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誰そ彼の貴方

作者: 雨藤優

寂れたビルの屋上。もはやその役目をきちんと果たすことができるかもわからない頼りないフェンスに手を掛ける。

中途半端に剥がれた塗装が切れ味の悪い刃物となって私の肌を切り、鈍い痛みを伴って少量の血が流れた。


 こんな痛み、たいしたことない。

 だって、今までずっと痛かった。





私は、未来を見ることができる。

明日起こることを予言するなんて造作もない。一か月後の天気も、一年後に誰と誰が結婚するのかも、時には目の前にいる人がいつ最期の時を迎えるのかさえ、私は知ることができる。いや、たとえ知りたくないと願っても知ってしまうのだ。


これが、自分だけに見えている景色なのだと確信したのは、年長の時のこと。


母が事故にあった。


親戚が集まり、曾祖母の卒寿のお祝いをした日のことだった。料理に使う調味料が切れてしまったらしく、母が買い出しを頼まれた。

車で買いに行くという母を、私は必死に止めた。

いっちゃダメ、ここにいて。けがをしてあるけなくなっちゃうよ――。

母を含め、その場にいた全員が、単なる子どものわがままだと思ったようだ。私の言葉は、母を引き留めるために六歳児が考えた精いっぱいのそれらしい理由であると解釈され、よく咄嗟にそんなの思いついたなぁ、たいしたもんだ、と笑いながら頭を撫でられ、誰にも相手にされなかった。

他の女たちは忙しくしていて手が離せない。男たちは祝い事の雰囲気を言い訳にして、すでに酒を飲んでしまっている。ごめんね、すぐ戻るから、と言って結局母は出かけて行った。


なんで、いっちゃうの。どうして、みんなわらってるの。


なんで。どうして。なんで――。


賑やかな時間が続いたのは、そう長くはなかった。

父の携帯に着信が入ったのだ。その表情から笑みが消え、次第に血の気が引いていくのを見て、何が起こったのかがわかった。



父が、母の手を取って泣いていた。

ごめん。本当にごめん、と繰り返しながら。

消えそうな声は、けれど、静かな病室に響き渡っていた。


しばらくして、叔父がふと思い出したように言った。

「この子、なんで事故のこと知ってたんだ」


その場にいた全員が、一斉にこちらを向いた。見開かれた目、ひきつった口元、不自然に固まった笑顔を見て、理解した。


 あぁ、みんなにはわからないんだ。




あの日から、私の世界は一変した。

私たち一家は、親戚の集まりに行けなくなった。

みんなから向けられる奇異なものを見る視線や怯えたような態度に、耐えられなかった。悪魔の子だと、言われたこともあった。


両親は、いつだって味方だった。

落ち込んでいる私を慰めてくれる以外は、前と何も変わらない態度で接した。未来が見えることは家族だけの秘密にして、私がほかの子たちと何ら変わらない日常を送れるように。

そうやってフツウを取り繕って、私を守ろうと必死だった。


母は、事故の後遺症で歩けなくなった。医者からは、あの事故にあってこの程度で済むことは稀だと言われたけれど、よかったね、なんて誰も言えなかった。

だって、みんな知っていたから。母が助かる、一番の方法を。穏やかな日常が続く、今となっては奇跡みたいな未来が、手を伸ばせば届く距離にあったのだから。


父も母も、自分を責めた。

あのとき、信じてあげられなくて、ごめんね。

私の手を取り、何度も何度も繰り返した。

あの日、父が母にそうしていたように。


みんなでひとしきり泣いた後は、またフツウの日常に戻った。






空が綺麗だった。フェンスを背にしてわずかな足場に立つと、視界を遮るものは何ひとつなくなった。

透明なアクリル板の上に、オレンジいろに染まった筆をさっと走らせて描いたような、そんな空。その色彩が、昨日テレビのコマーシャルで観た、胎児の映像を思わせた。



黄昏時。昼間の空が最期を飾るために用意された、特別な舞台。

世界から消える直前、心を揺さぶる眩い煌めきを、人々の脳裏に焼き付ける。まるで、これが自分の最期の時であると知っているかのように、命を燃やす。



あの人は、こうやって最期を迎えられただろうか。

嫌な考えが、頭を巡る。

きっと、無理だった。たいていの人間は、今日が人生最後の日になるなんてことを考えない。いつか、来ることを知っているのに、今日も変わらず、いつもと同じ明日を信じている。


明日が来ないことを、私だけが知っていた。


いつだって、そう。私だけが知っている。

甲高い声で笑いながら、クラスメイトをけなしていたあの子が、明後日にはクラス中から無視されることも、いつもバス停で会うあの人が、仕事で精神を病んでしまう未来も。


知っているのに、何もできない。

私には、未来を変える勇気も、覚悟もない。

いつも、見えている未来をなぞって生きているだけ。


あの日、一緒にいるところを見られたら、なんて考えずに、彼女を誘って帰ればよかった。暗い体育倉庫に閉じ込められて、彼女はどんなに怖かったろう。

あの時、変なやつだと思われても、部活を休んでと言えばよかった。あの怪我がなかったら、彼は最後の大会に出場できた。

変えられる未来は、たくさんあったのに。



私がもっと信用される人間だったら、母は今でも、父と手を繋いで歩けたのだろうか。



どうして、私なのだろう。

派手な子たちにびくついて、他人からどう思われるかばかり気にして、弱くて、臆病で、何もできない人間。

なのに、私だけが知ってしまう。

苦しみから逃れられる可能性を、助けられる方法を、私だけが知ってしまう。


私が、もっと違う人間だったら。教室で堂々と意見が言えて、みんなから慕われて、強くて、優しくて、信用される人間だったら、よかったのに。

私は、何もできない。



苦しい。


あの日からずっと、息をしている感じがしない。


痛い。


見えていた未来が、誰かの悲しい過去に変わるたび、身体の奥に痛みが走る。



私が助けなかった彼女が、彼が、あの人が。

私の首を絞める。ナイフを突き刺す。

どうして知らないふりをした、どうして何もしなかったのだと。

そう問いながら、悲しそうに笑う。






見下ろすと、地面は遥か下にあった。脚が震え、眩暈がする。

すべて、手放してしまいたい。何もできなかった過去も、未来をなぞるだけの毎日も、両親の願いも。

私は、フツウには生きられない。

全部、知ってしまうのだから。


今日ここに来ることも、知っていた。誰かに人生を操られているみたいで、吐き気がする。

それでも、ここに立ってしまう。

どうしても、逃げたかった。

この苦しみから。痛みから。



これで、終わりにできる。

静かに息を吐き、目を閉じる。


手を放し、体重をゆっくりと前に傾ける。

心臓がひゅっと締まるような感覚。



瞬間、身体に衝撃が走った。



背中がフェンスにぶつかる音。バランスが取れずに足を滑らせる。同時に、お腹に物凄い力が加わった。


後ろから、抱きしめられていた。

離すまいと力が込められた腕に、背中から伝わる優しい体温に、涙が溢れた。

どうして、と声がする。泣きそうな声だった。

振り返ったけれど、西日に照らされて、顔はよく見えなかった。


ずっと、苦しかった。

ずっと、痛かった。

誰かの過去に囚われて、弱くて、臆病で、何もできない。そんな自分に失望して、それなのに、いつも変われなくて。


そんな自分が、嫌いだった。


今日だって、そうだ。来なければよかったのだ。飛び降りようとなんて、しなければよかったのだ。

そうしたら、変われたのかも知れない。


けれど、私はここに来た。

未来をなぞることを選んだ。



 だって――。






「こうすれば、あなたに会えるから」




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