目安箱殺人事件 〜菱崎高校生徒会の事件簿〜
「では、第一回目安箱開封の儀を執り行います」
東副会長の大袈裟にかしこまった宣言が、雑然とした生徒会室に響きわたった。緩慢な動作で目安箱の南京錠の鍵をまわす東副会長を、凛とした声がぴしゃりと打つ。
「東君、いいから早く開けてちょうだい」
衛本生徒会長の言葉に、あたしは東副会長の手から目安箱を奪う。
「はい、開けまーす」
「日向川書記、先輩を敬えよ」という東副会長の情けない声は無視して、あたしは目安箱の蓋を開け、逆さにする。紙の擦れる音とともに、折りたたまれた白い用紙が雪崩のように机に広がった。
東副会長の手が、雪山から紙を拾う。
「あー、やっぱりいじめについての意見が多いね。『友達から外されてる』とか、『先生は見て見ぬふりして助けてくれない』とか」
「やっぱり、みんな衛本会長が君野さんのために学校と闘ったのを見て、頼りにしてるんですね」
あたしはそう言って、背筋を伸ばした衛本会長を見た。前髪を横に流し、艶やかな黒髪を高く結いあげたその姿は、高校生らしからぬ完成された凛々しさをまとっていた。あたしは本当に、衛本馨子先輩を尊敬している。
ひとつ上の先輩、君野遥さんがいじめが原因で休学したという噂は、あたしたちの学年にも届いていた。私は君野さんとの直接のかかわりはなかったけれど、胸糞悪い話だと思っていた。
君野さんのご両親は、学校のいじめへの対応を疑問に思い、抗議したらしい。けれど、学校側はいじめがあった事実自体を認めなかった。
先生にもいい人と悪い人がいるのを知っている。ひとりの人の中にも、いい面と悪い面があるのも分かる。それでもあたしはそのとき、大人って汚い、って思った。
そんな薄汚れた菱崎高校に差し込んだ光が、衛本先輩だった。
君野さんの友人だった衛本先輩は、賛同する生徒を率いて、校長に直談判した。それでも対応を変えない学校に、全校から署名を集め、粘り強く交渉を行った。
結果、校長は根負けし、いじめの実態把握のため全校アンケートが実施された。
さらに継続して学校と交渉するため、衛本先輩は『いじめと闘う生徒会』をスローガンに生徒会長に立候補し、過半数の票を集め当選したのだ。
「内容を優先度順に振り分けて、然るべき対処をしましょう」
衛本会長が毅然と言い、東副会長が頷いた。
「あとは制服についての意見が多いね。『紺ソックスの着用を認めて欲しい』とか『服装検査を廃止して欲しい』とか」
あたしも用紙を開き、書かれた文字を追う。
「『自由服登校にして欲しい』ってのもありますよ。うちの制服結構可愛いのにな」
「意見の是非はともかく、全てまとめていきましょう」
そのとき、東副会長が素っ頓狂な声をあげた。
「ん? んんんん?」
「何、東君」
「何か一個変なの入ってる」
「見せてください。何なに……」
あたしは身を乗りだし、東副会長の手元を覗き込む。
「『桶里校長を殺害する』? 何これ、殺人予告?」
「ちょっと見せてくれる」
衛本会長が東副会長から問題の用紙を受け取る。
「本当だ。脅迫状ね」
「え、これって、まずいやつ?」
仰け反って顔を引きつらせた東副会長とは反対に、あたしは目を輝かせた。
「目安箱殺人事件ですね!」
あたしの趣味は読書で、とりわけミステリが好きだ。殺人事件の予告なんて、滅多にお目にかかれないシチュエーションに気分が上がってしまう。
「いや、まだ誰も死んでないでしょ」と冷静に突っ込んだのは東副会長で、「二人ともふざけないで」と美しい眉間に皺を寄せたのは衛本会長だった。
「警察に連絡しましょう」
衛本会長の提案に、東副会長が目を瞠る。
「え、いやそれは……。まず、先生に報告じゃないか?」
「そうですよ。いきなり警察っていうのは……」
「でもこれは脅迫罪に該当する可能性があるわ。通報しないと」
衛本会長は賢いし芯が強いが、強情なところがある。あたしは彼女の気を害さないよう、できるだけ穏やかに取り成した。
「もちろん、警察に連絡する必要はあると思います。でも、相談なしに警察沙汰にするなんて、きっと先生たちいい顔しませんよ」
「刑事事件になるかもしれないのに、先生の許可が必要?」
自分の意見に固執する衛本会長の肩に、東副会長が手を置いた。
「ちょっと待ってよ、会長。いたずらの可能性の方がずっと大きいんだから」
「でも──」
「今後の方針を決めるためにも、少しあたしたちで推理してみませんか?」
とあたしが言ったのは、もちろん停滞した空気を変えるためでもあったが、ミステリ好きとして探偵ごっこをしたいという思惑もあった。初めて遭遇した殺人予告にわくわくしていたのだ。
「推理ぃ?」
