表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

CASE1 菅池しおりの場合 ③

 その日は国語のテストだった。

 しおりは勉強はできる方だった。だからスラスラと問題を解いていたのだが、漢字の書き間違いに気付き鉛筆を止めた。


 そして焦った。

 ――消しゴムが、ない。


 昨晩、筆箱をランドセルに入れた時には確かにあった。

 小さくなったからと、ママが用意してくれた新品の消しゴム。この前のテストが百点だったご褒美の、お気に入りのキャラクターのもの。

 青い油性ペンで、しおりの名を入れてくれた。

 一限目の算数で初めて使う時、少し勿体ないような気持ちになったのも覚えている。

 それなのに……。


 頭が消しゴムの事でいっぱいになり、鉛筆はピタリと動かなくなった。

 どうしよう。新品をなくしたなんて知ったら、ママは悲しむだろう。もう二度と、あんなに可愛い消しゴムを買ってくれないかもしれない。


 焦るばかりで時間は過ぎ、テストは回収された。

 その後の休み時間。

 落ち込んだ気持ちのまま教室にいるのが辛くて、しおりは席を立った。

 そして、机と机の隙間を出口に向かっていた時。


 しおりは見てしまった。

 斜め後ろの席の男の子の机の上に、しおりのものと同じ消しゴムがあった。

 ……けれど、まだ大きいのにケースはボロボロに破れて、真っ白だった角は全部真っ黒になっていた。

 しおりは思わず足を止めた。


 その男の子の名は、圭人(けいと)

 クラスの中でも特に声が大きく、ガサツな性格だ。

 その時も、友達数人と大きな声で騒いでいたのだが、しおりが止まるのを見て、声を掛けてきた。

「何だよ、何か用かよ」

 心臓が縮み上がる思いだった。

 あまりクラスメイトと話す事もないが、圭人のような男子は特に苦手だった。

 それでも、笑顔で消しゴムを用意してくれたママの顔を思い出して、しおりは精一杯の声を上げた。


「……その消しゴム、私の……」


 蚊の鳴くようなしおりの声は、圭人のガラガラ声に簡単に掻き消された。

「は? 聞こえねーんだけど」

「その消しゴム、私の」

 しおりは絞り出すように繰り返し、圭人の机に手を伸ばした。


 その手を、圭人が思い切り払う。指を突いて、しおりは手を引っ込めた。

「消しゴム? これは妹のやつだよ」

「でも、名前が……」

 言うが早いか、圭人は消しゴムを取り上げ、裏側をしおりに向けた。

 ……そこは、鉛筆で真っ黒に塗り潰されており、名前は見えなかった。


「名前? そんなモンねーよ」

「でも、塗り潰して……」

「妹の名前が恥ずかしいから塗ったんだよ! 文句あんのか?」


 圭人の大声で、次々とクラスメイトが集まってきた。その視線が痛くて、しおりは顔を伏せた。

「おいおい、俺を泥棒呼ばわりするとは、いい度胸してるじゃねーか。証拠出せよ、証拠!」

 圭人の取り巻きは、面白おかしく「証拠! 証拠!」と騒ぎ立てる。その後ろの女子グループは、ヒソヒソとしおりを見ながら囁き合っている。


 耐えられなかった。

 せめて涙が(あふ)れるのを見られないよう、しおりは教室を飛び出した。


 こんな惨めな姿を、誰にも見られない場所。

 給食室の前の渡り廊下を走り、体育館を廻る。その裏に駆け込むと、しおりは顔を両手で隠して座り込んだ。

 冷たいコンクリートの壁に背を預け、半ば草に埋もれながら泣きじゃくる。

 誰も慰めてくれない、誰も味方してくれない、たった一人で。


 チャイムが遠くに聞こえた。

 でも、教室に戻る勇気はなかった。

 けれど、ここに座っていては、そのうち見付かってしまうだろう。


 ――その時、頭に浮かんだのは、草むらの奥。

 体育館の陰の薄暗い隙間にある、灰色の屋根。

 あそこなら、絶対に誰も来ないに違いない。


 その時、なぜか怖くなかった。

 それ以上に、劣等感が強く心を支配していた。


 しおりはチャイムが終わるのも待たず、体育館のすぐ横の、ガタガタとひび割れた側溝の蓋伝いに、草むらの奥へと駆け出した――。



 ***



 賽憂亭獄楽は、何も言わずに聞いていた。

 相変わらずの薄笑いを浮かべたまま。


 しおりは再び込み上げてきたものを拭うため、目にハンカチを当てた。

 すると獄楽は、しおりの前におしぼりを差し出す。

「目の腫れは冷やした方が良い」

 おしぼりを受け取ると、氷のように冷たい。先程とラムネといい、一体どこから出しているのか。


 そう怪訝に見返したしおりに、獄楽はニコリとして、文机の横に木桶を押し出した。

 氷水を満たしたそこには、ラムネやニッキ水の瓶が何本か浸され、そこにおしぼりが何枚か掛けられている。

「暑い時には、これが一番ですからな」


 ――本当に不思議な人だ。

 いや、獄楽だけでなく、この店が不思議な場所なのだ。


 コチコチコチと時を刻む柱時計の音が、全ての雑音を消しているようで、真の静寂とはこういう事を言うのだろうと、そんな気にさせる空間。

 エアコンどころか扇風機すらないのに、ひんやりと湿気を帯びた空気は、しおりを柔らかく包む。

 古臭いけれど埃っぽさを感じない調度品に、氷が割れた拍子にカチリと鳴るラムネ瓶。


 しおりの祖父母は幼い頃に亡くなり、それ以降行き来もなかったため、古い家屋というものを、彼女は知らない。

 そんなしおりでも、この空間の持つ強烈な懐かしさに(くる)まれると、どうしようもなくホッとした気分になるのだ。


 冷えたおしぼりを目に当てる。すると頭の中まで洗われるようで、しおりは思わずふぅと息を吐いた。

 満足気に口角を吊り上げた獄楽は、今度はニッキ水を彼女に差し出した。

 人工的な緑色をしたその液体は、なぜこんなにも清々しく心を和ませるのだろう。

 キャップを開け一口含めば、ピリッとした香味が舌を刺激する。


 この味わいの前では、涙の理由もささやかな事に思えて、しおりは獄楽に視線を戻した。

 彼は何も言わずに、しおりの言葉を待っていた。批評もせず、同情もせず、ただただ薄く笑みを浮かべて。


 その表情が、善も悪も、嘘も真も、全て受け止めてくれる気がして、しおりは再び口を開いた。

「まだ虫が多くいなくて、かといって凍えるような気候でもなくて、草むらの中を走っても、何の不安もありませんでした。けれど――」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