破滅への序章
ノアルミナの隣国。レイリア王国のウィアー子爵家には、男の子が生まれなかった。5代目であるオリバー子爵が亡くなり、長女のユールリアも行方不明。子爵家に残ったのは、子爵夫人であるケイシーと子爵令嬢のジョイスだけだった。
「あなたには、最高の人と結婚してほしいの。そうすれば私たち、もっと幸せに暮らせるわ」
ケイシーはジョイスを抱き上げて微笑んだ。ジョイスは不安そうな顔で母親を見つめていた。
「でも、お母様。お父様のことが他の人に知られたら……」
「大丈夫。お父様のことを知っているのは、私とあなただけだもの。あなたが黙っていてくれるのなら、誰にも知られることはないわ」
「お姉様は? お姉様も知っているわ。お母様がお父様を……」
娘の言葉を聞いた母親は、彼女に冷たい眼差しを向けた。
「ジョイス。あの子のことは忘れなさい。どうせもう、どこかで死んでいるんだから。それにお父様の体は川に沈んでいて、2度と見つかることはないの。そんなことより、これからこの屋敷に来るお客様を迎える準備をしておくのね」
ジョイスが俯いて黙りこんだ。ケイシーはジョイスを下ろして、彼女の頭を撫でた。
「お父様もユールリアも、最初からこの家には居なかったの。正しい形に戻っただけよ。いいわね、ジョイス」
ジョイスは無言で頷いた。ケイシーは娘を置いて、1人で先に応接間へと向かった。子爵家の前に馬車が停まる。その馬車には、王家の紋章が刻まれていた。ジョイスは物陰に隠れて、馬車から下りてくる人々の顔を見た。
(お母様は今日、私と王子様の婚約が決まると喜んでいたけれど……)
ジョイスは窓の近くを通って、応接間へと向かった。ジョイスはそっと応接間の扉を開けて、隙間から中の様子を見た。室内ではケイシーが長髪の青年と向かい合っていて、机の上には古い時計が置いてあった。壁際には他の人々が立っていて、長椅子には高価な服を着た男が座っていた。男は目を閉じて腕を組み、椅子の背もたれに体を預けている。ジョイスは室内に入りこんで、ケイシーに向かって声をかけた。
「お母様? 今日は、婚約の話をなさるのではなかったの?」
「婚約の話なら、問題なく進んでいるわ。第2王子様が、ジョイスのことを気に入ってくださったの。その長椅子に座っている方よ。彼はジョイスが大人になったら、正妃として迎えてくださると約束してくれたわ。あなたはそれまで待っていればいいの」
「そうなの? ……それじゃあ、お母様は今、何をなさろうとしているの?」
「今はお父様が遺してくださった物の中で、価値があるものを売ろうとしているの。この方はトリフォさん。異国と取り引きをなさっている貿易商よ」
ジョイスは戸惑ったような顔をして、壁際に立っている人々に近づいた。そこにいる人間は、誰もジョイスを見ていない。彼らが見ているのは、ケイシーがトリフォと呼んだ男だ。ジョイスは列になって立っている人の顔を1人ずつ、順番に覗き込んでいった。右端にいる細身の男が、自分の前に立ったジョイスを見て微笑む。彼は彼女と目を合わせるために屈んで、その耳元で囁いた。
「ねえ君、良かったら話を聞かせてくれないかな。ボクは王子様の従者なんだ。従者として、お妃様になる人のことを知っておきたいんだよ」
「……うん、分かった。あなた、お名前は?」
「ボクはキルシュ。よろしくね、お嬢様」
ジョイスはキルシュと名乗った男に向かって手を差し出した。男はその手を取って、彼女と共に応接間から出ていった。




