逃亡
「ティル。こっちに来て」
ユールリアがティルターシャの耳元で囁く。彼女はティルターシャと共に、壁に背をつけたままで移動した。室内に張られた糸が、意思を持ったかのように動きだす。ユールリアは窓の近くに立ち続けている男……トリシャに向かって叫んだ。
「ここに居なければならないのは私だけ。ティルは関係ないでしょ!」
彼女の言葉を聞いて、トリシャの動きが止まる。彼は無言で糸を引いて、ティルターシャの通り道を開けた。ティルターシャが戸惑ったような表情で、ユールリアに声をかける。
「で、でも。ユーは……」
「大丈夫。この人たちは、私を傷つけたりしないから。そうでしょ?」
ユールリアは微笑んで、ティルターシャの背を押した。ティルターシャはゆっくりとそこから離れて、入り口に向かう。キルシュがそれを見て、安心したようにナイフを下ろす。
「そうだね。お姫様がボクたちと大人しく待っていてくれるのなら、手荒なことをする気はないよ」
オスヴァルトが彼女の言葉を聞いて、目を見開く。
「どういうことだ? お前たちはローゼンフェルト家の依頼を受けて、私を連れ戻しにきたのでは……」
「ああ、君の家出のことか。ボクらには関係ないことだけど、依頼は受けたよ。君を連れ戻してくれってね。もっともあの人は、そんな依頼のことなんかどうでもいいって感じだったけど」
ティルターシャが入り口から出る。その瞬間に、ユールリアは壁の破片を拾ってトリシャに投げつけた。トリシャが即座に糸を使って、投げつけられた破片を受け止める。ユールリアはその隙に、ティルターシャのために開けられた道を抜けた。キルシュが目を細める。
「これはこれは。ずいぶんとお転婆なお姫様だね。でも、もう遅いよ」
扉の外。砦の入り口から足音が聞こえてくる。ユールリアは部屋を飛び出して、階段に近づいた。彼女は階段の上から、下を覗き見た。夜会服を着た少年が、階段を1段ずつ上ってくる。
(……やっぱり、知らない人だ)
ユールリアはそのことを確認した直後に、少年から逃げようとして階段を駆け上がっていった。オスヴァルトとティルターシャが真剣な表情で彼女の後を追う。
「あれ? あの娘、逃げていっちゃったよ。会えば分かるって言ってたよね、カズラさん」
「お前が彼の名前を出さなかったからだ」
「あ、そういうこと言っちゃう? だったらボクも言わせてもらうけど、そもそも君がお姫様を逃がさなければ、こんなことにはならなかったよね?」
キルシュとトリシャが口論しながら、開いたままの扉から出てくる。階段を上ってきた少年が、2人に向かって話しかけた。
「そこまでだ。2人がここで言い争う必要はない。キルシュが僕の名前を出さなかったのは、僕がそうしてくれと言ったから。彼女に名前を伝えたときの、驚く顔が見たくてね。それに彼女を逃がしたと言っても、この砦の出入り口は1階にある扉だけ。砦の上から落ちたとしたら、怪我じゃすまない。ユールリアは、必ずここに戻ってくるよ。だから、2人は扉を見ててくれる? 僕はこれから、彼女に会いに行くからさ」