と首をひねったのは東副会長で、あたしは不謹慎な好奇心を悟られないようにと強引に話を進めた。
「まず、本当に校長への殺意があると思います?」
意外なことに、真っ先にに探偵ごっこに乗ってくれたのは、衛本会長だった。
「……おそらく、ないでしょうね。だって、予告なんてしたら、殺人の成功確率が下がるじゃない。不意打ちの方が、きっと成功する」
「じゃあ、きっと殺人以外の目的があるってことか」
「目的って何でしょう? 自己顕示欲とか?」
あたしの問いかけに、東副会長が笑う。
「ないない。だって目安箱に入っていたんだよ? 今時ネットとか、もっと大勢の注目を集める場所なんていっぱいあるじゃん」
「目安箱は必ず生徒会が中身を見て、問題があれば先生に報告するわ。それによって引き起こされる騒動が目的だとしたら?」
「休校になるとかですか?」
うーん、と衛本会長は腕を組む。
「休校にはならないんじゃないかしら。校長先生の安全さえ確保できればいいんだから」
「それなら、先生を困らせたり、怯えさせたりかな?」
「まあ、それが妥当な線ですかね」
一応辿り着いた結論に、東副会長が声をひそめる。
「どうする? 揉み消す?」
「いいえ。目的はどうあれ、これはれっきとした脅迫よ。やはり警察に届けるべきだわ」
「先生に話を通さずに警察っていうのはなあ……」
「でも、先生たちを混乱させるのは、犯人の思うつぼですよね」
混迷する議論に終止符を打ったのは、衛本会長の一声だった。
「分かりました。じゃあ、直接校長先生に伝えましょう。校長先生が標的となっているんだし、判断を仰ぐの。それなら混乱は最小限に収まるでしょう。異論は?」
東副会長とあたしは首を横に振る。衛本会長は満足げに頷き、用紙を手に立ちあがった。
校長室に入るとき、あたしはいつも権威について考える。
桶里校長が私服を着ていたら、髪の薄くなった優しそうなおじいちゃんにしか見えないだろう。
けれど厳粛な雰囲気の校長室の中で、質のよさそうなスーツを着て、高そうな椅子に腰掛けている姿は、菱崎高校で一番の権力者に間違いなく見える。
「教えてくれてありがとう」
机を挟んで衛本会長の説明を聞いた校長は、気のよさそうな声で言った。
「だがこんなのは生徒のいたずらだよ。警察に届けるなんて大げさだ」
「でも、脅迫は犯罪ですよ」
食い下がった衛本会長を、腹の見えない笑顔でやんわりと躱す。
「しかし、学校の中のことに警察を入れるなんてねえ」
「これは校長先生への殺害予告なんですよ。怖いし、気持ち悪いですよね」
「子どもの冗談だ、可愛いもんだよ」
必死な衛本会長を見ていられなかったのだろう、東副会長が割って入る。
「校長先生本人が警察沙汰を望んでおられないんだ、僕たちでとやかく言うべきじゃないよ」
「でも……」
あたしも衛本会長にこれ以上傷ついて欲しくなくて口をはさむ。
「まあ、また犯人からの動きがあったら考えるってことにしませんか。校長先生、くれぐれも身辺には気をつけてくださいね」
「ああ、そうするよ。心配してくれてありがとう」
まだ納得がいかない様子の衛本会長の肩を、東副会長がぽんと叩く。それを合図に、あたしたちは退室するために桶里校長に背を向けた。
そのとき、あたしは視界の端で見てしまった。
桶里校長が、何やら机の引き出しの鍵をがちゃがちゃといじっているのを。
「失礼します」
廊下に出たあたしたちは、ふうと息を吐く。
「何を考えてるのかしら、犯罪なのに」
「それより見ました? 自分に危険が迫ってるからって、校長ってば慌てて鍵つきの引き出し開けてましたよ。何入ってるんですかね」
あたしが早口でまくし立てると、東副会長がへらりと笑って髪を掻いた。
「そりゃ、いかがわしいもんだろ」
「東君、言い方が下品だわ」
「副会長、最低」
「すいません」
はあ、とため息をもらし、「切り替えましょう」と衛本会長は言った。
「目安箱の中身の整理がまだ途中よ。今日中に終わらせてしまいましょう」
「はあい」とあたしと東副会長は返事をし、とぼとぼと生徒会室へと戻って行った。
深夜零時。下校時刻はとっくに過ぎたし、残業してた先生もさすがに帰っているだろう。あたしは先輩から代々受け継がれているグラウンドのフェンスの抜け穴を通り、土と草で汚れた制服のスカートを払った。
真っ暗な学校は、何だか知らない場所みたいだ。お化けや不審者が出たら終わりだなあたし、と思いつつ、台風で割れてから修理されてない美術室の窓から校舎に入る。
目指すは二階の校長室。携帯のライトで照らしながら、しんとした階段を上っていく。
予想通り、校長室の鍵は開いていた。
