルは涙に濡れた目で、ゼノンを見た。


「……行きます」


その声は震えていた。

けれど、確かなものだった。


「アンダルシア王国に……行きますーー。あなたの妻として。そして、王妃としてーー」


その言葉が落ちた瞬間、ゼノンの瞳にようやく、抑えきれぬ安堵と喜びが滲んだ。

彼はためらいなく歩み寄ると、ルシェルをそっと抱き寄せる。

その腕は力強かった。

けれど、ひどく優しい。

まるで壊れものに触れるように髪を撫で、彼は耳元で囁いた。


「ありがとう」


息がかかるほど近くで、低く甘い声が落ちる。


「あなたを愛しています」


その一言に、ルシェルはもう一度、彼の胸の中で静かに目を閉じた。

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