生唾を飲み込み、ドアを開く。ライトに照らされた人影が、驚いてこちらを振り向いた。
驚きはない。やっぱり、と思いつつ、あたしは静かに言った。
「殺人予告の犯人は、会長だったんですね」
「日向川書記……」
私服姿の衛本会長が、懐中電灯を片手に校長室に立っていた。反対の手には、何やら分厚い紙の束を抱えている。
「窃盗は犯罪ですよ」
あたしが言うと、自嘲するように衛本会長が笑う。
「予告状の脅迫もね。でもきっと、学校が揉み消すわ」
おかしいと思っていたのだ。脅迫状に対して、あんなに強く警察の介入を望んだ衛本会長。彼女は、君野さんへのいじめに対しても警察や弁護士を介在をさせることを主張していた。
衛本会長は試したんじゃないだろうか。桶里校長が、自らの危機に対しても学校の自治を優先させるのかを。
「何ですか、それ」
あたしは衛本会長が抱える紙の束に目を向ける。会長のもう一つの目的は、それを手に入れること。
「アンケートよ。いじめの」
衛本会長の訴えにより、全校生徒に実施されたいじめに関するアンケート。君野遥さんへのいじめの解決の糸口になるかと思われたそれは、実施後、学校によって隠蔽された。
「遥のご両親がいくら開示するように言っても、先生たちは全く掛け合わなかったそうよ。そのせいで遥へのいじめも闇に葬られたし、結局彼女は復学できず転校してしまった」
君野さんは、衛本会長の大切な友達だったのだ。だから会長はあんなにも君野さんのために尽力した。
「いくらクラスが離れていて事情を知らなかったとはいえ、私、遥のために何もできなかったわ。遥はまた一緒に学校に通いたいと言ってくれたのに」
「気持ちは分かりますけど、間違ってますよ」
衛本会長はあたしを睨みつける。
「間違ってるのは学校の方でしょう。何で私たちだけ正しく在らなければならないのよ」
「あたしのためです」
きっぱりと言ったあたしに、衛本会長が目を見開く。
「あたしは、正しくて真っ直ぐな会長に憧れて生徒会に入ったんです」
大人って汚い、と思っていた。
君野さんが休学した頃、あたしはクラスメイトから無視されていた。暴力を振るわれたり、ものを隠されたりしたわけじゃない。ただ、いないものとして扱われただけ。それでも、存在を無視されるたびに、心が摩耗し、腹の底に澱のような感情が溜まっていった。
担任に相談しても、「要するに、ただのケンカだろ?」と突き放された。「誰でも合う合わないはあるんだしさ、広い視野で別の友達を探してみろよ」と相談室から帰された。
そのときあたしは、ああ先生って生徒の味方じゃないんだな、と思った。
でも、あたしの世界に衛本先輩が現れた。
「君野さんのために学校を変えようと奔走する会長を見て、大げさだけどあたし、世界を信用できたんです」
衛本先輩の勇気ある行動に、あたしまで救われたと思った。衛本先輩に賛同する生徒や先生を見て、人間の全てに失望せずに済んだ。
「だから、会長がアンケートを盗むなら、あたし生徒会辞めます」
もっと毅然と言ってやりたかったのに、涙が滲んで声が潤んだ。困ったように、衛本会長が眉を垂れ下げる。
「……優秀な書記を失うのは痛いわね」
「それに、東副会長も悲しみますよ」
「東君が?」
穏やかで優しい副会長を思い出し、あたしは頷く。
「だって副会長も、正義感の強い会長のことが好きって言ってましたもん」
あたしは衛本会長の正面に立った。伝われ、伝われと念じながら、衛本会長の双眸を見据える。
「正々堂々、君野さんのために学校と闘いましょうよ。学校がいくら汚くても、衛本会長は綺麗でいてください。あたしも副会長も力を貸します。頼ってくださいよ」
結局、あたしのわがままなのだ。
会長の行為を断罪することなんて、できない。あたしが、会長に手を汚して欲しくないってだけ。
あたしを救ってくれた会長には、いつまでも格好いい先輩でいて欲しいだけ。
衛本会長はあたしの視線を受け止め、静かに微笑んだ。校長の机に歩み寄り、引き出しにアンケートの束をしまう。
「ありがとう、日向川ちゃん。私を止めてくれて」
「会長を支えるのが、生徒会の役目ですから」
泣きそうになるのをこらえて、あたしは言った。終わりじゃない。転校してしまった君野さんのためにも、これからもこの学校に通っていくあたしたちのためにも、まだまだ学校と闘わなければならない。
それでも、衛本会長を最後の最後で踏みとどまらせることができたってだけで、困難な未来にも希望があるように思えた。
暗い廊下を歩きながら、衛本会長があたしの手に自分の手を絡めた。彼女に頼りにされてるってだけで、あたしの胸の中は誇らしい気持ちでいっぱいだった。